第6話

 山から伸びる木々の輪郭がはっきりと見えて来た頃、フロントガラスに水が弾けた。

 ワイパーを作動させ、アクセルを踏み込む。


 すっかり緑に色付いた山々と同じく、僕の記憶も色を取り戻しているかのように思える。

 5月7日、僕は確かに、この山に来た。


 この先にあるはずの駐車場を目指して軽自動車を走らせながら、自宅を出る前に見たドリームエンコーダーの復元映像を思い返す。

 今は少しだけ落ち着いたが、あの時、僕は混乱の極みに達していた。

 森の中を佐奈と手を繋いで歩く、『僕』ではない男。佐奈さなに手を上げようとしている自分の幻覚。それらが否応なく視界に飛び込み、膨れ上がった疑念が僕を激しく動揺させた。

 削除された映像が、知らない男と佐奈が寝ている内容だったら、どれだけマシだろうかと、僕はそう考えていた。

 佐奈を縛り上げ、口をダクトテープで塞ぎ、ナイフを突きつけている僕が映っていたら。もし、そんな映像が流れていたら、僕の自我は今度こそ完全に崩壊していただろう。


 だが、復元映像に映っていたのは、そのどちらでもなかった。


 再生ボタンを押した後、ドリームエンコーダーのディスプレイには、ただ、佐奈だけが映っていた。


 それだけだった。

 たったそれだけの映像だったが、不可解な点がいくつもあった。

 佐奈は真っ黒な服に身を包み、苦悶の表情を浮かべながら涙を流していた。

 映像が終わるまで、僕はその顔から目が離せなかった。

 全ての悲しみ、後悔、思い出を噛み締めているかのような、胸が張り裂けるほどの泣き顔。

 たまらなく、愛おしくなったのだ。そして、佐奈をこの腕に抱きしめたくなった。その衝動が、僕をここに導いた。

 連休初日の、まだ夜も明けきっていない頃、佐奈はあの映像を見た。実際に佐奈が見た夢なのかどうかは定かではない。だが、あの映像を削除した佐奈の心境は、理解出来る。どう考えても、縁起の良いものではない。ましてや、連休初日の朝にあんな映像を見たら、僕だって、すぐに消しただろう。

 あの映像に、真実への手掛かりはなかった。だが、部屋の中で妄想を貪り続けていた僕の背中を押してくれたのは、確かだ。


「佐奈、もうすぐだ。もうすぐ、本当の事が解る」

 ハンドルを切って、だだっ広い駐車場に入る。

 この駐車場が車で埋まるのは、もう少し温かくなってからだろう。今はまだ、僕の他には軽自動車が1台停まっているだけだ。

 雨が強くなって来たが、傘は持ってきていない。

 車を降りるとすぐ、冷たい風が体に巻きつき、シャツの皺を伸ばした。

 佐奈が引っ張っている。比喩ではない。本当に佐奈が呼んでいるように感じた。記憶の中に宿った佐奈の心が、僕を真実へと導いているのだ。

 登山道に入ると、空に向かって高く伸びた木々の葉が、降りしきっているはずの雨を遮った。


 やがて、その場所は見えてきた。

 何の変哲もない、山の中の森だ。

 だが、ここは何度も、僕が想像していた森そのものだ。木の形、間隔、全てが同じだった。

 5月7日、隣には、佐奈がいたはずだ。手を繋ぎ、ここを歩いていたに違いない。


 認めたくない現実から逃れる為に、毎朝、妄想の中でこの森に逃げ込んでいたと、そう思っていた。

 しかし、実際はそうではなかった。逆だったのだ。

 逃げていたのではない。僕は、必死に、現実に近付こうとしていた。

 正気と共に失われた、ここで起こった真実を、取り戻そうとしていたのだ。


「佐奈…… ここにいるのか?」

 五里霧中の念を含んだ呟きに呼応するように、森の奥から現れたそれが、僕の足を早めた。

「あれだ」

 随分長い間放置されたような、朽ち果てた納屋。

「佐奈……!」

 吸い寄せられるように走り出す。

 足元が見えていなかったのは、体中の全神経が、視線の先にある納屋に向けられていたせいだろうか。右足の甲に鈍い感触がして、倒れ込む。

 何かに躓いた。

 そう理解し、立ち上がり振り返る。

 目の前にある真実へと進む僕を阻んだ物の正体を突き止めようと、地面を睨む。

 僕の鋭い視線に晒されているのは、土、そして一面に生えた雑草だけだ。他には、何もない。

「くそっ」

 服に付着した土を掃う事なく、再び納屋に向かって走り出す。

 納屋の扉に手を掛けた時、南京錠が目に入った。扉を開けようと腕に力を込めるが、鍵がかかっていて開かない。

「佐奈!? いるのか!?」

 納屋の中に届くように声を張り上げながら、扉を強く叩く。

 軋む音を立てながら大きく揺れる扉。腐食しかけている板で構成されたその扉が、わざわざ鍵を壊さなくても良いと訴えかけているようだった。

「待ってろ…… すぐに、出してやるから! このドア壊すから、下がってろよ!」

 助走をつけてから、全体重を乗せてドアに体当たりをする。その衝撃で折れて飛んだ木片が、左耳をかする感触がした。大きく傾いたこの扉を壊すのは、最早造作もない。

 もう一度、助走を取る。

 記憶にかかった靄を振り払うように、思い切り体を扉にぶつける。

 勢いよく納屋の中に倒れる扉。衝突の勢いで、僕の足がその扉の上に乗る。


 見えたのは、明かりのない、暗い空間。


 その暗闇の中に浮かび上がる人影が、僕から嗚咽を引き摺りだした。


「……佐奈」


 太い縄とダクトテープに拘束された佐奈の、細い首に突き刺さったナイフ。

 座ったままで宙を見つめる佐奈の目に光はなく、そこからこぼれ落ちている涙は、まだ乾いていない。


「ウソだ…… こんな」


 動かない佐奈に向かって一歩踏み出した瞬間、首に冷たい感触、そして僅かな痛みが走った。

 息が、止まる。硬直する体。

 佐奈から目を離さず、ゴクリと唾を飲み込んだ時、やっと状況を理解した。

 背後に立つ何者かが、僕の首にナイフを突きつけたまま話しかけてくる。

「やっと、ここまで辿り着いたな」

 耳にゆっくりと入ってきたその声は、これまでの人生の中で、おそらく最も多く聞いたであろう人間の声に違いなかった。

 佐奈でもない、友人と名乗っていたあの男でもない。

 僕の背後に立っているのは、僕。自分自身だった。


「思い出したか? 自分のやった事を」

 背後に立つ『僕』がそう質問する。

「僕は…… 何をしたんだ?」

 そう返す事しか、出来なかった。

「まだ解らないのか。よく見ろよ。ずっと探してた答えが、目の前にあるだろう」

「ウソだ」

「ウソじゃないさ。ショックだったんだろう。許せなかったんだ。信じていたのに、裏切って浮気をした佐奈に、痛みを」

「ありえない!」

「自分が一番よく知っているだろ。昔から、そうだった。ずっと、変わらない。人を傷付けたり、不安にさせたりする奴は、誰であろうと、許せない」

「佐奈に、こんな事……」

「相手が誰であろうと関係ないさ。これが俺の本質なんだ。いつかこうなるかも知れないと、ずっと思っていたんだろう。だから、必死で誤魔化し続けた。誰かれ構わず優しさを振りまいて、自分は『正義』であると思い込もうとした」

「違う」

「歪んでいるんだ。歪んだ正義感。いや、ただの、偽善者なのさ」

「違う!」

 振り絞る声と共に、痛みが走る。その痛みは、首の皮に食い込んだナイフによる物ではない。

 脳を鷲掴みにされるような激しい頭痛。


「現実を認める事が出来ないのなら、それでもいいさ。もう疲れたんだ。おまえに、ここに来て欲しかった。自分を正義だと思っているおまえに、全てを終わらせて欲しかったんだ」

 ナイフを持つ腕に力が入るのが解った。だが、肉に達したであろうナイフが生み出す痛みを掻き消す程に、頭に激痛が走る。

 痛みによって気を失う事を恐れ、声を吐き出す。

「こんな事…… 絶対にするはずない。そもそも、佐奈は、浮気なんてしていない」

「そう、信じたいだけさ」

「信じてる」

「なら、これは夢か? まだ、妄想の中で足掻いているのか」

「これは、現実じゃない」

 そう答えたのは、やけになっているからではない。

 確信があった。

「そう思うのなら、死ねばいい。そうすれば、目が覚める。だろ? さぁ、終わらせてくれ」

 目を閉じながら、ナイフを握る『僕』の腕を掴む。

 佐奈は、きっとまだ生きている。

 佐奈は、チェーンストアの屋上で殺されたのではない。あれは、僕の妄想だ。あの妄想の中で、エレベーターに乗った時、まさに今苛まれているのと同じ、激しい頭痛を感じたのを覚えている。

 自宅のパソコンで森の映像を見ていた時も、佐奈の隣を歩いている男が振り返る直前、頭痛が起きた。

 その後、ベッドに追い詰めた佐奈に手を振り上げる自分の幻覚を見た時も、全く同じ痛みが。

 間違いない。この頭痛は、サインだ。

 意識の底に埋もれた、本当の僕自身によるものか、それとも、僕の記憶の中に宿る、佐奈が教えてくれているのか。

『それを信じてはいけない』と、訴えかけているのだ。


「佐奈。必ず、助け出す。もう少し、待っててくれ」

 目を開き、絶命している佐奈を見る。

 直後、ナイフを握る『僕』の手の甲に両手を重ね、力の限り、切っ先を首に押し込んだ。

 一瞬の激痛。

 体を捻りながら、倒れ込む。

 霞む視界に、納屋の外の景色が映り込んだ。

 森。

 そこには、誰もいない。

 目の前が赤く染まる。

 意識が途切れるその瞬間まで、僕は佐奈の笑顔を思い浮かべた。

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