第六章

6-1

 一月の騒動の直後、三日ほど学校に出て来なかった潮がやっと部活に顔を出したとき、まっさきに頭を下げたのは千尋だった。「ごめん、一方的に言いすぎた」と膝を折って潮の前で手をついた千尋に、潮は立ち呆けたまま目を丸くして、なんと返事をしようか迷ったように何度か言葉を飲み込んだ挙句、「千尋先輩のガチ土下座初めて見たんですけど」と言って笑った。

「一昨日集まったとき、森田と京に、さすがにあの言い方はないってぼこぼこにされてたぜ」

「え、なんすかその状況。激レアじゃねえすか、ちょっと見たかった」

 雅哉がからかい半分に潮にそう告げると、潮はいつもと同じようにそれを笑い飛ばし、数日ぶりに自分のロッカーを開いた。そこで一瞬押し黙った彼は、さきほどまでよりもこころなしか低い声で、「千尋先輩が謝ることじゃないです」と呟いた。

「先輩に言われたことは全部正しいし、俺が悪かったと思ってます。でも、なんか、まだ全然整理ついてねえこととかもあって、……すんません、ちょっと考える時間ください」

 ワイシャツのボタンを外す自分の手元を見ながら、潮は目を伏せてそう口にした。

「俺は、たしかに自分で向き合わなきゃなんねえことから逃げて、優都先輩に甘えてここにいるんですけど、でも、弓道好きなのもちゃんと真面目に最後までやりたいのも、嘘じゃないと思ってます」

 それはどこか自信なさげな口ぶりだったけれど、その言葉を黙って聞いていた優都は「うん」と目を閉じて浅く頷いた。

「知ってるよ」

 優都が潮にかけた言葉はそれだけだった。この三日間、潮がどれだけ必死に考え詰めたのかということも、それに答えを出すことが最初からできなくとも、この場所に戻ってこようとだけは思ったのだということも、優都はすべてわかっていたかのようだった。それでいて、潮がきちんと自分の行くべき場所に向き合っていくことから今度は逃げないはずだということも、優都はなにひとつ変わらず信頼していた。それが、四年のあいだ彼のかみさまだった男からのはなむけだった。


**


 春の兆しが顔を覗かせ始めたころ、弓道部にはひどく穏やかな時間が流れるようになっていた。閉じ切っていた空間の中で淀んでいた空気はわずかずつではあるが確実に入れ替わっていて、だれもがどこか落ち着いた表情で弓を引くようになった。優都は相変わらず人一倍の練習量を自分に課してはいたが、冬までの身を削るような焦りはすこしずつ吹き流され、徐々にではあるが調子も戻ってきているようだった。

「いままで全然気付かなかったんですけど、もっと会長く持ってもいいんじゃないんですかね、森田さん」

 三月の終わりごろ、四月初旬にある団体戦の関東予選に向けた試合形式の練習をしていたときに、思い出したように拓斗が優都に向かってそう切り出した。同じチームで引いていた優都と雅哉はその言葉に顔を見合わせ、何度か瞬きをした。

「え、僕、会短いかな。むしろ長い方だと思ってるんだけど」

「いや、いちばん引けてないときでも別に短くはなかったですけど。普通で考えて、ってだけで、たぶんやごろが来るのはもっと極端に遅いんじゃないんですか」

 自覚ありますか、と拓斗に問われて、優都は考え込むように宙を眺め、「どうだろう……」と言葉を濁した。

「十分持って離してるつもりだったけど、たしかに、そう思って離してただけなのかも」

「冬とかのときは、引き分けの型も崩れてたからあんま長くも持てなかったんでしょうけど。いまは他は悪くないと思うし、早気とかじゃなくて意識してできるんだったら、会以外でも、もっと時間使って引いてみたらどうですか」

 拓斗のアドバイスに、優都はすぐに「わかった」と頷いて的前に向かった。息を吐いた優都は、いつもの倍の時間をかけて弓を引き分け、見ているほうの呼吸が詰まるほどのあいだ、引き絞った弓を保ったまま的を見据え続けていた。それでも、決して冗長には感じなかった。優都が弦から手を離したとき、その射に視線をやっていただれもが、この時間は必要だったということをわかっていた。緩く風の吹く初春の空気をまっすぐに裂いていった矢は、そのまま、吸い込まれるように的の中心を射貫いた。優都は、弓を降ろしてもしばらく、矢が突き抜けたその軌道を眺めていた。

「よく気付いたな、おまえ」と雅哉が拓斗に声をかける。

「あのひと、わりと調子いいときやけに会が長いなと思って。俺と古賀さんがそもそも引くの早いから、微妙に前のめりになっててもわかんなかったんだと思うんですよ」

「焦ってたんだろうな……俺らに釣られてたってのもあんのかな」

大落おちですしね。俺ら時間かけないですし、森田さんが大前でもいいんじゃないですかね」

 優都はそのまま、四射中三射をほとんど同じ場所に中てて帰って来た。「どうでした?」と問う拓斗に、優都は一瞬言葉を詰まらせ、それから「ありがとう」と絞り出した。

「すごく、久しぶりの感覚だった」

「なによりっすわ」

 拓斗のぶっきらぼうな返事に、優都は笑みを浮かべてもう一度彼に礼を言い、「いい射だったな」と声をかけた雅哉に、久方ぶりの弾んだ声色で返事をしていた。


 その後も優都の調子にはある程度の浮き沈みはあったものの、どん底のような長いスランプを抜けることには成功したようで、四月に入ってすぐの関東大会都予選では、翠ヶ崎高校のBチームは都三位の成績を獲得し、翌月の関東大会への出場権を手に入れた。団体としては初めての上位大会の出場権獲得に喜ぶ雅哉の両脇で、優都は名状しがたい表情を浮かべていて、拓斗はさほどいつもと態度も変えずに不愛想な表情を保っていた。

「おまえらもうちょっと喜べよ。俺がバカみたいだろ」

「いや、なんだか実感がなくて――ここ一年負け続きだったからかな」

「二年前まで部員ゼロだった高校が、団体で都三位だぜ。胸張れよ、おまえの部だろ」

 雅哉にそう肩を叩かれた優都は、すこし頬を緩めて、「そうだね」と答えた。

「勝てるつもりだったんすけど」

 その隣で、拓斗が優都の手から入賞の賞状を奪ってひとつ息をついた。決勝トーナメントの準決勝、予選四位通過で一回戦を勝ち上がった翠ヶ崎の相手は予選首位通過の櫻林高校で、翠ヶ崎は一射の差で競り負けた。「僕もそれは悔しい」と優都がそれに便乗する。

「あとは、関東と都総体だけだな」と、雅哉が優都に声をかける。

 中等部からの内部生や、高等部からの新入生がまた新しく何人か入って来た部に、優都たちが居られるのはあと数か月だ。「もうあと二か月か」と答えた優都は、中等部の一年のときからずっと、翠ヶ崎の弓道部を背負っていない生活を知らない。

「やっぱり、インターハイに行きたいな。……僕も全国に行きたい」

 高校二年のあいだ、めっきり口にしなくなっていたその言葉を、優都は久しぶりに唇に乗せた。高校総体の出場枠は、個人で二枠、団体で二枠だ。都総体の団体戦は、三人ではなく五人で立を組む形式で、選手の少ない翠ヶ崎にとってはどうしても不利だ。個人戦二枠の候補は、いまのところ一人は圧倒的な実力差で櫻林の松原で、もう一人としては松原とともに全国選抜に出場した拓斗がかなり有力視されている。そのことは十分わかっていたうえで、優都はその決意を言葉にした。

「優都先輩も風間も皆中ならワンツーフィニッシュいけんじゃねえすか」

「それができたら団体でもいい線行く気がするけどな」

「たしかに。五人立久しぶりっすね、俺も頑張ります」

 雅哉の後ろから顔を出した潮は、いまのところ部内ではBチームの三人に続く不動の四番手で、都総体での団体戦のメンバー入りがほぼ確定している。「期待してるよ」と言った優都に、潮は大げさに胸を張って「任せてください」と大口を叩いてみせた。


**


 関東予選から都総体までの二か月、ようやく長いスランプを抜けた優都は、その時期中らなかった分を取り返そうとしているかのように練習を積み、その傍らで後輩たちとともに新しく入って来た一年生の指導や部の引継ぎの準備にも奔走していた。中等部時代から後輩に人気のあった潮や京の周りには、四月以降一年生が集まるようになっていたし、由岐は自分と同じ初心者として部に入って来た何人かの後輩によく慕われるようになっており、拓斗は人好きこそしない性格であるものの、その力強い行射とそれに裏付けされた実力に、後輩たちの憧れのまなざしを一身に受けていた。人数が増えて賑やかになった翠ヶ崎の弓道部を、優都はよく慈しむように眺めていた。

「なんだか、潮たちも一年生たちにとってはちゃんと先輩なんだなあと思うと感慨深いものがある」

「子がひとり立ちした親の感情かよ」

「心配しているわけじゃないんだけどね」

 大丈夫なのはわかってる、と千尋の横で肩を竦めた優都は、中等部時代からの後輩の射型を見てやっている潮に視線をやって、表情を緩めた。

「千尋、ありがとう」

「――なんだよいきなり」

 ふいに、そう口にした優都に千尋が眉を顰めると、優都は射場のほうをぼんやりと眺めたまま、わずかの時間、言葉を探した。ひとよりもゆっくりと時間を使わないと自分自身の世界と向き合えない彼が、本来であればそのために弓を引くことを必要としていたはずのこの男が、その余裕を一切失ってしまっていた時期のことを思い出す。優都がそういう人間であることを、だれよりも表に出そうとしなかったのは優都自身だ。

「おまえが、弓を引き続けてくれていてよかった」

 千尋のほうを振り返り、まっすぐ視線を向けて伝えられたそれは、優都には珍しく自分の感情以外のあらゆるものを排斥して形づくられた言葉だった。「嫌いだったらとっくに辞めてるよ」とわずかに眼を逸らして返した千尋に、優都は目を細めて微笑み、「そうだろうね」とだけ答えてまた射場に視線を戻し、「優都先輩、一瞬だけヘルプいいすか!」と自分を呼ぶ潮の声に応えてそちらに歩いて行った。

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