*


 果たして、応援団、吹奏楽部並びに野球部の各方面へ【吹奏楽応援へ向けて自分たちがどれだけ本気でいるのかを一般生徒へ公表するための有志を募りたい、賛同してくれる人は明日の午前八時十四分、ホームルーム開始の予鈴一分前にグラウンドへ】という連絡を伝え終わると、今日の集まりは解散となった。

 放送ジャックの案が出たときはどうなることかと思ったが、うまくまとまってくれて本当によかったなと、ひらりはほっと胸を撫で下ろす。

 大胆なことはしたいが、新たに人を巻き込むわけにはいかない。その点、応援団の〝声〟を使うという佑次の案には潔さとバカさ加減が絶妙な具合で混ぜ合わさっていて、胸のすく思いがする。アナログなのが、なんとも佑次らしい。放送ジャックの案を出してくれた大助に感謝だ。

 彼が突飛なことを言ってくれなかったら、明日も地道にビラ配りと署名活動をしていただろう。いや、どちらももう十分に目立っているから、インパクトは大きい。でもひらりも、それにプラスアルファでなにかできないかと思っていたのだ。

 ひと悶着あるのはいつものこと。でもそのあとは必ず、みんなで同じ方向を向ける関係がいい。ひらりは、さっきまでみんなが座っていた席を眺めながら、改めてそう思った。

 ――と。

「まだ帰んないの?」

「うわっ。や、八重樫……」

 突然声をかけられ、ひらりの心臓は軽く伸縮を止めた。もう全員生徒会室を出たものだとばかり思っていたのだが、どうやら景吾はまだ中にいたようだ。

「ごめん、そんなに驚くとは思ってなかった」

「いや、私こそ変にびっくりしちゃってごめん。なんか、最後の決戦みたいな気持ちになって、物思いに耽っちゃってて。もしかして、話しかけたりしてた?」

 まだ少々暴れている心臓をセーラー服の上からきゅっと掴んで尋ねると、景吾は少し笑って「いや」と首を振る。そして「これから時間ある?」と眼鏡を押し上げた。

「時間? ……うん。部活は、三年はほぼ引退したようなものだし、塾も休みだし」

「じゃあ、綿貫先生のとこ行かない? 最近は高総体やらなんやらで行けてなかったし、先生だってずっと気になってるはずだろ? 明日のことを話して驚かせてやろうよ」

 そう言って悪巧みをした子供のような顔で笑う景吾に、ひらりの顔にも喜色が浮かぶ。

「それいいね! じゃあ、浅石君も誘って……」

「いや、あいつはいい」

「え。あ、そうなんだ?」

「なんだよ、ちょっと残念そうだな」

 しかし景吾は、どういうわけか佑次を呼ぶことに難色を示した。口調も微妙に拗ねているように聞こえなくもない。前回のこともあって、綿貫先生のお見舞いといえば佑次も一緒という気がしていたが、そういえば別に佑次と三人で行かなければならない決まりはない。

「なにそれ。別に残念じゃないし」

 部活も二日休んだ佑次だ。弓を引きたくてウズウズしていただろうと思うと邪魔をするのも気が引ける。景吾の的外れな台詞に軽く鼻で笑うと、

「じゃあ、行こう」

「お、おう」

 景吾を促し、通学鞄を肩に掛けた。


 そうしてひらりと景吾は生徒会室をあとにし、鍵を職員室に返すと綿貫先生のところへ向かった。四月の終わり頃から一気に日が長くなり、梅雨に入った今月も、晴れの日は午後七時近くまで西の空に茜空が臨める。今は午後五時を過ぎたところだ。梅雨の晴れ間の今日はまだまだ空は明るく、吹く風は湿ってはいるが不快なほどではなかった。

 やがて病院の駐輪場に自転車を停めると、面会の旨を伝えて病棟に入る。

「おや? これはこれは。どうぞ入ってくださいね」

 綿貫先生は突然の訪問に驚いた顔をしたが、数瞬後には相好を崩し、ベッド脇にある椅子をふたりに勧めた。元気そうな先生に心の底から安堵の気持ちを覚えながら「失礼します」と椅子に腰を落ち着けると、にこにこと笑う先生にひらりと景吾も頬を持ち上げる。

 先生は、この間お見舞いに行ったときより顔色もよく、少しふっくらしたように見える。ここへ来るまでの間、景吾から「七月には退院できそうだって。よかったよな」と最新情報を教えてもらってはいたが、ひらりの素人見立てだと、今すぐにでも退院できそうだ。

「で、今日はまたどうしたんですか?」

 相変わらずにこにこと笑いながら、ひらりと景吾をそれぞれ見て先生が尋ねる。

 なにか話したいこと、相談したいことがあるとき、ひらりが真っ先に頭に思い描くのが綿貫先生のこのふんわりした笑顔と物腰柔らかな口調だ。もしかしたら景吾も、そうなのかもしれない。いつも涼しい顔をしてはいるが、一か八かの大博打を前にして、さすがに先生の顔を見て気を落ち着けたくなったのだろう。案外素直だ。景吾も人並みに高校生である。

 そんな景吾をちらりと横目で見ると、本人が口を開く。

「明日、全校生徒の前で俺たちの本気を見せるんです」

「……本気?」

「いろいろあったんですけど、吹部も野球部も野球応援に本気になってくれて、今は団長がビラ配りと、吹部のみんなが署名活動をしてくれています。でも、それだけじゃまだまだ足りないのが実際のところで……。本当に吹奏楽応援をやるのかって学校のみんなも半信半疑なままだし、教頭もなかなか首を縦に振ってはくれないんです」

「そうですか。状況は一長一短なんですね」

「はい。そこで、明日の朝、俺たち賛成派の有志で、グラウンドの真ん中から全校生徒に向けてどれだけ本気かを見せることになったんですけど……なんていうか、ソワソワと落ち着かないっていうか、ふわふわと地に足が付いてない感覚っていうか。アポもなしにご迷惑だと思ったんですけど、どうしても先生の顔が見たくなって、来てしまいました」

 そう言って苦笑を漏らす景吾は、このときばかりは平静ではいられないようだった。言葉どおりソワソワしていて、どこか心ここにあらずなところもあり、それでも必死にふわふわと浮いてしまいそうな気持ちを自分の中でひとつにしようとしている感じがした。

 物思いに耽っていたときのひらりも、そんな気持ちだった。絶対にやるんだと強い気持ちを持つ一方で、もう後戻りできない恐怖とか、本当に大丈夫だろうかという不安とか、そんなようなものがグルグルと胸の中を駆け回ってマーブル状だった。みんなが座っていた席を眺めて気を落ち着かせようとしていたが、なかなか思いどおりにはいかなかった。

 そんな矢先に景吾に声をかけられ、驚きのあまり心臓が一瞬仕事をやめてしまったが、景吾に誘われなくても、そのうち自分も先生に会いに行こうと思い至っていたに違いないとひらりは思う。そっと自分の胸に触れれば、景吾と同じ気持ちなのがわかる。

 変に浮ついたり舞い上がったりしてしまった気持ちを落ち着かせてくれるのは、やはり綿貫先生なのだ。先生は常に生徒の味方をしてくれる。先生に話を聞いてもらったら、恐怖も不安も迷いも葛藤も、全部勇気に――〝声〟に変えることができる。

「迷惑だなんて思うわけがないじゃないですか。話してくれて嬉しいに決まってます」

 不安げに俯いていた景吾の肩にそっと手を触れると、先生はその顔をしわくしゃにして微笑んだ。そのときふと、先生の目尻に薄っすら光るものが見えた気がした。自分だけ病床にいなければならない申し訳なさや、景吾は具体的には言わなかったけれど〝いろいろ〟に含まれている苦労、ここに至るまでにかかった負担や、自分が元気だったらひらりたちに負わせなくてもよかっただろう様々なことが思い偲ばれているのだろう。

 先生が責任を感じることはないのに……。ひらりの胸はぎゅっと詰まる。

「先生、私たち、最後までやってみせます。だから先生はもう少し養生して、元気になって学校に戻ってきてください。その頃には、学校中が吹奏楽応援に沸いてますから!」

 気づけばひらりは、椅子から立ち上がるなり声を張り上げていた。はっと我に返ったのと同時に景吾と綿貫先生の驚いた顔が目に入り、ひらりの顔に一気に熱が集まってくる。

 さらには病室にいるほかの患者の視線も方々から突き刺さり、恥ずかしさのあまり今度はひらりが目に涙を溜める番だった。勝手に盛り上がって恥ずかしい。もっとほかにやり方はあったのに、佑次の脇目も振らず突っ走る性格が乗り移ってしまったのだろうか。

「……あの。その……」

 ぐっと喉を詰まらせたまま、うろたえる。ここが大部屋なのも忘れてつい感情を先に立たせてしまって、めちゃくちゃ恥ずかしい。穴があったら入りたい気分だ。

「箱石さん、ちょっと見ない間にずいぶん頼もしくなりましたね」

 けれど先生は、椅子に丸くなって座ったひらりに温かな眼差しを向ける。

「……え?」

「やりたいことがわからなくて不安そうなというか、迷子のような目をしているときもありましたけど、今の啖呵を切った箱石さんの目はキラキラ輝いていました。先生は、生徒のみんなのその目が大好きです。教師をやっていてよかったと心から思える瞬間を箱石さんに感じさせてもらって、先生はもう元気もりもりですよ。退院後、楽しみにしてます」

「先生……」

「大丈夫です。大丈夫、きっと全部上手くいきます」

「はい。はい……」

 先生の前で泣くのは、これで二回目だ。しかも今回は間近で景吾が見ている。でも、ひらりは涙を止めることができなかった。先生に太鼓判を押してもらったことが、とにかくほっとした。大丈夫と言ってもらえると本当に大丈夫になって心が落ち着く。でもやっぱり、まだ不安も恐怖もあって、けれど先生はそれをわかった上でそう言ってくれたのだ。

「箱石」

「あ、あぢがどう」

 たまらず景吾が近くのボックスティッシュを差し出す。何枚か引き抜くときに見えたのだが、景吾はひらりから顔を背け、泣き顔を見ないようにしてくれていた。

 そんなキザったらしいところが腹が立つんだか、なんなんだか……。鼻をかみながら思わず「ふっ」と笑ってしまうと、顔を背けたままの景吾もつられて「ふっ」と笑った。綿貫先生は、そんなふたりの様子に目尻に涙を光らせ、柔らかく微笑みながらそっと見守ってくれていた。

 時間にすると三十分もいなかったが、とても穏やかで温かな時間だった。

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