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翌朝、悠玄は出立の時刻よりもずいぶん早くに目を覚ました。
未だ夜は明けておらず、それでも東の空が微かに白みがかりはじめている頃だ。
太尉を解任されると同時に、書房も取り上げられていた悠玄は、あれから七日は邸に戻ることもせず、宮殿内の仮眠室で夜の休みを得ていた。
あまり目覚めがよくないのは、夢見が悪かったせいだろう。昨晩の嵐稀との会話が原因で、深夜が過ぎても寝付くことができなかったのだ。
何となく重く感じられる頭を支えながら、悠玄は寝台から起きあがった。深夜から朝方にかけては酷く冷え込む。脱いで長椅子に放っていた上衣を羽織り、寝癖のついた髪を撫で付けながら、覚束ない足取りで仮眠室を出た。
庭院にある井戸までやって来た悠玄は、水を汲み上げ、思わず息が詰まるほど冷たいそれで顔を洗うと、空を仰いだ。今日はどうやら雲ひとつない快晴になりそうだと考えていると、庭院に面している回廊を歩いてくる何者かの気配に、視界をゆっくりと下していく。
向こう側から姿を現したのは、一人の男だった。
中書令の聡幻伯は、悠玄よりも二、三年上であったが、小柄なことに童顔も相まってか、未だ少年のような印象を与える。
幻伯は悠玄の存在に気づくと、その中性的な顔立ちに微笑を浮かべて見せた。小走りでこちらにまでやって来ると、懐から取り出した手巾を、顔や頭を濡らしている悠玄に差し出してくる。
「どうも、ありがとうございます」
一瞬反応に遅れたが、それを悠玄が受け取ると、幻伯は満足そうに笑みを深めて、すぐに背中を向けてしまった。
そのまま去ろうとしている背中を呼び止める言葉も意味も見つからず、思わず声にもならない吐息をもらすと、幻伯は思い留まったように足を止めた。そして、悠玄を振り返る。
悠玄が何か伝えようとしていたことを察したように立ち止まった幻伯は、促すように首を傾げた。
「あの、今まで仕事を?」
やっとの事で捻り出したろくでもない質問にも、幻伯は嫌な顔ひとつせずに頷いた。
聡幻伯は、いつも忙しなく宮城内を動き回っている。
武官だけではなく、多くの文官が次々と命を落としていくなか、若くして太尉の任を押し付けられた悠玄と同じように、幻伯も異例の早さで中書令の地位に収まったのだ。
その任を与えたのは、主上本人だった。中書令とは宮中における財政や文書、後宮の官吏など、深く内朝に関わる役職であり、先王は処刑した前中書令の代わりに、幻伯をその任に指名した。
幻伯は非常に聡明であり、優秀な官だ。元々は浪玉の配下であったが、科挙に合格しているわけではない。城下で戦渦に巻き込まれて深手を負い、行き倒れているところを運良く宮中関係者に拾われたのだ。帰る場所はない、待っている家族もいないという少年を、当初は侍僮として浪玉が面倒を見ていた。
しかし、先王が幻伯を中書令へと指名したのは、何も彼が有能であったからという理由だけではない。信頼の置ける人物だったことに合わせ、本当の理由は、幻伯の体質にあった。
生まれつきなのか、あるいは激しい戦渦を目の当たりにしたことで受けた心理的苦痛の影響か、幻伯は口を利くことができない。口を利くことができないのなら、内々のことを外へ漏らされる危惧をする必要がなくなる。もし脅されるようなことがあっても、言葉を発することができないのであれば、やはりその脅しすら意味をなさなくなる。
「私と志恒はしばらく宮城を空けることになりました」
なぜ、と聞き返す声はない。
だが、知っているような顔つきで悠玄を見つめた幻伯は、ゆっくりと瞬きながら頷いた。
「宮城内の警護は衛尉の管轄ですが、念のため私の配下にも、もしもの場合は注意するようにと伝えてあります。浪玉様は憂慮するだけ馬鹿だとおっしゃっていましたが――」
言い終えるよりも先に、回廊へと上ろうとしていた幻伯が、近くまで戻ってくる。思わず言葉を止めてしまうと、幻伯は信じられないほど澄んだ灰色の瞳で、悠玄を見上げた。
それは、無言の威圧のように感じられた。
悠玄が用意していた続く台詞は、こうだった。
「もし敵が攻め入ってくるようなことがあれば、その時は、全ての私の配下に任せてお逃げください」
まだ、どこに密偵が紛れているかも分からない。軍の総司令である悠玄が太尉の任から除され、頭を失った獅子たちを、ここぞとばかりに切り崩しに現れないともかぎらなかった。同様に、たった一人きりになった獅子頭を亡き者にしようと、何者かが暗殺を仕掛けてくる可能性も考えられる。
様々な危険を顧みず行われる今回の使命は、常に警戒を怠ってはならない。
だが、悠玄はその強い眼差しに、言葉を呑み込んだ。
文官であろうとも、逃亡は主上へ背いたことに、国をも捨てるような裏切り行為にあたる。それでは侮辱が過ぎるだろう。
「もしもの時は、浪玉様を頼みます。嵐稀様は無茶をされないと思うが、あの人だけは心配ですから」
それこそ、幻伯の知り尽くしているところだろう。
人の話を聞かず、己の意思をどこまでも貫こうとする孤高の人物。しかし、言い換えれば、融通の利かないただの我が儘な一人の男でしかない。
その言葉に微笑んだ幻伯は、悠玄の手の中にある濡れた手巾を取り返すと、その場で両手を合わせ、軽く一礼をした。
頭を上げると、少々戸惑っている様子の悠玄を一瞥し、無言のまま背を向ける。今度はその背中を呼び止めようとはしなかった。幻伯も、歩みを止めようとはしなかった。
止まっていた時間が、突然動きを取り戻したかのような錯覚を覚えた。先ほどまでは微かに白みがかっていただけの空には、既に太陽が昇りはじめている。
悠玄は眩しさに目を細めながら、手の平で透かした太陽を見つめた。
以前、生まれてからたった二度だけ、朝などもう二度と訪れなければいいと思ったことがある。
一度目は父親が死んだとき、そしてもう一度は、先王が命を落とした嵐の晩だ。
「……これから殿下を探しに行こうってときに」
悠玄はそう独白しながら、苛立たしげに頭をかき撫でた。
いつまでも昔の君主を忘れられず、別の誰かなど必要ないと考えそうになる自分を、心の中で叱咤する。
先王以上の王などいただけるはずがないという思考を、頭から払い除けた。
少なくとも今だけは、己の感情など捨て去り、前へ進むことだけを考えていればいいのだと、悠玄は自分に言い聞かせていた。
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