あの日の歌のように
夢月七海
アイネクライネ
「待たせてごめん」
駅前のざわめきの中でも、あなたの声ははっきりとあたしの耳に届いた。
振り返り、あたしは何でもないように首を振る。
「ううん。今来たところ」
そんなドラマみたいな素敵なセリフ、あたしが口にするなんて思わなかった。
あなたは、ほっとした様子で、「良かった」と胸に手を当てる。そのまま、ゆっくりと切れていた息を整えていた。
「今日はどこに行こうか?」
「公園に行きたい!」
あたしは、自分の鞄から、スーパーで買ったシャボン玉セットをあなたに見せた。
あなたは苦笑を浮かべる。でも、悪戯っ子のように嬉しそうだった。
「それを見たのは子供の頃以来だよ」
そして、あなたの行こうかという一言をきっかけに、あたしたちは横に並んで歩く。
駅前の背高のっぽの時計は、午後の三時を指していた。人ごみは、あたしたちのことをまるでいなかったかのように避けて歩いていく。
「今日は休み?」
「夜勤明けだったよ。もうへとへと」
あなたの質問に、あたしは大きく伸びをしながら答える。
でも、へとへとというのは嘘だった。あなたの顔を見た瞬間に、あたしの疲れはどこかへ飛んで行ってしまった。
「そっかー。やっぱ大変だね」
そう言って、本気で心配してくれるあなたの顔も可愛いから、あたしはそのままにしている。
眩しい光が、ビルの窓にいくつも反射していた。今日も看板は自己主張が激しい。
そんな、ごちゃごちゃとした景色から背を向けて、あたしたちは人通りの少ない方へと進んでいく。
「公園に行くのは久しぶりだね」
「うん。この前のデートは、あたしの家だったから」
「あれ、デートと言っていいのかなあ?」
あたしの返答に、あなたは不思議そうに首をひねる。
確かに、あの時は窓辺のフローリングに寝転んで、二人で本を読みながら、いつの間にかどっちも寝てしまっていて、一度も外には出なかった。
「いいのよ。二人で会って、幸せを感じたら、それがデートってことで」
「そんなことを言ったら、広辞苑が怒るよ」
あたしがおどけると、あなたは肩を揺らして笑った。
あたしはそれが嬉しくて嬉しくて、わざとおどけたことを言ってしまう。
「広辞苑は本だから怒らないよ。怒るのは広辞苑を作った人たち」
「その通りだね」
あなたは笑いすぎて、天を仰いだ。
あたしたちは、お互いの笑いのツボをよく知っている。だから時々こんな風に、それをついて一緒に笑う。
だけど、あなたはあたしの過去を全く知らない。あたしが、昔はこんなことをするような性格ではなかったことも、なんであたしが高校を中退したのかも。
「この前公園に行った時は、何をしたっけ?」
「花冠を作った」
「ああ、そうだったね」
あなたはその時を思い出して、また笑みを堪えるような顔をした。
あなたは花冠を少し大きく作ってしまって、被った直後にずり落ちて、自分の目を隠してしまった。
あたしはその様子を見てけたけた笑いながら、困っているあなたの写真を何枚も撮った。花冠を外したあなたに、その写真を見せて、再び子供みたいに笑い合った。
「君は作るのが上手だった」
「そうだったでしょ?」
あたしは鼻を高くするけれど、実はあたしも大きく作りすぎて、最初から首飾りを作るつもりだったと嘘をついた。
あなたはその瞬間も、無邪気にその嘘を信じてくれた。
そんなことを思いながら、街路樹の並ぶ一方通行の車道の隣を歩いていた。
目の前のT字路の歩行者信号が、青色の点滅に変わったのを見て、あなたはあっと声を上げた。
「信号が変わる」
あなたは慌てて、駆け出そうとした。
あたしは一瞬だけ前に出たあなたのシャツを掴んで、引き留めた。
――車が、恐ろしいスピードで、通り過ぎていった。
「……ありがとう、助かった」
「ううん。いいよ」
どきどきと跳ねる心臓の音を聞きながら、振り返るあなたに答える。
ずっと言えなかった、あなたが、車に轢かれる夢を見たということ、それが現実にならなくて良かった。
それでも、あたしは夢のことを心に隠したまま、無言であなたと信号が変わるのを待った。
横断歩道を渡ると、数メートル先で公園に辿り着く。
そこは、あんまり遊具が無く、犬を散歩させる人やジョギングをする大人しかいないような、中くらいの公園だった。
「今日も人が少ないね」
「平日だからね」
あなたの言葉に頷いて、あたしたちは出入り口のすぐそばにあるベンチに並んで座った。
お互いに休みが不規則で、会えるのはもっぱら平日だったけれど、人が少ないほうが落ち着くあたしにとっては、それが一番性に合っていた。
シャボン玉セットのパックを開けて、シャボン液の入ったピンクの容器と緑の太いストローのような道具をあなたに渡す。
二人でそれぞれの容器の蓋を開けて、シャボン玉を吹いた。あなたの方が上手で、あたしよりも多くのシャボン玉がストローから現れてくる。
一緒に夢中になって、シャボン玉を吹いていた。
どちらがより大きく吹けるのか、たくさん出せるのか、長く飛んでいられるのか。そんな無意味な勝負の全てに、あなたは勝っていた。
ただただ楽しくて、二人でずっとはしゃいでいた。あなたがシャボン玉を壊そうと立ち上がってジャンプする。あたしがもっと高く飛ばそうとシャボン玉に息を吹きかけて割ってしまう。
公園内外の人たちの奇異の目も、途中からは全然気にならなくなっていた。これも、いつものことだった。
少しずつ少しずつ日が傾き始めて、あたしのシャボン液も、無くなってしまった。
幸せだという気持ちが九割胸を占めていたけれど、一割だけ、こうしてまたあなたとの一日が終わってしまったという痛みが、確かに生まれていた。
あなたと出会った瞬間から、あたしたちの別れへのカウントダウンは始まっているのだと、あたしはずっと勘づいていた。
もちろん未来のことは分からないけれど、歩くようなスピードで、必ずその日が来ることは、あたしには想像できてしまっていた。
「……どうしたの?」
急に静かになったあたしを、あなたは不安そうに覗き込む。
はっとして、ちょっとねと取り繕うような微笑を浮かべた。
「この前見かけた子供のことを思い出しちゃって」
あたしは、またあなたに嘘をつく。あなたにあたしの悲しみを悟らせないように。
でも、これから話すことは、実際に起きて、あたしが心苦しく感じた出来事だった。
「ナースコールが鳴って、慌てて病室に向かう途中でね、曲がり角の先で泣いている男の子がいたの。多分、お見舞いに来て、家族とはぐれちゃったんだと思う。まだ小さくて、大声で泣いていたから気になったけれど、ナースコールを無視することは出来なくて、そのまま病室に行ったのよ」
「うん」
「結局、ナースコールで呼ばれたのは大した用事じゃなくて、すぐに男の子の所へ行ったけれど、もうそこには誰もいなくなっていた。どこに行ったのか分からなくて、家族に会えたかどうかが、ずっと気になっていた」
「そうか……」
あたしの話を聞いて、あなたは右手を顎に当てて、じっと考え込んでいた。
本を読んでいるようなその横顔が、あたしはとても好きだった。
「でも、ナースコールで呼んだ人が、重病じゃなくてよかったよ。あの男の子も、ナースステーションで会うことはなかったんだよね? 家族と会ったのか、誰かが探すのを手伝ってくれたのかは分からないけれど、悪いことは起きていないんじゃないかな?」
「そうだね」
あなたの静かな水面のような瞳に見つめられて、あたしは素直に頷くことができた。
あなたはあたしの考えを反転させることがとても上手い。それは無理のあるポジティブシンキングなどではなく、あなたの経験と理知と優しさから浮かび上がる見解だった。
雨と風の強くて、あたしたち以外に出掛ける人がいなかった日、傘がひっくり返って困っているあたしに、傘の裏返ったてっぺんを持って柄を空に向けるようにしたら雨を防げるよと、実践してくれたのはあなただった。
そんなことを考えている内に日が段々と沈んでいき、空をオレンジ色に塗り直している。
足元に、あたしたちの長い影が落ちていた。気温が下がり、風が冷たくなっている。
「そろそろ帰ろうか」
「そうだね」
あなたの提案に、あたしは鞄を肩にかけて立ち上がる。
あなたもすぐに立ち上がったけれど、自分の持っている容器を見て、ああと声を上げた。
「まだ少し、残っていたよ」
「ここで吹いちゃえば?」
「うん」
でも、あなたは今吹いたら、風向きのせいであたしにシャボン玉がかかってしまうのを気にして、少し歩を進めて、ストローを咥えた。
こちらに顔を向けたあなたが、息を吹きかける。一息で、いくつもの小さなシャボン玉が、わらわらと飛び出してきた。
その直後、急に風向きが変わって、あなたへ向かってシャボン玉が飛んでいった。
夕暮れを閉じ込めたようなシャボン玉が、あなたに当たってぱちぱちと割れていくのを、あなたは困ったように笑いながら受け入れていた。
ただ、それだけのことだった。なのに、どうして、まるでそれが奇跡のように見えた。
目の前が、ぼんやりとしていく。世界が溶け出してしまっていくようだった。
あたしはそっと目を閉じる。驚いたあなたの姿を、像のように瞼の裏に焼き付けて。
これだけで、あなたとずっと手をつないで温もりを感じ続けているように、恐ろしい夜を超えられるような気持ちになれた。
「―――」
あなたが、あたしの名前を呼ぶ。目を開けた瞬間に、あなたのいる景色は再び彩られている。
あなたに出会えてよかった。あたしがただの石ころでなくてよかった。あなたとあたしがこの世界にいてよかった。
あたしは、あなたをこれ以上心配させないように、あなたの名前を呼ぼうと、息を吸い込んだ。
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