第7話
目を開けて最初に見えたのは、森ではなかった。
この病室に、窓はない。あるのは、自分が横になっているベッド、ドア、小さな机、椅子に座った白衣を着た男性の背中。
首に手を当てる。傷は、ないようだ。
「おはよう」
白衣の男が椅子に座ったまま振り返り、僕に声を掛けた。
こいつは、友人と名乗っていた見知らぬ男だ。
「おまえは一体、誰なんだ?」
真っ先に浮かんだ疑念が、そのまま口から飛び出る。
男はしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「俺は…… いや、私は、君の担当の精神科医だ」
その言葉の意味を理解するには、僕の意識はまだぼやけ過ぎていた。
目を泳がせて混乱の渦に向かうとする僕を引き止めるように、男の静かな声が聞こえる。
「極めて有効な治療方法であると踏んでいた。会って日も浅い医者なんかより、親しい友人を名乗った方が、君の正気を取り戻せると考えた」
「正気……? 俺の正気って、それは何だ?」
「1年前に恋人を失ったという、真実だ」
「恋人……
「君の恋人は、1年前にチェーンストアの屋上駐車場で通り魔に刺された。それは、もう話したね」
「あれは…… ただの妄想じゃないのか」
男がゆっくりと首を横に振る。
「君は恋人を守れなかった罪悪感に苛まれ、自分が彼女を殺したのだという新たな妄想を生み出した。極めて稀な症状だ。普通なら、ありえない。だが、君の症状を悪化させていたある物を見つけた。先日、君の家にお邪魔した時に見つけた物だ。勝手に持ち出して失礼だとは思うが、拝借して来た」
男がそう言って立ち上がった時、この病室の中にもうひとつ、ある物が存在している事に気が付く。
小さなテーブルの上に置かれたその白い箱が、ぼやけた意識をノックしてくるようだった。
「ドリーム…… エンコーダー」
僕がかろうじてそう口にすると、男がゆっくりと近付いてくる。
「君が眠っている間、この機器についていろいろ調べた。これは数年前に、販売メーカーから自主回収が行われている」
「何故?」
「販売直後、ある重大な不具合が見つかった。もっと詳しく知りたかったが、メーカーはもう倒産して、関連企業も完全に消滅している。問い合わせようがなかった。だから、眠っている君にこれを接続し、直接調べさせてもらった。そして、ある事が解った」
男の目を見ながら、上体を起こす。
「解った事って、なんだ」
「この機器は本来、ただのオモチャに過ぎない。眠っている者の脳波を信号として捉え、予め決められたパターンの映像を信号の種類に合わせて組み合わせるだけの物だ。だが、おそらく、こんな拙い機器では、ろくにまともな脳波を読み取ることは出来なかったのだろう。機器本体に送られて来る脳波が微弱過ぎて、信号を変換するに至らない。だから、ある細工を施したと思われる」
「細工?」
「眠っている者の、交感神経を活発化させる電磁波だ。パッドから、その電磁波が睡眠中の脳に送られる。副交感神経を押しのけ、いわゆる『金縛り』が起こっている状態に近付ける。そして、脳波を乱し、強める」
「つまり……?」
「これは非常にまずい。こんな電磁波を睡眠中に繰り返し受け続ければ、人によっては、意識変容が起きる。君のように、自暴自棄になり、精神が衰弱している人間なら、尚更だ」
「意識変容……」
「幻覚を見るようになり、どれが現実で夢なのか認識する事が困難になる」
佐奈がいなくなり、眠れない夜が続いた。
僕は毎晩、ドリームエンコーダーをセットしてからベッドに横になり、佐奈と一緒にいた気になっていた。よく眠れた。そう思っていた。
「佐奈は、やっぱり、もういないんですね」
「辛いのは解る。君をずっと見てきた。だが、君が現実と向き合う事を、君の恋人も望んでいるはずだ」
「佐奈……」
全ては、自作自演だったのか。
佐奈を失った喪失感、守れなかった罪悪感に耐え切れず、ドリームエンコーダーによって現実から剥離した意識が、僕をあの幸せだった連休初日に閉じ込めた。友人を演じた医者から真実を告げられ混乱した僕は、ありもしない浮気をでっち上げ、自ら佐奈を殺害した妄想に捉われたのだ。
何もかも、全て僕の妄想だったのか。
だが、ひとつだけ心に引っ掛かっている事がある。
「先生」
「なにかね?」
「佐奈の、命日はいつなんですか?」
男は僕の質問を深く飲み込むように頷き、答えた。
「5月、6日だ」
なんて事だ。
苦しみに耐え切れず、正気を失い、佐奈の命日までも改ざんしてしまっていたのか。
「佐奈、ごめん。ごめんな」
再びベッドに横になり、目を閉じてそう唱える。
「もう、自分を責める必要はないんだ。君はまだ弱っている。もう一度眠り、ゆっくり休むといい」
「ごめんな。ごめん、ごめん」
途方もない喪失感が、涙となって溢れ出る。
佐奈に向ける謝罪の言葉を、止める事が出来ない。
僕は佐奈を守れなかった。
そればかりか、本当の佐奈を記憶から消し去り、幻想の中で作り出した佐奈と過ごしていたのだ。
全て解った。
だから、なんだというのだろう。
ただ、辛いだけなのは変わらない。
呪文のように唱え続けているこの謝罪の言葉も、もう、佐奈に届く事はないのだ。
もう、二度と。
ようやく到達した真実。佐奈は死んでいないと、そう信じて抗い続けていたつもりだった。しかし、結局は全て、現実を直視出来ずに崩壊した、僕の一人芝居だったのだ。
それが解ったところで、僕はまた、森に逃げ込むしかない。
だが、目を閉じても、もう森は現れない。
自我を保つ事すら許されないほどの悲しみ。
薄れ行く意識の中で、今はただ眠りたい、と、そう願った。
佐奈はもう、いない。
もう。
『わたしまだ、生きてるから』
確かにそう聞こえたと同時に、脳を握りつぶされるかのような頭痛が襲い掛かる。
「ああうっ!」
まるで引きずり出されようとしている脳を、頭の中に押し込めるように額を強く掴む。
白衣の男が、ベッドの上でのた打ち回る僕を押さえつける。
「しっかりするんだ!」
「違う……」
「君は正気を取り戻した。安心するんだ」
「違う! ウソだ! 佐奈は、まだ、生きてる」
意識の奥底をかき回す痛みが、そう言っている。
黙されてはいけない。信じては、いけないと。
「離せっ!」
両手で白衣の男を突き飛ばす。
よろめいた男の背中が、後ろのテーブルにぶつかる。テーブルもろとも倒れ込んだ男の目が、血走っているのが解った。
テーブルから離れて床を転がる、ドリームエンコーダー。
落下の衝撃で白い外装が剥がれ、内部の基盤が剥き出しになる。
「待て!」
そう叫んだ男が立ち上がる前に、ベッドから飛び降りてドアノブを掴む。
「開けるな!」
男の怒号を掻き消すように、僕は彼女の名を叫び、ドアを開けた。
「佐奈!」
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