■3.ちょっと名前を貸しただけ ◆西窪なずな 1
五月初旬の連休は、全体に渡って好天に恵まれた。
五月五日の昼前には南の空に横一線の虹が出て、それを目にした多くの視聴者が撮った写真を地元のニュース番組に送り、何日かして天気予報コーナーで取り上げられた。気象用語で『
「へぇ~。こんな虹もあるんだ~。私も見てみたかったなぁ~」
ちぎったレタスとサラスパ、ツナをマヨネーズで和え、きゅうりとトマトで飾った簡単なサラダを箸で頬張りながら、
残念ながらその日は吹奏楽部の部活の真っ最中だったので、外を見る余裕もなかったのだが、これだけ多くの視聴者が見て、写真を番組に送るくらいなのだから、さぞかし珍しいものだったのだろう。ちょっと悔しい。私だって生で見てみたかったのに。
「こら、
「む。おばちゃんって言わないで。まだ高三だし」
なずなの真似をして食卓と隣接している居間のテレビを立って覗き見していた甥っ子の海斗の両脇に手を差し込んで抱き上げた母に、なずなはもう何度言ったかわからない台詞をまた口にしてテーブルに戻った。
出戻りの姉の四歳の息子である海斗は、その事情にさえ目をつぶれば、西窪家の天使だ。やんちゃだし、お風呂上りは年中フルチンだし、最近は「やだ」のひと言と、天邪鬼なことを言う場面が目立つようにはなってきが、海斗の笑顔は非常にヤバい。寝顔なんて最高である。食べちゃいたいくらい、可愛らしい。
「あっれぇ? 新入生が入ってきたときは、私なんてもうおばさんだよ~とか言ってなかったっけぇ~? 実質なずなは海斗のおばさんなんだし、別に間違ったことは言ってないでしょうに~。ね、海斗ちゃんもそう思うでしょ?」
「うん」
「ほらぁ~」
「……」
ちくしょう、こういうときは海斗は素直に「うん」って言うんだから話を振るな。
海斗を幼児椅子に座り直させながら飄々と言う母に、なずなは苦虫を噛み潰したような気分になる。口答えには口答えで返される。そして勝てない。先に口答えなんかしなきゃよかった。珍しい虹の話題に飛びつかなきゃよかった、ちくしょう。
「それはそうと、今日、お姉ちゃんは?」
「ちょっと残業があって遅くなるって」
でもまあ、こういうやり取りにももう慣れたので、さらっと話題を変える。
姉は家からわりと近所のデイサービスセンターで働いている。デイサービスセンターというだけあって、姉の仕事は主に昼間施設に訪れるお年寄りの入浴介助やレクリエーションの補助だ。
しかし書類仕事もあるらしいので、残業になることもままある。それでも海斗が待ちくたびれて寝てしまう前には帰ってくることができる仕事なので、その点では恵まれているほうだと思う。大変なことも多いけど、と前置きしながらも、施設で働く姉も楽しそうだ。この仕事は姉に合っているのだと、なずなは思っている。
「じゃあ、私が海斗をお風呂に入れよっか?」
「あ、それ助かるわ。その間にパパッと洗い物ができるし」
「よーし。じゃあ海斗、ご飯いっぱい食べたら、お風呂でなにして遊ぼっか?」
「お湯鉄砲とさぁ、あとさぁ、シャンプーでウルウラマン!」
海斗に話を振ると、なんとも男の子らしい答えが返ってきた。マヨネーズだらけの口元で発せられる覚束ないウルトラマンに胸がキュンとなって顔がニヘラ~となる。
「あ、そうそう。応援団からなにか言われてるあれ、今どうなってるの?」
すると母が唐突に話題を変えてきた。〝あれ〟とは、今年の野球応援から応援に吹奏楽を取り入れたいとかいう、まだ誰もチャレンジしたことのない試みのことだ。
「金曜日に生徒総会だから、そこで議題に上げて、全校生徒の意見を募るみたい。昨日なんて会長と副会長がわざわざ音楽室まで来てさ、『応援団と吹奏楽部と野球部から連名でこういう議案が出てます、って総会で言ってもいいか』って聞いてきて。応援団単独で出された議案じゃないとちょっと、っていうんだったら連名から外れてもらって全然大丈夫だよっても言われたんだけど、生徒会って、面倒なことが多いんだなぁって思ったよね」
「で、部長としてはなんて答えたの?」
「野球部もやる気みたいだし、部員のみんなも別に構わないって言うから、連名にしてもらって大丈夫だよって答えておいた。生徒総会なんて形だけみたいなもんだもん。ちょっと名前を貸しただけ。けっこう特殊な議案だけど、でもそんなに大ごとにはならないでしょ」
にんじんと大根の味噌汁に手を伸ばす。野菜から出た優しい味の出汁が味噌と溶け合っていて、実にシンプルな味噌汁だが、なずなはこれがとても気に入っている。この味噌汁は海斗もよく食べてくれる。軟らかく煮られたオレンジと白は、見た目にも綺麗だ。
「北高伝統のバンカラに吹奏楽は、父さんはちょっと嫌だなあ」
するとそこで、今まで黙々とご飯を食べていた父が声を上げた。食卓テーブルの中央に置かれた漬物の容器から二つ三つとカブを茶碗に取りながら、
「中にはバンカラ応援をやりたくて北高に入った子だっているんだろう?」
と、言う。
「ああ、そっか。お父さんは北高出身だもんね。まあ、うちのクラスにいる応援団の人も、はじめはバンカラをやりたくて北高に入ったって言ってたけどね。でも今は、吹奏楽を取り入れることに、けっこう積極的になってるよ。面白そう、って」
「そうなのか?」
「うん。実際、ちょこちょこ声もあるの。球場で応援したりすると、やっぱり他校の吹奏楽に憧れちゃう部分もあるもん。単純に華があるしね。踊りにくいじゃん、音楽がないと」
「はぁ~、時代は変わるもんだなぁ~」
「平成も三十年になればね。そりゃ、多少は変わってくるよ」
父となずなの会話にきょとんとした顔をしていた海斗にニッと笑って、なずなもカブの漬物を茶碗に取る。祖母がいた頃は漬物は自家製だったが、買った漬物も悪くない。
祖母は一昨年、持病の狭心症が一気に悪くなり、一晩であっけなくあの世に旅立った。まだ八〇代中盤で、真夏でも平気でクワやカマを持って畑仕事をする元気な人だった。
海斗は当時二歳。ちょうど幼稚園に通いはじめた矢先のことだ。祖母にもよく懐いていた海斗は、祖母からの「いってらっしゃい」と「おかえり」を聞くと満面の笑みで手を振っていた。今でもときどき「ばっちゃん、早く写真から出てくるといいね~」と屈託なく笑って家族を和ませながらも、ちょっぴりだけ切ない気持ちにさせる。
「それにしても、あんたって妙に現実的ね~。今までもらったお年玉とか、どれだけ貯め込んでるのよ? すぐにパッと使っちゃう
それまで父の代わりに閉口していた母が、下世話なことを言ってくる。鈴菜は姉だ。一〇歳離れている姉は、確かにほとんど貯金もなく実家に出戻ってきた。小学生の頃はよくお年玉を貸してはそのまま借りパクされたりもした。あのお金はどこに行ったのだろう。
そんな姉の姿を見てきたからこそ、なずなは現実的にならざるを得なかった。父と母の姿を見れば愛もあるのかなとは思ったりもするが、シングルマザーとなった姉の姿を見れば、この世に愛なんてあるのだろうかと思う。両極端な人たちに囲まれているので、なずなはとりあえず、今のところは無難に人生の平均点を目指して生きていこうと思っている。
現実的なことを言うと、友達にはたまに「なずなって、なんか老成してる感があるよね」と言われることもあるにはあるが、きっと育ってきた環境がそうさせるのだろう。なずなにはどうしようもないことなので、放っておくことにしている。
「ちょっと。なんか欲しいものがあっても絶対に貸さないからね」
牽制すると、母は肩を竦めて「わかってるわよ」と言う。
「さ、早くご飯食べちゃいましょ」
……なにか欲しいものがあるな、これは。あとで父におねだりだろう。
*
そうして、その週の金曜日。体育館に全校生徒が集められ、前期生徒総会が開かれた。
事前に配られた資料どおりに総会は進み、各委員会、各部活動から前期の活動目標や予算の承認が問われ、形式的に拍手で承認の意思を示して、総会は滞りなく進んでいく。
部活動のくだりになると、吹奏楽部部長のなずなはひとり中央に置かれたテーブルの前の席につき、前の人と同じように、自分のあとの人たちもそうするだろうように、前もって用意しておいた文言どおり、淡々と活動目標と予算を述べた。議長が「では、承認する人は拍手をお願いします」と言うと、やはり形式的に拍手が起こる。
「賛成多数のようですので、吹奏楽部からの議案は可決とします」
席を立って一礼したなずなは、各部の部長が控える脇の席へと戻っていく。
初めての生徒総会のときは、体育館に集まるだけで妙に緊張したものだが、何度も繰り返していれば、いい意味でも悪い意味でも慣れてくる。部長になってもそれは変わらない。なずなの中では、人前に出てなにか喋る仕事が、ただ加わっただけだ。
だってこんなの形式的なものだもん。承認してもらえるかどうかでハラハラするなんて、どこかの団長じゃあるまいし。黙っていても承認されるんだから、緊張することはない。
「では、ここで応援団、吹奏楽部、野球部から連名で議案があります。総会資料、三〇ページを開いてください。団長、両部長は前のほうへ――」
空手同好会が正式な部として承認されると、議長が次の議案を読み上げはじめた。部長たちが控える列の一番最後に座っていた団長を先頭に、野球部部長の佐々木臨となずなも再び中央のテーブルに進み、三人で全校生徒と向かい合う。
これもきっと形式的なものになるに違いない。吹奏楽部は名前を貸しただけだ、あとのことは応援団がやるだろう。なずなは特に緊張することもなく、飄々と全校生徒を見渡す。
「生徒の皆さんの意見をぜひ伺いたく、この場をお借りしました。総会資料にもありますように、我々応援団、吹奏楽部、野球部は、今年の野球応援からバンカラ応援に吹奏楽を取り入れたいと思い、連名で議題に取り上げさせていただきました。北高のバンカラ応援は、創立当時から続く我が校の伝統ではありますが、吹奏楽応援をしたいとの声も、耳にします。そこで皆さんに、吹奏楽応援の是非について意見を――」
発案者である団長が代表してマイクに声を乗せる。堅苦しい日本語を使ってはいるが、要は〝みんなどう思う?〟と尋ねているだけだ。やってみたいという意見が多ければ、それはそれで問題ない。せっかくの伝統なんだから大事にしたほうがいいという声が多ければ、それもそれで今年は諦めるだけだ。なんのことはない、簡単なことである。
その間も、団長の声はマイクに乗り続ける。
「吹奏楽部からは、外で演奏するための楽器一式を揃えてもらえるなら、という条件で賛成してもらっています。木管楽器は特に直射日光に弱いそうなんです。自分でも調べてみましたが、買って一年以内のクラリネットだと、場合によっては割れることもあるそうで、その他の楽器でも、音の精度が下がることもあるそうです。野球部からは、事前に部で話し合ってもらった結果、いい返事をもらいました。皆さん、応援に吹奏楽を取り入れることに賛成していただけますでしょうか。率直な意見をお願いします」
頭を下げた団長が視界の端に入り、なずなもそれに倣う。なずなに倣って佐々木臨も頭を下げた。事前の打ち合わせで、団長の浅石佑次からは「全部俺が言うから、ふたりは俺と一緒に頭を下げてくれ」と言われていたので、そうするだけだった。これもひとつの〝形式的なもの〟である。生徒会からは、総会の資料が配られた際に、皆さんの活発な意見を期待しています的なことを言われてはいたが、それも〝形式的なもの〟のひとつにすぎない。
団長と言えども全校生徒を前にするとあって緊張していたのか、強張った顔をしていたのが意外と小心者なんだなと思ったりもしたものの、考えてみれば、何百人という生徒を前にするのだから、緊張しないほうがたぶん変わっている。応援のときとは心境的に違うのだろう。マイクに乗った団長の声は終始震え気味で、それを落ち着かせようと葛藤している様が、隣から発せられる雰囲気でわかって、なずなもなんとなく緊張してしまった。
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