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五分もすれば清書は終わったので、さっそく生徒会室に鍵をかけ、帰る支度をしてから職員室に向かう。時刻はちょうど午後五時だ。生徒会の顧問以外に顧問を引き受けていない綿貫先生は、もしかしたらもう帰り支度をはじめている頃かもしれない。
ギリギリかなとやや気を揉みつつ職員室へ入ると、果たして綿貫先生は、今日もお地蔵様よろしく窓辺からグラウンドを眺め、可愛らしくそこに佇んでいた。声をかけると、いつものように「はい、なんでしょう?」と柔和な笑顔がひらりと景吾を迎えてくれる。
「吹奏楽部から出された楽器購入のリストを生徒会で精査してきました。ひとつひとつじっくり話を聞かせてもらったので、生徒会のほうとしてもこれで予算を組んでいただけないかという結論になって。早いほうがいいと思ったので、持ってきたんです」
「そうですか。生徒会のみなさんはさすが仕事が早いですね。私も目を通しておきます。たぶん、来週の早い段階で返事ができるかと思いますので、待っていてください」
「はい。よろしくお願いします」
「お願いします」
一礼するひらりに倣い、景吾も頭を下げる。綿貫先生はそんなふたりをにこやかに眺めると、「ご苦労様でした」と労いの言葉とともに見送ってくれた。
職員室を出たひらりと景吾は、その場の流れもあって一緒に昇降口へ向かうことになった。だいぶ日が長くなってきたとはいえ、五時を過ぎれば空はなんとなく薄暗い。しかもあいにく今日は曇りだ。雨が降りそうな気配は遠いが、なんとなく空気が湿っている。
「箱石は今日もこれから塾?」
「うん。自分から通わせてくれって頼んだから。また勉強しに行くよ」
「何時から?」
「六時半からかな。え、なんで?」
「いや、愚痴があるなら聞こうかなと思って。まだ五時過ぎだし、俺も時間あるし」
「うはは。とか言って、本当はデートに誘う口実なんじゃないの~?」
「んなわけあるか、バカじゃねーの」
薄暗くなった廊下をてくてく歩きながら、そんなじゃれた会話をする。
わかっている、生徒会の仕事や勉強で手一杯のひらりの息抜き相手に自ら志願してくれていることくらい、本当はちゃんと。自分のことだけでいっぱいいっぱいになってしまうところがあるひらりとは違って、景吾は本当の意味で全体のことを見る力を持っている。
嫌なやつだと思うこともしばしばだが、それは基本的に相手のことを考えているからだ。ひらりが変に卑屈になってその気遣いを悪いほうへ取りがちなだけで、景吾はだいたいの場合において優しいし、ひらりの本当の気持ちを上手く汲み取ろうとしてくれる。
歳のわりに達観していると言えなくもないが、でもそれが、とてもありがたい。
「まあ、今のところは大丈夫だから。愚痴りたくなったら、夜中でも電話するし」
「それ、普通に安眠妨害だから。ぜひやめてくれ」
「あはは。大きな問題が起こらない限り、それはしないよ」
「それもフラグっぽいからやめてくれ」
「あ、そう?」
「そうだろ。これから体育祭もあるのに、仕事を増やされてたまるかよ」
景吾がそう一蹴したところで、昇降口に着く。それぞれ下駄箱から靴を取り出し、駐輪場まで並んで行く。自転車のチェーンを外すと、あとはもう好きに帰るだけだ。
「じゃあ、また来週なー」
「ばいばーい」
そうして、一足先に自転車を漕ぎだして帰っていく景吾の後ろ姿を見送った。
*
しかし翌週――。
「綿貫先生が倒れられたって本当ですか⁉」
「なんでですか! だって、あんなに元気だったじゃないですか‼」
生徒会に、いや学校中に衝撃が走ることとなった。
朝、登校するなりその噂を耳にしたひらりと景吾は、ホームルームが終わるやいなや、それぞれの担任に血相を変えて詰め寄った。金曜日の綿貫先生は普段と別段変わりなかったのに、たった二日の間にいったいなにがあったというのだろうか。元気な姿を目にしていただけに、とても信じられることではなかった。それはほかの生徒にも波及している。
「すまない。先生たちも詳しいことはわからないんだ。でも、綿貫先生はもともと心臓に持病をお持ちで、長年、それと付き合いながら教職をされてきたんだよ。生徒のみんなには、余計な心配をかけたくないからと伏せてはきたけど、そんなに悪かったのかって先生たちもみんな驚いていてな。奥様から連絡があって、しばらく入院することになったそうだ。今は落ち着いていて、会話もできるそうだけど、五月は気温の差が激しいときもあるし、知らず知らずの間にお体に負担がかかっていたんだろうな……」
「そう……ですか」
「まあ、気を落とすなとは言わないけど、今みんなにできることは、いつもどおりにすることだと思う。きっと綿貫先生も、それを一番に望んでいらっしゃるはずだ」
担任はぐるりと教室を見回し、ひとつ頷くと、ぽんとひらりの肩に手を置いた。景吾のクラスでも同じようなやり取りが行われ、D組とE組は一時、お通夜のような重苦しい空気が立ち込めた。
しかし各クラス、各学年でも、月曜の朝の早い段階で似たような事態になっていた。図らずも綿貫先生がどれだけ生徒に愛されているかを知る指針にはなったが、ひらりの心の中には、あることが重くのしかかって気が気ではない。
『大きな問題が起こらない限り』
あんなことを言ってしまったから、綿貫先生は倒れたのかもしれない。
月曜の朝は皮肉にも雨だった。自分が変なフラグを立ててしまったばっかりに、こんなことになったと暗に示しているような空模様の変化は、ひらりの心を沈ませる。空気も心も湿って、ひらりは底知れない恐怖とともに、どんどん気が滅入っていくばかりだった。
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