「つーかさ、西窪はどっちの味方なわけ?」

「へ?」

「吹部と団長と、どっちなの」

 すると、中島が極論を投じてきた。普段なら個人練習をしているこの時間にまだ音楽室にいなければならない苛立ちが声の端々から感じられる、そんな口調だった。

 直後、金管パート全員の目が、なずなに向く。特に反対意見の三人の目が厳しい。

「どっちって、そんな……」

「俺はぶっちゃけ、北高はバンカラ応援の高校だし、吹奏楽に集中できると思ってここに入ったんだよね。悲惨らしいよ、ほかの吹部は。大会も近いのに、勝ち進めば勝ち進むだけ応援に駆り出されて練習の時間が削られて困るって。まあ、何十人っている吹部なら、吹奏楽の大会に出る選抜メンバーとその他に分けて、その他の部員を野球応援に回すこともできるけどさ。だって規定人数とかあるし。でも、こっちはたったの十五人でしょ。未経験者もいるんだし、そっちの指導のほうが大事じゃん。俺、これ以上揃えてほしい楽器が減らされるんだったら、さすがに黙ってらんねーわ。マジふざけんなって感じ」

 すぐには答えられずにいると、中島がさらに厳しい口調で言った。

「みんなの意見の多いほうを取るっていうのは、部長としては間違ってないと思う。けど、たまにすげーイライラするんだよね。じゃあ西窪はどう思ってんのって。そこが全然見えてこないんだよ。結局はそれって、なんにも考えてないことと同じなんじゃないの?」

「っ……」

「ちょっ、中島言いすぎだって」

「だってさ……」

 中島の声を聞きつけた愛が慌てて間に入ってくれたが、後輩の見ている前ではずかしめられたこと、傷ついたプライドや、これでも仲良くやってきたつもりでいた中島が本心ではそんなことを思っていたんだというショックから、なずなの目にみるみる涙が溢れていった。

 練習に一番熱心なのは中島だ。みんな、それはわかっている。なずなも中学からトランペットを吹いてきたので自分ではそこそこ上手いほうだと思っていたが、中島はなずなの次元を軽く超えて上手い。教わることもたくさんあって、実力ではとうてい敵わないのだ。

 部長はなずなだが、影の権力者は中島だと誰もが一目置いているのは空気でわかっていた。そんな中島に面と向かってあんなことを言われたら、返す言葉がなくて当然だ。

 急に人と関わることが怖くなる。自分がいらない存在に思えてくる。いつも一緒にいる愛も、浜田や竹吉、田巻や広瀬、高田や鬼澤、それにほかの部員も、みんな自分のことを本心ではどう思っているんだろうと疑心暗鬼になってくる。顧問の先生も、両親も姉も甥っ子の海斗も、団長や生徒会のみんなも、本当は私のことをどう思っているんだろう。浮かんでは消える自分と関わりのある人たちの本心が、もう怖くて怖くてたまらない。

「なずな、中島はただ生徒会や団長にイライラしてただけで……」

 気遣わしげな愛の声が煩わしくて耳を塞ぐ。

「ただの八つ当たりだって。……ね? なずな」

 愛の同情が惨めな気持ちに拍車をかける。耳を塞いでも入ってくる声が本当にうざい。それを後輩にまで聞かれていると思っただけで、自分ばっかり可哀そうだ。

 心の中では、様々な感情が渦巻いていた。

 平均点女子はこういうとき、誰の神経も逆撫でしないように口を噤み耐え自分が悪いのだと謝るのが定石だ。歯向かわず、こちらの言い分も述べず、相手からぶつけられる感情をそのまま受け止めて言いたいことを言わせ、向こうの感情の高ぶりが収まるのをただ耐え忍んで待つのが、手っ取り早く場を収めるための最短ルートである。

 それでももう、なずなも限界なのだ。十八歳の心は簡単に崩壊する。

 ――私は人をイライラさせるんだ。だったらいなくなったほうがいいでしょ。私なんていらないんでしょ。こんな嫌われ者なんて、さっさとここから出ていけばいいんでしょ。

 そこまでの極論に到達するのに、時間なんていらなかった。

「じゃあもう勝手にやれば⁉ 私だって本当は、こんな面倒くさいことやりたくないよ! でも、頭を下げられたら仕方ないじゃない! 生徒会の言うことも聞かなきゃいけない、みんなの意見も聞かなきゃいけない、結局私ばっかり板挟みじゃん! こんなんだったら、もう私はなにも言わない! そんなに私にイライラするんだったら、中島が部長になって今言ったことをそのまま生徒会に言ってくればいい! まだいるはずだよ、行けば⁉」

 なずなは椅子を倒しながら立ち上がり、体は中島に、びしっと伸ばした人差し指は腕ごと音楽室の出入り口に向けて大声を張り上げた。もう本当に限界だった。文句ばかり言って手伝ってもくれない中島にも、たかだか吹奏楽応援ごときのためにいちいち生徒会室に呼ばれることも、空気を読んでくれないことも、わからないと言っておけばいいだろう、まだ二年だからと立場の軽さを隠れ蓑にしていることも、全部が全部、もう限界だ。

 思えば、部長になったのだって、みんなに担ぎ上げられたようなものだった。そのときはなにも言わなかったが、面倒くさいから私に押し付けたんでしょとずっと思っている。だったらいったん白紙に戻したらいい。全部壊して、私抜きで決め直せばいい。

「……」

「……っ」

 なずなの怒号に、愛と中島が揃って息を吞んだ。まん丸く目を見開いて、思ってもみなかったことを言われているような顔で、激高するなずなの顔を凝視している。

 なんでそんな、自分のほうが傷ついたみたいな顔ができるんだろうと思う。言わずに黙っていたことならこっちにだって山ほどあるのに、まるでなずなのほうにはなにも言いたいことがないと思い込んでいたような、そんな顔がどうしてできるのだろうか。

「――あっ、なずなっ!」

 直後、愛の呼び止める声を無視して音楽室から駆け出す。トランペットのケースはまだ開けていない。通学鞄も持った。まったくもって完全なる衝動的なブチ切れかただったが、あとのことは頭の中が妙に冷静だったおかげで、帰る手順に狂いはなかった。

 ただ名前を貸しただけなのに、なんでこんなことにならなきゃいけないの。

 なずなの涙は止まらない。

「……っ」

 あとからあとから頬を伝い落ちてくる涙を手の甲で乱暴に拭って、階段を一気に駆け下りていく。頬に触れるたびに、そこがびっくりするくらい熱くて驚く。そのせいで、自分が今、どれだけ部長らしくないことをしているか、冷静さを欠いているのか嫌でもわかってはっとする。でも、涙も拭わなきゃならないから触り続けるしかなかった。

 本当はわかっている、こうなったのには自分にも責任の一端があることは。だって、どっちにもいい顔をしようとした結果がこれなのだ。昔読んだ童話の中のコウモリにでもなってしまった気分だ。もうこれからは誰の目にも触れないところで静かに過ごしたい。

 けれど、中島の気持ちもわからなくはなかった。こちらが出した条件はすでに却下されている上に再度見直してくれと言われた日には、そりゃ面白くないに決まっている。

 なずなもイライラしていたが、同じように中島もイライラしていたのだ。生徒総会からもうかれこれ一ヵ月、なんの進展もないまま宙ぶらりんの状態の中、吹部は吹部で大会に向けての準備を進めなければいけない――それがどんなにストレスになることか。

 気持ちがぶつかり合ってしまっただけ、それがたまたま今日だった。それも頭ではちゃんとわかっている。けれど、喧嘩両成敗とはとうていいかない気分であるのも確かだ。

「あんな言いかたってないよっ……!」

 楽器の音のしない校舎内を駆け抜け、靴を履き替え外に出ると、なずなは今日も校門前で下校生を相手にガラガラの声を張り上げてビラ配りを続けている団長の脇を闇雲に走り抜けた。行き先なんて、もうどこでもよかった。ここではないどこかなら、どこでも。


 *


 それから二日ほどして、吹部が正式に野球応援を辞退したという話を愛から聞いた。

 あれから部活には顔を出していないので詳しいことはわからないが、どうやら中島の意見がとおって、吹部は例年どおり、大会に向けてだけ活動していくことに決めたらしい。

 その間、事情を聞いた顧問からは何度も部に戻ってくるように言われた。同じクラスなので愛からも気遣わしげに「中島も反省してるしさ……」と言われている。団長や生徒会はまたバタバタしはじめ、しきりになずなにどういうことかと問うてくる。

 けれどなずなは、もうどうでもいいと思うところまで気持ちが落ちてしまっていた。

 大会のこともどうでもいいし、野球応援のことなんて、もっとどうでもいい。どうせ私はコウモリ少女、生徒会にも吹部にもいい顔をしたツケが回ってきたんだろう。最後は爪弾き者になるんだったら、先にこっちから周りを弾けばいいだけだ。

 そう思っているほうが、ずいぶん楽だったのだ。

 トランペットのケースは、もう開けられない。吹ける気もしなかった。だって、いつの間にか本格的になった梅雨の湿気に負けて、髪だってうねうねでみっともないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る