Sweet Little Bitter Rain

琥珀 燦(こはく あき)

1.


 最近、自分が雨嫌いなことを忘れていたことに気づいた。

 たぶん、妻と結婚してから、彼女が僕以上に雨を怖がり大騒ぎするのをなだめるので大変なせいだろう。


 雨が続く日の夕暮れ時、彼女はソファで僕の指を噛んでいる。さっきからずっと人差し指と中指を甘噛みしている。交互に、或いは二本同時に。

妻は僕の指を噛むのが好きだ。爪に軽く前歯を立てたり、関節のごつごつした部分を夢中になって奥歯で噛んだり、指の付け根から柔らかく舐めてみたりする。化粧っ気の無い顔で熱心にそんなことをしている彼女は、無垢な小動物のようでとてもセクシーだ。

本当に甘噛みなので痛みは無く、心地よい刺激だと思う。或いは僕が少しM気質なのか。

 これでも結婚当初は雨が降るたびに挙動不審になったり、何も言わずに涙を流したりで結構大変だったのだ。ある雨の日、ソファーで向き合って右腕で彼女を抱きしめ、彼女の震えを抑えようと手を繋いでいたら、彼女が僕の手を自分の顔に持っていった。おでこや赤く腫れたまぶた、涙の跡の残るほっぺたを這わせた後、手の甲にキスをくれた。キスが指先に移動したと思ったら、人差し指の先に前歯を立て始めた。そこから彼女の甘噛みの癖が始まった。

 雨の日、雨音で世界がいっぱいになって、圧し潰されそうな日には、ソファで彼女を背中から包むように抱き、彼女が静かに無心なひたむきさで僕の指を歯と舌と唇で愛撫する様を見ている。そんな彼女を見ていると、自分も雨の日にトラウマがあることなど忘れて静かに彼女を見つめていられる。

無心な姿の彼女を抱きしめていることで、自分も存分に癒されているわけで。僕がもし男でなかったら・・・或いは一人ぼっちで暮らしていたら、彼女のように震えながらうずくまったり不機嫌になったりしていた側かもしれない。そう思うと、こんなことで気がおさまるなら幾らでもこの指を自由にさせてさしあげたい、と思う。

彼女の頬にかかる髪が軽く揺れる。

「髪、伸びましたね」

つい口にしてしまい、彼女の動きがかたっと止まってしまった。どうしよう。そんなつもりはなかったのに。

「すみません、中断させてしまって」

「////////もういいの。ごめんなさい。私ったらまたあんなことして貴方の指を」

そういえばいつも束ねている髪を、シャワーのあと、ドライヤーで乾かしてそのままでいたのだった。

初めて会ったときは癖のある髪をショートボブにしていたので、ずっとそのイメージだった。

「伸ばしてるんですね?」

「うん、もうずっとショートにしてて、いい加減飽きちゃって。くせ毛だから何回も挫折してたけど、縛れるようになったら、縛ったままで伸ばせるんじゃないかと思って」

テーブルの上のヘアゴムを手に取って、結わえようとするのを手で制した。

「触らせてください」

彼女の髪を指先で梳いてみる。硬めの髪は指がひっかかることはなく、彼女の肩のあたりでするりと抜けてしまう。

「私の髪、すぐ広がっちゃうから・・・」

「だから最近いつも結わえてるんですね。たまにはこのままも新鮮ですが」

また一束取って、顔を近づけてみる。

「甘い匂いがします。優しい・・・ローズヒップの香り?」

僕たちは髪質が異なるのでバスルームでは違うシャンプーを使っている。彼女のは髪のうねりを抑える効果のものらしい。

「恥ずかしい」

「いい匂いですよ」

今度は両手で髪を梳いて鼻をうずめる。ドライヤーの熱の余韻と薔薇の果実の匂いの奥に、彼女の体臭を探してみる。これでは切りが無いな、と思いながら、彼女の手からヘアゴムを取り、ていねいに櫛で梳かした後、真ん中にきちんと結わえてあげる、数か所の遅れ毛はアメピンで留める。

「はい、できました」

彼女は手鏡で出来上がりをチェックしながら言う。

「もっと伸びたらヘアアレンジとか楽しみたいなあ。三つ編みとか憧れるんだよね」

「それは、腕が鳴りますねえ」

「え? ダメよ、私が自分で出来るようでなきゃ」

「え? 弄らせてくださいよう」

僕がよっぽど寂しそうな顔をしたらしい。彼女はくすくす笑った。

「たまにはね」


ショートヘアが似合う人だと思っていたのに。伸ばすのか。

かすかに胸が騒ぐ。

雨の音が、まだ部屋中に充満している。


「さて、ご飯、作りましょうか。今夜は手伝わせてくださいね」

雨音と嫌な気持ちを吹き消すように彼女に大きく声をかけた。

「はい。今日はポトフの材料が買ってあります!」

彼女はスリッパをパタパタさせてキッチンへ走っていった。


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