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「白拓が戻ったわ。話があるから集まってくれって」
登尊との賭に負けたらしい香蘭は、不愉快そうな面構えのまま、扉の向こう側から室を覗き込んだ。
キキが読み終えた本を借りて、それを眺めていた朱翔は、香蘭の声に顔を上げる。
読書に没頭していた朱翔の様子に、なぜかため息を吐いた香蘭は、早く来いとでも言うように顎をしゃくると、くるりと踵を返した。
階下の広間に連れて行かれると、朱翔を呼び出した白拓本人の他にも、キキや愁蓮、登尊の姿があった。室に足を踏み入れた香蘭は、何も躊躇わずに白拓の隣に腰を下ろす。座るように促された朱翔は、愁蓮の隣に腰を落ち着かせた。
前に顔を合わせたときに比べると、白拓の表情が少し険しく思われ、あまり愉快な話題ではないのだろうということが、朱翔にも分かった。だが、これ以上自分の度肝を抜くような話題が持ち上がることもないだろうと、半ば決めつけていた。
「まずは登尊の話から聞こうか」
全員が揃ったところで、重苦しく開かれた口から紡がれた声色が、普段の白拓からは想像もつかないほど厳しく聞こえた。
たったそれだけで、朱翔には不吉な予感が脳裏を過ぎる。
いつも見ていた締まりないの表情を懐かしく思い、その顔をじっと見た。視線が交わっても、白拓はにこりともしなかった。
「旦那に言われた通り関所前で張っていたら、面白い二人組に会ったぜ」
にやりと含みのある笑みを浮かべた登尊は、横目で意味深に朱翔を一瞥した。
「軍人風の男で、一人は名を悠玄と名乗っていた。廉州麓路出身と言っていたから、十中八九廉家の長男坊と考えて間違いねぇだろうな。廉家の長子といえば、三公の一人だ」
「もう一人は?」
「志恒とか言っていたな。主従関係に見えたが、身元は分からなかったよ。なかなかに興味深い兄ちゃんたちだったぞ。白蒼の使い手にこんなところで出会えるとは、まったくの予想外だったね」
「蔽剋の白蒼か。貰い手が三公の一人だったとは」
「兄弟刀は互いを引き合わせるっていう言い伝えが栄州にはあるらしいぜ。憎い演出じゃねぇか」
「それで、二人とはどんな話をしたんだ?」
「葵家のことについてやたら聞きたがっていた。先の后妃を伝手に、葵州へ向かうことも考えているようだが、まずは麓路に行くってよ。麓路の美玉城へ戻るなら――」
「好都合だ。あそこには今現在、瑤俊様が滞在している。上手く話をつけてくれるだろう」
「ああ。ついでだから、陛下のこともいろいろと吹聴しておいたからな。あれで双朱翔についても相当な興味を抱いたはずだ」
「……その陛下ってやつ、やめてくれませんか」
先ほどから気になっていたことを、朱翔が不満そうに指摘すれば、登尊は目を丸くしたが、肩をすくめるとすぐに話題を戻した。
「旦那が廉家に預けたっていう件の石は、これで心配いらねぇが、問題は残る一つだな。未だに行方が知れねぇんだろ?」
「最後の一つは、主上自らがお持ちになっていたようだからね。誰かに託したのでなければ、今も宵黎宮のどこかにあるはずだ」
「双家の邸にあるはずの石も未回収だ。朱翔が覚えていた」
「それなら、俺が白拓さんに言われて家捜しをしてきたよ」
黙って話を聞いていた愁蓮だったが、その件になると、待ってましたとばかりに身を乗り出した。それを見たキキは、微かに眉を持ち上げ、先を続けろと言うように小首を傾げる。
「隠し部屋も、隠し倉庫も、すべて探してみたけど、それらしきものは見当たらなかった。滅王派の連中、相当荒らし回っていったらしいな。離れにある道場の床板まで剥いであった」
「酷いことをするもんだ」
「ああ」
「修繕なら後でどうとでもなるだろう」
事も無げにそう言ったキキに、室内の至る所から非難がましい視線が向けられた。同じような目で朱翔もキキを睨めば、理解できないとばかりに顔を顰められる。
「キキ、そういう問題じゃないの。龍彰様の道場を土足で踏みにじった事が許せないって意味、分からない?」
「僕は双龍彰に直接面識を得たわけではないから、君たちのような感情を理解することはできない」
「それを言うなら、俺だってそうだけどな、武人としては許せないと思うのが当然の考えだろうが」
「それは感情の押しつけだ」
「今はそんな話をしている場合じゃない」
各々、自我が強そうな面子に向かって、白拓は呆れ返ったように言った。
これまでも余計な討論が行われることが度々あったのか、白拓の一声で向かい合うように座っていた全員が、一気に口を噤む。
「まずは朱翔の身の安全の確保と、残りの石の行方を追おう。一つでも欠けていれば、石は役目を果たさない。たとえその一つを奪われていたとしても、残りがこちらの手の内にある間は、危惧する必要もないからね」
「だが、偽造された時のことは考えておくべきだ。石の欠片を元に復元でもされては、話がややこしくなる」
「もちろん、それも念頭に置いておく必要はある。できればそうなる前に見つけ出したいものだな」
「君が覚えているというのは、いつ頃の記憶だ?」
突然話の矛先が自分に向けられ、朱翔は一瞬反応に遅れた。それからすぐに、割れた石のことを言われているのだと察し、記憶を思い起こすように天井を見上げた。
「厳密にはなんとも──だけど、今の邸に越してきて、間もない頃だったかもしれない。今から十四、五年前かな」
「それなら、それ以降にも双龍彰が別の場所へ移した、もしくは誰かに託したという可能性も拭えないわけか」
「それは滅王派が立ち上げた仮説だろう。だからこそ、連中は双龍彰の縁の場所を虱潰しにしていた」
「奪われたと考えるよりは、託されたと考える方が、こちらにとっては都合がいい。とはいえ、龍彰様と親しい間柄にあった者について、私たちが知っている限りでは当たり尽くしているし、滅王派の者たちも働きかけているはずだからね――朱翔、君は誰か、龍彰様が生前親しくしていた人物を知らないかな」
「道場関係者なら、それなりに。でも、さほど深い付き合いをしていたわけでは」
門下生を含めれば、それなりに多くの人物と交流していただろう。だが、親しい友人ともなると、朱翔にはあまり思い当たる節がない。
それでも必死に思い出そうとしていると、朱翔は小さく「あっ」と声を漏らした。
「どうしたの?」
丁度向かい側に座っていた香蘭が、朱翔の顔を覗き込む。
「一人だけ、養父と長い付き合いを続けてた人がいたなと思って」
「誰?」
「うちの近くに飯堂があるの、知っていますか? そこの女主人が、養父を古くから知っているみたいで。彼女に聞いてみれば、何か分かるかもしれません」
「その店ならつい先日、例の二人と行ったばかりだ。雪姫とかいう女だろ? そういや、あそこの息子が、店先であんたのことについて言い寄ってたっけな。偉く心配していたようだったが、無事を知らせるのはもう少し後のことになるだろうよ。今は滅王派の連中があんたを探してるだろうし、仕方ねぇな」
頭をかきながら、なぜか少し申し訳なさそうに登尊が言う。本当ならば、すぐにでも無事を知らせるべきだと分かってはいるが、そうさせてはやれないことに対して、後ろめたさを感じているのかもしれない。
「剣英は、邸の周りを誰かがうろついていると言って、不審がっていましたから」
「お役人にも食ってかかっていたような口ぶりだったからなぁ。もしかしたら危ないかもしれねぇぜ」
顎に手をあて、登尊は唸りながら白拓と目配せをした。
何がどう危ないのだと、口にはせずとも顔にそう書いてあったのか、白拓が代わりに続けた。
「滅王派に目をつけられかねないということだよ。奴らは君を捜している。捜し出すためには手段を選ばないなら、朱翔と親しい関係にある誰かを人質に取ることも厭わないかもしれない」
「そんな、剣英はまだ子供で」
「子供だとか大人だとか、そんなことは連中にはどうだっていいのよ。欲しいものが手に入るのならね」
それはいやに冷めた口調だった。諦めきってしまっているようなその声音は、静かな部屋の中で、ゆっくりと無機質な壁に吸い込まれていく。
「まだそうと決まったわけじゃないだろ」
「そう、だけど」
俯いてしまった朱翔を見て、愁蓮が慰めるように肩を小突いた。
平和になるのだと思っていた。内乱が終わり、九十年間、誰も信じなかった平和がやっと訪れるのだと思っていたのは、間違いだったのだ。未だ背筋が震えるほどの恐怖と危険が、朱翔の周りにはごろごろと転がっている。
終わるはずがなかった。仮初めの平和ですら、朱翔の前を素通りしていく。
「どこに行く?」
椅子を蹴るようにして立ち上がった朱翔を見て、白拓が世間話をするような気軽さを装って言った。背を向けた状態で足を止め、感情の起伏を抑えつけるように強く瞼を閉じると、握り締めていた手の平を開いた。
「心配なんです」
「気持ちは分かるけれどね、朱翔。君と同じ気持ちを、私たちも君に対して感じているということを忘れないでほしい」
「だったら理解してください」
「理解はしているよ。だけど、君がやろうとしていることを許すかどうかは別だ」
「どうして一々許しを請う必要があるんですか?」
「私たちには君を守る義務がある」
「守られる義理はありません」
「龍彰様なら、今の朱翔に何を言うかな」
最後の一言に、朱翔は言葉を詰まらせた。
朱翔は今、一見無謀とも取れる行動を起こそうとしているのかもしれない。外の世界では、滅王一派が朱翔を捜しているのだ。そんなところに、武術もままならない朱翔が飛び出していけば、簡単に捕獲されることは間違いないだろう。
双龍彰が半生をかけて守った命を粗末にするのかと、白拓は小さな脅迫をした。そう言われてしまえば、引き下がることしかできないと、理解した上で。
「……卑怯だ」
「何と言ってくれても構わない。ただ私は、龍彰様との約束を果たすまでは、絶対に退かないよ。約束が済んだその後は、君の好きにすればいい」
「こうしている間にも、剣英の身に何かが起こっていたら。里琳や雪姫さんの身が危険に晒されているとしたら、きっと私は、私は――」
私は、あなたを許せないかもしれない。
奥歯を強く噛みしめ、朱翔はその言葉を呑み込んだ。呪い言葉のように、心の中で繰り返す。失ってしまった後では遅いことを、身をもって知っているからこそ、今この時を後悔したくはないのだ。
自分のことを、親の敵を見るかのように睨み付けている朱翔の視線を受けても、白拓は表情一つ動かさなかった。睨まれた分だけ見つめ返し、目で何かを訴えかけているのを感じるのに、朱翔はそれを拒絶するように目を逸らした。
「愁蓮」
白拓がため息交じりにその名を呼んだ。
言葉もなく二人の様子を見守っていた愁蓮は、目の動きだけでその問いかけに答える。
「その飯堂まで行って、様子を見てきてくれるか。四半刻もあれば戻ってこられるね?」
はじめからそうくると分かっていたのか、愁蓮は二つ返事で頷くと立ち上がった。
扉の前に立ちはだかっている朱翔の背中を慰めるように叩き、後ろ手に手を振ると、室を出ていく。
「これが最大限の譲歩だよ」
「……あなたは私が無事なら、他の人がどうなってもいいんですか」
「そうだと言ったら軽蔑するかな」
「ご立派な君主愛だ」
「お褒めに与り光栄だね。官吏冥利に尽きる言葉だよ」
憎まれ口の応酬にすら、勝ち目はない。そうと分かっていても、言わずにはいられなかった。振り返ればそこにはおそらく、自分を咎めるような視線が、いくつもこちらを見つめていることだろう。
自分の置かれている立場を理解できずにいる中で、気が狂いそうになる。次々と襲いかかる不運の連続に、頭を抱えたくなった。
香蘭の止める声を無視して、朱翔は室を飛び出した。階段を駆け上がると、蘭の香りで満ちている室の扉を蹴り開け、力任せに閉めてから、寝台に倒れ込む。布団に顔を力一杯押しつけると、くぐもる声で大きく叫んだ。喉が痛み、涙が滲んだ。
やり場のない怒りを腹に抱えながら、行き場のない憤りを感じる。自分が何を望んでいるのかも分からなかった。けれど、ただどうしたいのかを考えた時、自分の中から得られた回答は、あまりに明快だった。
階段から誰も上ってこないことを確認すると、朱翔は開けるなと言われた窓に駆け寄った。大きく押し開けば、西の空が真っ赤に染まっているのが見えた。数日ぶりの夕日に目を細め、人通りが増えてきている宵闇を見下ろす。忙しげに縦横する者たちの中に、幸い頭上を見上げている者はいなかった。
「……父なら、守るべき者を守りに向かうはずだ」
自分をそうして守ってくれたように、朱翔も同じことをしたいと思う。
もうこれ以上、大切な誰かを失うかもしれないと考えるだけで、朱翔はいても立ってもいられなくなった。
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