■6.なんにも考えてないことと同じなんじゃないの? ◆西窪なずな 1
「あの団長、まだひとりでやってんの? 今日でもう何日目だっけ?」
「……二週間弱かな。夏服もけっこう着慣れてきたし、だいたいそうなるんじゃない?」
「はあ~、よくやるなぁ~」
感心しているんだか呆れているんだかわからないような相づちをして、なずなと同じ吹奏楽部員の
彼女は副部長を務めてくれている。打楽器パートのパートリーダーで、先月、楽器の購入リストを作るときも率先して手を貸してくれた。可愛らしくカットされたキノコヘアが今日もシイタケみたいに膨らんでいる。ちょっと美味しそうだ。
数メートル下では、今日も団長がたったひとりでビラを配り続けていた。登下校時に生徒の大多数が通る校門前を攻めることで、吹奏楽応援に賛同する声を集めようとしているらしい。六月も十日を過ぎた今日も、団長は代々受け継がれてきたボロボロの学生服と学生帽に身を包んで下駄を履き、登校する生徒ひとりひとりを捕まえて全部手書きらしいそれを手当たり次第に配っている。スズメも驚く野太い声は、もうガラガラに枯れていた。
それでも、「よろしくおねしゃす!」とか「押忍!」とか、朝夕とわりとうるさい。三年の間では、団長の奇行とも呼べるそれをベランダから眺めるのが最近の日課となっていて、ホームルーム前のこの時間も、なずなや愛のほかに同級生の姿がちらほら見受けられた。
「で? なずなは手伝わないの?」
「なによ、その期待してる目は。ビラ配りがはじまるときに団長から言われたんだよ、吹部や野球部や生徒会、それと自分以外の団員は、サクラだと思われたら困るから俺に近づかないでくれって。それを忠実に守ってるの。別に意地悪したくて傍観してるわけじゃないよ」
ニヤリと笑った愛にそっぽを向いて答える。副部長だから愛もその話は聞いているくせに、彼女はいったい、なずなになにを期待しているというのだろうか。
そうだよ、吹部はあくまで応援団に名前を貸しただけで、どうなろうとあとのことはそっちに任せてある。大会の練習もはじまったし、吹部は吹部のことだけ考えていればいい。
課題曲と自由曲、大会までに二曲、仕上げなければならないのだ。なずなたち三年生にとってはこれが最後の大会になる。あっちにもこっちにも手を出した挙げ句、吹部のほうこそ悲惨な結果で終わりたくはない。団長には悪いけど、ひとりで頑張れ。
「でもさあ、ちょっと青春だよね。あそこまで本気になれるものがあるって、なんかバカだけどバカじゃないっていうかさ。ちょっと胸がキュッってなっちゃわない?」
「えー? なるかな?」
「ならないかな?」
「私は……父親が北高出身だってこともあって、吹奏楽応援には否定的だからなぁ。やっぱり、吹部は名前を貸しただけって気持ちが大きいかもね。よく頑張るなーとは思うけど」
ビラ配りがはじまったことを告げても、父親はやはり否定的だった。全部手書きで、団長が毎日たったひとりで配っていると言っても、困ったように笑って「でもなぁ……」と言葉を濁すだけ。父親自身も応援団だったという話ではないようだが、きっとバンカラ応援にとても思い入れがあるのだろう。ビラ配りがはじまって二週間弱が経った今では、なずなも無理にその話はしなくなった。大会のことだけ気にするようにしている。
「そっかぁ。逆にうちの親はそういうのに乗り気なところがあるから、もし本当にやることになったら球場に見に行くって言ってるよ。親の意見もいろいろなんだね」
「だねー」
とりわけ、西窪家の場合は、長女の鈴菜が生まれてからなずなが生まれるまで、十年の間が空いている。愛とは同級生だが、親同士は、なずなの親のほうが十年ぶん親としても人間としても先輩だ。年代によっても考え方は違う。きっとそういうことなのだろう。どちらがどうということではないが、そのためなずなも、わざわざ伝統を変えてまでやる必要があるのだろうかと、父親の意見に同意を覚えてしまう部分が少なからずあるのである。
「あ、まーた教頭だ。団長も頑張るけど、教頭も頑張るねー」
それから少しして、登校する生徒も途切れはじめた頃、見計らったかのように教頭が団長に近づいていく姿が目に映った。より傍観者らしいのは、むしろ愛のほうなのではないかと思う。彼女の口調は面白そうでいながら冷やかしが含まれている気がする。
とはいえ、そんな彼女と並んで下の様子を見ているだけのなずなも、同じようなものだ。
近づくなとは言われたが、ビラ書きくらいなら手伝えた。やろうと思えば、こっそり差し入れをすることだってできたのだ。胸の奥だって、本当はちょっとキュッとなる。
でも、それをしなかったのは、父親が否定的だからという大義名分があったからだ。手を貸したら厄介なことになることはわかっていた。極力関わりたくない教頭にだって目をつけられてしまうかもしれない。部長という立場もある。人生の平均点を狙って生きようと思っているなずなにとっては、こんなところで変に悪目立ちしたくなかった。
校門前の攻防が聞こえてくる。
「もう十分でしょう、早く校舎に入りなさい」
「いや、でもまだ登校してくる生徒もいますし、もう少し粘らせてくださいよ」
「そういうことを言っているんじゃないんです。学校の品位に関わると言ってます。実際に近所の方や保護者からも、あれはいったいなんだと問い合わせがあるんです。北高の名を汚すような真似は慎みなさい。卒業生や入学してくる生徒の顔に泥を塗るつもりですか」
「まさか。そんなつもりはないですよ。迷惑をかけているのはわかってます。でも、どうか先生、もう少しだけ。もう少しだけ目をつぶってもらえませんか。おねしゃす!」
「頭を下げればいいってもんじゃないんですよ! もう知りません!」
「あざーっす!」
教頭も教頭だが、団長も団長だ。のらりくらりとかわしつつ折り目正しく頭を下げられては、さすがの教頭も〝生徒の自主性〟を重んじる観点から、団長の行動を頭から否定するのは気持ち的に憚られるらしい。決まり文句の「もう知りません!」を校門前に響かせると、教頭はひどく面白くなさそうな顔をして職員玄関のほうへと踵を返していった。
「あはは、なにあの団長の顔。やばいからやめなって」
愛がおかしそうに笑う。なずなもそのとおりだと思う。……見えてるよ、団長。その、したり顔。今教頭に振り向かれたら一巻の終わりだよ、早くしまって、しまって。
「ほんっと、バカ……」
ボロボロの学生帽の下から覗く、したたかにニヤケた顔に嘆息しか出てこない。
「でもなんとなく可愛いかも。私は」
「愛、趣味悪いよ」
「そうかなぁ?」
そうだって。
そう言って、なずなは手すりにかけた腕に顎を乗せる。
ビラ配りがはじまってから毎朝こうだ。ふたりともよくやるなと思う。でも、あそこまでムキになる教頭の気持ちも、なずなにはなんとなくわかってしまうから厄介だ。
もし変に騒ぎが大きくなれば、もっと上――例えば教育委員会なんかに目をつけられてしまうかもしれない。そうなったときに説明に行かなければならないのは、一生徒にすぎない団長ではなく、校長や教頭だ。
そこまで大ごとにはならなくとも、常に付きまとっているのが〝伝統〟の二文字。今まさに創立以来のそれを変えようとしているのだから、一筋縄でいくわけがない。過渡期と言えば聞こえはいいが、渦中にいる自分たちは傍観者を気取りながらも知らず知らずのうちに振り回されている。なずなはそれが面白くない。
実はこれは、思った以上に難しい問題なのだと思う。だからこそ、それに気づきはじめた一般生徒が、上手くいっていないらしいという噂を火種にして、そこここで不安視する声を大きくしたのではないだろうか。総会のときのあの小憎たらしい一年男子あたりは、もしかしたら喜んでいるかもしれない。そういう連中も含めて生徒をひとつにまとめようと団長がひとり頑張っているのだが、果たして六月も十日が経って上手くまとめきれるかどうか。
依然、楽器購入の予算は下りない。生徒の気持ちもバラバラ。そんな中でも日は過ぎ、気づけば野球応援までは一ヵ月。過渡期の真っ只中にいるのも、なかなか楽じゃない。
「よろしくおねしゃす! ひとりひとりの声が力になります!」
残りわずかとなった校門をくぐる生徒に向けて、団長が意気揚々と声を張り上げる。徒歩だったり自転車だったりと登校スタイルは様々だけれど、団長に声をかけられると、みな一様に立ち止まってビクッと肩を震わせてしまうのだから、ここから見ていて傑作だ。
「ま、うちらはただ吹部の名前を貸しただけだしね。高みの見物といこうよ」
「……うん」
可愛らしいシイタケが、最近多くなってきた湿気に負けずにふわっと踊った。愛は過渡期を楽しむ余裕があっていいな。なずなの髪は、簡単に湿気に負けてしまう。
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