恋ハコ電車

嘉田 まりこ

1駅め

 入学式に桜なんて咲いてない。

 小さな頃、テレビの子ども向け番組で聞いた歌に首をかしげたことがある。


 桜さいたら一年生


 私の暮らすこの街にこの歌詞は当てはまらないのだ。


 桜が咲くのは、四月の末頃。そう、五月の大型連休の少し前。

 天候も安定しないから、暦は春だけど、肌寒かったり冷たい雨が降ったりなんてこと当たり前に起こる。


 私が彼を見つけたのも、そんな冷たい雨が降った日だった。


 入学式を無事に終え、翌週から私は自転車通学をしていた。

 学校までは自転車で十分通える距離だったし、この街に珍しく坂のない通学コースだったから、自転車以外を選択することは考えすらしなかった。


 やっと来た春の香りを感じられる自転車の方が何倍もいい。


 乗り込んだ市電に充満する雨の匂いと、少し濡れてしまった制服の袖の湿気に溜め息が漏れた。


 一駅、二駅……座席の少ない電車の隅に立つ窮屈さもあと少しで終わる。

 定期券なんて買っていない私。

 そろそろ小銭を出しておこうと、鞄の中に手を入れお財布を探した。


『……あれ?』


 探し出した途端、お財布を忘れたことに気がついた。自分の机の上に置かれたお財布の画も思い出せる。

 でも、その画が今日のことだと簡単に諦めてしまえる訳がない。鞄の口をさらに広げて、目と手であらゆる隙間を探した。


『……ない。 やっぱりない』


 近付く下車駅。

 到着間近のアナウンスが聞こえたすぐあと、誰かが下車ボタンを押した音も聞こえた。


 キョロキョロと辺りを見回したけれど、入学したての、しかも通常は自転車通学している私。乗客の中に友達どころか顔見知りもいない。


 運転士さんに話したら怒られるだろうか。

 どうしよう……

 どうしよう……

 雨の湿気に私の冷や汗まで追加される。

 緊張はあっという間に頂点に達した。


 到着した下車駅。

 開いた扉。

 ひとり、ふたりと降りていく人。

 だんだん近付く私の番。

 腹をくくったその時だった。


「はい」


 制服の、セーラーの襟端をツンと摘ままれ振り向いた私に、軽く握った手を突き出した人がいた。


「え?! え? え!?」

「いいから、早く」


 反射的に手のひらを出すと、その人は私の手に210円を乗せた。


「あ、え!! いいんですか!?」

「いいよ」


 その人はニカッと大きく笑い、『ほら、もう降りるよ』と扉の方を指差した。


 下車駅は私の通う高校の真ん前にあって、校門に向かう人と、反対にあるコンビニに向かう人に二分する。

 その人は私をさらっと追い越して真っ直ぐ学校への道を進んだから、慌てて傘を開き追いかけた。


 ポン、ポンと開く傘の波をくぐる。

 弾き飛ばされた雨雫が少し早い桜吹雪にも見えた。


「あの!」

「ん?」

「お金! ありがとうございました!! ちゃんとお返しします」

「あー、いいよいいよ」


 その人は、再びニカッと大きく笑う。

 肩に乗せた傘の柄を揺らしながら、小さなOKを指で作った。


「でも!」

「それより、帰りも困るよな」

「え?」


 その人は、スポーツバックをごそごそと探り、手にしたお財布から1000円札を取り出して私に向けた。


「昼代もいるっしょ?」

「あ、いや、えっと」

「3A、横山ハルキ」

「あ!い……1A、川崎あおいです!か、必ず返しますから!」


 その人――横山先輩は『了解』とまた小さなOKを作った。


 傘に降る雨音は、楽しげなピアノの音。

 灰色した雨雲は、憂うつを消したチョークの跡。

 まわりの雨傘は、私のハートを飾る輪っか。



 恋をした。

 私は絶対、恋をした。

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