一枚
灰咲勇兎
一枚
葉っぱが落ちたら死ぬと思い込んでいた女が出てきたあの小説の名が何であったか。ずうっと、そればかり考えていた。
時間感覚がない。朝か夜かも分からない。
1Rの散らかった部屋の窓はカーテンで締め切られている。寝床代わりの天井の低いロフトは縮こまる自分を徹底的に甘やかす。静けさは安心の象徴であり、暗闇には愛が満ち溢れている。床へと繋がる小さな梯子は最後の砦。床は深淵、外は腐海。
ああ、あの小説の名はなんだったか。主人公は、肉体的疾患があったはずだ。あんな病気があれば、さぞ幸せだろうよ。なんてったって自然と死ねるからな。葉っぱが生い茂っていようが、すべて落ちていようが、お構いなしなんだ。それなのに都合よく生きながらえやがって。あの女、あの小説、あの作者、病は気からなどと言いたいのだろうか。では気が病の奴はどうしろというのだ。気の病など、葉っぱ1枚で治せというのか。
……それにしても、あの葉っぱはなぜ落ちずに残ったのであったろうか。
「君がもう少しだけ、人並みに卒なくこなせる人だったら。真面目だからもっと伸びたのだろうけどね。まあ、このご時世、いろいろな職があるのだから。若いし、そう気負わずね……。」
判子さえ上手く押せた試しがない。
文字を書こうとすればいつも手が震える。
自主の定義が怪しい自主退職の書類提出すら人並みに卒なくこなせないまま、たった1年でクビになってしまった。
知っていたじゃあないか。
もともと薬漬けの自分が、もともと欠陥品である自分が、もともと生まれるべきでなかった自分が、むしろ1年も働かせてもらえたこと自体おかしいのだと知っていたじゃあないか。
それがどうしてこんなにも悔しいのだ。どうしてこんなにも涙が出るのだ。どうしてこんなにも虚しさを感じるのだ。
求められているのは途中経過などではなく、最終結果であることなど周知の事実である。
更に大抵の場合、最終結果の良い者は途中経過だって良いのだから、そもそも自分が太刀打ちできる代物ではなかったのだ。
働かせてもらえていただけ、良かったじゃあないか。
裏で何と呼ばれていたのか。知っているじゃあないか。笑われて笑われて笑われて。もういいじゃあないか。考えたくない。考えたくない。考えたくない。やめてくれ。
どうやって帰宅したのか覚えていない。
帰宅してすぐ、家中の薬という薬をひっかき集めた。
安いウイスキーの瓶蓋を開け、そのまま口をつけた。
すべて飲み干し終えると、部屋を埋め尽くすゴミ袋の山を踏みつぶしつつ、ベッド代わりのロフトへ向かった。
ああこれが幸せか、人の云う幸せじゃあないか。
心地がいい、気持ちがいい。ふわふわとした空気に暖かな風。
そんなものが本当は存在しないことも頭の隅では解っていたはずだった。思考を無視できる力を得る方法を他に知らなかった。
……それにしても、こんな自分はなぜ生きているのだろうか。
隅でホコリをかぶっていた目覚し時計が示すには、どうやら4日間寝続けていたらしい。たった4日しか過ぎていないのか、などと悠長に独り言を言うも、さすがに気分が悪くふらふらとする。
この4日の間に、普通の人なら一体どんなことをしていたのだろう。
仕事をして金を稼ぐ。友人と酒を酌み交わす。家族と団欒の時を過ごす。恋人と愛を語り合う。それともひとりで趣味に興じるか。
自分はただひたすら薬を代謝させつつ寝ていた。それだけだ。自分にはいつだって、何もない。
電源の切られた冷蔵庫にはもちろん何もなく、貯蓄してあったはずのカップ麺も切れている。
こんなにも駄目なくせに一人前に腹は減る。
仕方なく、出たくもない外に出る準備をする。
伸びた髪。
やつれた顔。
くたびれた服。
すり減った靴。
……それにしても、なぜあの女は葉っぱに人生を決めさせようとしたのだろうか。
コンビニへと歩く。
その道には小学校と高校が一つずつある。連なる住宅、小さな公園。
自分の家からコンビニまでのルートには電信柱が8個ある。電信柱は立っているだけで人に恩恵を与える。立派なものだ。
たまに通る車も、下校途中の小学生たちも、犬の散歩をする老婆も、みんな自分のことを笑っている気がする。
気のせいであることが分かっていてなお、顔をあげることはできない。
世の中は笑い者が居て然るべきである。一介の自尊心は他者との比較で作られてしまうものなのだ。
コンビニへとついたものの、所持金は少ない。
カップ麺を1つ手に取り、レジへと並んだ。
次の職はコンビニはどうだろう――いや、覚えることが多すぎて難しいだろう――淡々とできる仕事はどこにあるのだろう――刑務所内の仕事はどのようなものなのだろう――刑務所に入ってしまったほうが楽かも知れない――ここのコンビニで強盗でもしてしまおうか――
くだらない思考の連鎖を重ねていたら、レジの番が来ていた。当たり前のように箸がつけられる。コンビニエンスとはよく言ったものだ。
美味しそうな匂いを放つレジ横の揚げ物を尻目に、コンビニから出ようとした。
ドア周りに貼られたポスターたち。
その中に、たった一枚、目を引くものがあった。
女性の横顔。
目の涙。
唇紅の色。
目線の先は……分からない。
時が止まったような気がした。
「どきなさいよ。」
帰ろうとする主婦に怒られるまで、自分が自動ドアの前で立ち尽くしていたことに気が付かなかった。
邪魔にならない場所に移動して、ポスターを眺めた。
絵の横には、地区合同展示会の文字、会場の地図、協賛会社の名前、そして開催期間。
自分がクビになったあの日から始まり、今日の17時がタイムリミットとなっている。
急げば、走れば、頑張れば、間に合う時間。
シャワーを浴び、着替え、外へと飛び出た。
結局カップ麺は放り出してきてしまった。しかしそんなことはどうでもよかった。
会場にはある程度じっくり絵を見ることはできる時間に着きそうだ。
電車に揺られながら目を閉じ、考える。
……それにしても、なぜあの一枚の絵にここまで魅せられたのだろうか。
会場は駅からそう遠くなかった。閉館まではまだ充分な時間がある。あの絵を探していくらか彷徨った。
一際目立つ場所に、その絵は飾られていた。
そりゃあそうだ、ポスターに選ばれるくらいなのだから。
絵の全体は思ったよりも小さく、印刷とは比べ物にならないほど細やかに描かれていた。
女性は泣いていた。しかし顔は寂しそうでもなく、楽しそうでもなかった。ただひたすら、静かであった。
絵の下に、題名が貼られていた。
「諦め」
何を諦めているのかは、絵からは推測できなかった。
恋だろうか、仕事や勉学だろうか、それとも。
その女性は何かを諦めて涙をこぼしている。それは確かに美しかった。
「もうすぐ閉館となりますが……」
スタッフにそう声をかけられるまで、ずっと絵を見ていたらしい。もう17時になりかけていた。
「こちらの絵、気に入られましたか。」
そのスタッフはニコニコと話しかけてきた。人と話すのはいつぶりだろう、うまく声が出せない。
「こちらはですね、19歳の美大生が描いたものでして。もうすでにここにはおらず、日本中を飛び回って絵を描いき売り上げています。期待の新人ですよ。こちらも本当に、素敵な絵ですよねえ。」
スタッフは朗らかに笑った。自分も、つられて笑った。笑ったが、笑えないと思った。
天才美大生?
何が諦めだ。
何を諦めたんだ。
何が諦めか分かってるのか。
充分に持ち合わせた人間が、諦めだなんて、自分は認められなかった。認めたくなかった。
しかし、この絵は美しかった。
確かに、この女性は、諦めている。諦めているのだった。そこには有無を言わさぬ説得力が存在していた。
……それにしても、なぜこの絵一枚のために体も心もここまで動いたのだろうか。
帰宅してすぐ、もらったパンフレットを眺めながら湯を沸かした。
この女性は、一体何を諦めたのだろう。
自分は何に対しても諦め続けてきたため、もうとっくに慣れきってしまって、泣いているのかどうかもよく分からなくなっている。
よっぽど、何かを期待していたのだろうか。この絵を描いた画家は、これほどの才能を有しながら、一体何を諦めたのだろうか。それとも、ただの想像で描いたのだろうか。それにしては力がありすぎた。
カップ麺の味はいつも同じだ。
いつも同じで居続けられるのは、才能だ。
常に変わり続けていられるのも才能だ。
自分には何もない。空洞だ。
当たり前のように芸術的要素などどこにもない。ただ、知らぬ人の描いた絵を見つめることしかできない。
けれども、この絵を見て、ここまで動いた。動けた。動かなければならないと必死になった。自分は生きていた。生きていたことを思い出した。生きてこの絵を見たいと確かに思った。諦めという題の絵を見るために、諦めずに動いた。
葉っぱ一枚で生き残る人。
絵一枚で生きていく人。
病気で死んでしまう人。
病気でも死ねない人。
世紀の天才、凡庸な馬鹿。
天才の諦め、馬鹿の諦め。
なんだか、笑いが込み上げてきてしまった。
思い出した。思い出したんだよ。あの葉っぱを。
あの葉っぱがなぜ落ちなかったか。
諦めかけた人々の最後の足掻きだったのだ。
生きてもいいか。生きてもいいさ。
死んでもいいか。死んでもいいさ。
諦めてもいいか。諦めてもいいさ。
足掻いていいか。足掻いていいさ。
明日は図書館へ行こう。あの本を借りに行こう。仕事も探そう。もしもできたら、あの絵を描いた方を調べてみよう。
……それにしても、その小説の名は何であったか。明日までずうっと、考えてしまおう。
一枚 灰咲勇兎 @haisaki_isato
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