カミオミ~かつて竜だった人間たちの恋の歌~

雪城藍良

第1話

 伝説の竜は眠っていた。

 苔や藻に覆われ、石のように動かず、眠っていた。 

 ゆっくりと、蓋が開くように瞼が開く。宝石のように透き通った目が捉えたのは人間の少女だった。精霊に愛された少女。

 何故、ここに人間がいるのだろう。

 竜は疑問に思った。何故?と。

 少女の服は水を吸い、重く、そして確実に少女の体温を奪い、命の終わりがトコトコ近づいてきていた。体のあちこちは傷だらけで、少女は『瀕死の重傷』だった。呼吸も浅く、生きているのか死んでいるのかという状態。

 まぁ、それでも、竜には関係がない。人の子の一人や二人死のうと関係がないのだ。

 精霊は怒っていた。それはもう、とてつもなく煩く。寝惚けた竜に訴えるほどに。

 竜は少女を見下ろした。そして見た時、少女と目が合った気がした。

 少女は絶望などしていなかった。悲しんでもいなかった。生きることを、諦めてはいなかった。

 ぎろり、と死に損ないの少女に見据えられた竜は面白いものを見つけたと笑った。


 そうして竜は少女の命を救った。


❄❄❄


 ゆったりと水の中にいるような感覚だった。呼吸をせずとも、そこにいられる。そして気づく。自分が沈んでいることに。ひどくゆっくりとした、時間。

 水の中は光の筋が幾つも並び、きらめいていた。深淵からのっそりと伸びる暗闇と混ざりあって、余計際立つ水面の明るさだった。

 ユシェラは、おもむろに、そして体までも伸ばすように水面へと手を伸ばした。


「――けはっ!」


 苦しいとは思わなかった。

 肺の中がすっとするような、呼吸がしやすかった。空気がおいしいと言うのだろうか。水面に顔を出して、その目に飛び込んできたのは緑。濃さの違う青々とした樹々が広がっていた。


『あら、おはよう。起きたのね』


 耳から聞こえるのとは別、頭の中に神聖さのある声が響いた。


「……だれ?」


 言って、本当に不思議に思った。目覚める前のことを思い出したから。

 ユシェラは“神御視”されたのだ。ありもしない罪を着せられて。だから、死んだはず。


『私は竜よ。で、なぁに、それ。カミオミって』


 まただ。ぽろぉん、と弦楽器が鳴らされるような聞き心地の良さだ。というか、人の心を読んだ?


『念話と思念がごちゃ混ぜなのよ。慣れれば会話になるわ……。ねぇ、それよりカミオミって何かしら? 死刑? 拷問?』


 馬の鼻息みたいな気配がして、驚いてユシェラが後ろを見ると、竜がいた。

 ユシェラは息をのんだ。だって、あまりにも綺麗だから。

 鱗の一つ一つは宝石のように艶めいて透明感のある水色。鮮血並に赤い瞳がじっとユシェラを見つめていた。


「えっ、あぇ……」

『聞いている? 言葉、わかるかしら?』


 不満そうに鎌首をもたげる竜に――不遜ながら――かわいいと思ってしまった。


「あぁ、えっと、神御視よね。神様に罪人かどうか調べてもらうの。そして、カミサマに捧げる生贄の意味もある。……生きてかえってきた人はいないから、実際は死刑とかわらないの」

『神?』

「水神様が無実だと認めたら生きて帰って来られるみたい。足に石をくくりつけて神殿のイケにおとすの。中には海犬って魔――おっと、聖獣がいるの。罪人はチマチマ貪られてしぬのよ」


 淡々と語るユシェラに竜は不思議そうに目を瞬かせた。


『おかしいわね。貴女はそのイケに落とされたのよね? それに貴女みたいな小童がそんなに詳しく知っているのかしら。それを聞く限り神なんて偶像物はカケラも無いし』


 偶像物……それを聞いて多少ながらもユシェラは面食らった。精霊に近い竜は神に近い存在としてあがめられているのに、当人は信仰心など微塵もないのだ。神を全否定とまでは行かないが、存在を確かなものとは思っていないらしい。

 ユシェラの周りにない価値観を持つ人だった。


『さっさと上がりなさいな。人間は本来陸の上で生きるのでしょう。水の中がいいなら出てこなくて構いませんけど』

「いやっ、えっと、あがります!」


 風邪ひいたらめんどうなので。


『りくにあがる』

『ゆしぇらがあがる』

『ユシェラをてつだえー』

『おー』


 不可思議な声と共に水が大きく揺れた。そのまま流れが出来てユシェラはなす術もなく草が生い茂る陸にうちあげられた。


「一体今のって……」

『初めて見たわ。……精霊に愛された子、貴女は相当愛されているようね』


 竜はクスクスと珍しい玩具を見つけた子供のように笑った。そして魔法で私の衣服の水を落とした。


「ありがとう」


 けれど今度は私が首を傾げる番だった。


「“祝福(グロゥ)”? 私が? 見えないのに?」


 祝福とは精霊に愛され、無条件で力をもらえる存在である。ユシェラは自分が精霊にどうこうしてもらえるような存在ではないと思っている。

 もしそうなら、ここにいるはずがなかったから。


『見えようも、見えなかろうと、愛されていることに変わりはないわ……そうね、私の目と、耳を貸してあげるわ』


 そう言った竜は私と目を合わせた。次いで、引き込まれるような、視界が歪むような感覚に襲われた。


――そして


「……わ、あ……」


 きらきらと輝いていた。目に映るものすべてが。物の輪郭ははっきりとしていて、何より大小様々な光の球があちこちにふわふわと浮いていたのである。


「すごい……これ……」

『精霊よ。まだまだ幼いけれど、ね』


――思わず、といったところだろうか。

 癖だったのだ。ユシェラがその歌をくちずさんだのは。


――揺蕩える船は舵を絶え 絶望の引力に逆らえぬまま

私は飛び続ける

浮かび、飛び、そしていずれ堕ちるのならば――


 ユシェラはそこで言葉を切った。自分がここへ来る前のことを思い出してしまったから。

 そんなユシェラを気遣うように一匹の竜は顔を覗き込もうとするように近づいた。


『ユシェラ――? きゃぁ!』


 目の前が光に包まれた。そして暗かった。正反対のことを言っているようで、単に気絶しただけともいう。

 ユシェラはなけなしの意識の中で、僅かな間ながら言葉を交わした美しい竜のことをおもった。最後に聞いたのは悲鳴だったから、心配で。


❄❄❄


『おきて、おきて――!ねぇ!』


 女性の物だと思われる声に揺り起こされた私は重い瞼を瞬かせて覚醒した。霞んだ視界が段々とクリアになっていくのを見て――目の前に竜がいることに気が付いた。


(――あら、私以外に竜がいるなんて、珍しいこと)


 しかしまあ情けない顔をしているものかと思うと、ふと気が付く。目の前で半泣きになっているソレは私だった体であると。

 体が妙に重い。自分のてのひらを見た。白っぽい五本の短く小さな指、くるぶしまである長くぶかぶかのワンピース。

 湖を覗くと白金の髪が肩からするりと落ちる。鏡のように映る人の緑色の瞳は私を見返していた。


「間違いなく、私とあなたが入れ替わった、と考えていいと思うわ……ユシェラ」

『えぇっ!?』


 ユシェラは――竜の体だけれど――顔を顰めた。


『――ごめん、わたし……』


 悲痛な面持ちで俯いたユシェラの鼻面の上の方をぶん殴った。


『!?』


 ふひぃ、と喉の奥から細く発せられた声は何ともまあ、情けない。


「起きたことにうじうじ悩んでいるんじゃないわ。祝福をうけた子が何もないわけがないって知っておきながら油断した私が迂闊だったのよ。貴女だってそれだけの威力を持つ歌だと思わなかったのでしょう?」


 ユシェラは首を竦めて涙目で私をみた。


「私の顔で情けない顔してんじゃないわよ」


 少女にあるまじきドスの効いた声が出た。

 きっと私は疲れていたんだと思う。自分でも動揺していたのよ。多分。

 取り敢えず私とユシェラが入れ替わったという事実に変わりはない。“あの歌”はおいそれと歌って良いものではない。次に歌った時に何が起こるかわからない。精霊の力が充満するこの場所なら尚更。


「いいわね? これからは歌ってはいけないわ。貴女の歌は――そう、とても力の強いものだから。何が起こるかわからないの」


 いいわね、と念押しするとユシェラはコクリと頷いた。鏡を見ているようで、しかしそうではない。自分でいて自分ではない存在に、まさか子育てをすることになるなんて。人生何がおこるか分かったモノじゃないわね。竜だけど。


❄❄❄


 一つ、二つ、年を重ね月日はたった。四季が巡ることはなく、気温が変わることもない。ユシェラは自分がここへ訪れた時と何も変わらない風景を眺めていた。


「何か……人間――二人、ここへきているわ。何の用かしら?」


 伸ばしっぱなしにしている白金の髪を揺らして少女は森の外を見ていた。この数年で、彼女はすっかり女神のようになった。神殿の女神と違って、現実にいる、綺麗な人という意味で。髪色も一口に白金といっても真っ白だった髪色からうっすら金色を纏うような違いがある。

 私からは見えない、暗い森の奥から誰かが来られるなんて思わなかったから、私は跳び上がるほどびっくりしたけれど、楽しみでもあった。

 口の端を緩ませる私を彼女は呆れたとでも言いたげに溜息を吐いた。もともと私が入っていた体だけれども、今ではこの体にも慣れた。毎日花ばかり食べているけれど、それも美味しいと感じるのだ。元ユシェラの体も私が入っていたときとは打って変わって美しさや輝きを放つのは同じ女として負けた気がするのだが、次元が違い過ぎてもはや崇拝したくなるレベルに美しい。


「興奮して無暗に火を吐かない。暴れない、足元に注意する、言葉遣いに気を付ける。いいわね? 一般常識よ。それと、べつにつまみ出すときは私がやるから貴女は大人しくすること」


 私は火を吐いたことないじゃない! と反論すれば予兆に気が付いた精霊達と総出で威力を相殺していたのよ。と、静かに諭された。小さい頃はよく大騒ぎされることが多かったと思ったが、なるほど。


「……ん?人がいるのか」


 ふらりと闇から出てきたみたいでとても怖い。何年かぶりに見た――人間。

 身なりが良い。少なくとも、貴族であることは確か。ここに来たばかりの頃のユシェラと年頃が近そうな少年二人だった。


「何か御用かしら?」


 口元に微笑みを浮かべる彼女だったけれど、目は笑っていない。冷たく怜悧な眼差しで縄張りへの侵入者をただ眺めていた。


「いや、この辺りに竜が出ると聞いて、な。害になるようなら討伐されるから、見ておこうと思って」

「そう、なら、ここには来ないことがよろしいかと。(ここから出ていきなさい)……竜じゃなくてもこの森に害があるようならわたくしが人畜関係なく殲滅いたしますわ(じゃなきゃ殺すわよ)」

「へぇ、貴女は何者です?(お前が竜じゃないのか?)」

「わたくしは森に住まうしがない人間でございます。もう、よろしいかと(違うわよ。さっさと出ていけ)」


 ひんやりと少しずつ空気の温度が下がっていく気がする。微笑の裏で繰り広げられる白金の髪の女神レベルの美女と金髪の青年の心の声バトルはとてつもなく怖かった。

 そして私が見ていたのは、その後ろの青年だった。

 彼は私に気が付いていた。“竜”の存在に。


『君が竜?』

『――っ!』


 この人、念話ができる。水神と同じだ。


『怖がらないで、と言っても無理かな……?』


 よどみなく会話ができるのはそれほど力が強いから。黒髪の好青年は私を見て柔らかく微笑んだ。


『コイツには君のことは見えていないみたいだね。この女性が君を隠したの? 君は――捕まっているの?』

『それは違う!』


 私は思わず叫ぶように返した。水神が悪く言われるのは耐えられなかったから。


「ごめんね」


 悲しそうに笑った少年を驚いた様子で見る水神と、突然咆哮を上げながら現れた竜に抜刀した金髪の少年。刃を私に向けかけた時、殺気を纏った水神が動くよりも先に黒髪の青年が手で制した。


「彼女を攻撃しないで。すごく、怖がっているから」


 彼に言われて自分の手が震えていたことに気が付いた。あの日、断罪の日の事が不意に脳裏に浮かんでは消えた。


『大丈夫?』


 頭に直接響く声音はとても優しくて、こわばった体からふっ、と力が抜けるようだった。私が小さく頷くと、黒髪の少年がほっとしたように息を吐いた。


「では、失礼しました。……行こう」


 黒髪の少年が深々と水神に頭を下げると金髪の少年もつられたようにきっちり礼をした。


(また、会いたい)


 ほんの少しの時間、ただそれだけだったのに、今ははっきりとしたさみしさを感じていた。 

❄❄❄


 それからまた暫く時間も経ちはしないうちに、彼らはやってきた。あまりにも訪れる頻度が多いから、水神の提案で二人にだけ森を通る許可証をあげようという話になった。

 今は彼らが来るのを察知するたびに、森に張ってある結界を少し開いてここまでの最短の道のりを指し示す。それなりに時間のかかるやり方なのだ。他に侵入者がいないかどうか後から何度も調べたりするし、いろいろ事後処理のほうが面倒なのだ。

 しかし、許可証を与えてしまえば結界をすり抜けることができる。そうしたら自動的にここに転移するようにすればいい。


『ねぇ、ねぇ』

「何?」

『その許可証、ってやつ、金色の子から聞いた“外の世界”の話から思いついたんでしょ?』

「……そうだけど」


 水神は目をそらして不満そうに漏らした。ほんのりと頬に朱が差しているのを見ると、照れているのが分かる。たったそれだけの仕草で神秘的である。


「……あ、来たわ」


 水神は口元に笑みを浮かべながら嬉しそうな声で入口を見た。




 黒髪の少年――クラウスは恐れ多いほどの美丈夫になっていた。

 私は歌の力だけでなく、竜の力自体を操ることはできなくて、彼の力を借りた。そう、契約したのだ。

 そのおかげで体の大きさの調節や、無意識に火を吐くことはなくなっている。

 そして今は、


「――――っ、成功、した……?」


 ああ、空が遠い。素足で草を踏む感触も、顔にかかる髪がくすぐったいのも、何もかもが懐かしい。

 あの歌はかつて竜だった私の祖先が人間になる為に作ったものだった。そして、竜に戻れる鍵であることも知った。

 クラウスの仕事について行って私を殺したイケのある神殿に入ったとき、私はとある文献を見つけた。……クラウスやほかの人たちに見つからずに済んだのは本当に幸運だった。

 そして過去を知り、歌の力を操る練習をし、人間に戻った。

 

「あら、おはよう。ユシェラ」


 どこか神聖さのある声が背後から聞こえた。振り返ると、水神が微笑んでいた。


「練習の成果は出たみたいね」

「知っていたの……?」

「当然でしょ。すごい努力をしていたこともね、いつもより何か違ったもの」


 木陰に佇む彼女は相変わらず綺麗。その体がもともと私だったとわからないくらいだ。

 彼女は庭園に顔を向けると、片目をつむって悪戯っぽく笑った。


「今ね、ジークたちが庭園にいるのよ。クラウスはずっと貴女のことを心配していたわよ? 無茶していないかだとか、会ってくれないってすごく寂しがっていたんだから。ま、特訓でズタボロな姿を見せられないって貴女が思っているだろうから、丁重にお断りしていたけどね」


 この人、怖い。どこまで知っているの。ある意味竜のすごさを知ったよ、今。

 ジークとは、あの金髪の少年のことだ。今は成長して水神の背を抜かしているし、最近特にこの二人の仲がいい。


「行ってその姿見せてご覧なさいな。――ジークがどんな反応するか楽しみだわ……」

「そこ、最後本音が漏れてる」


 さっさと行ってきなさい、と、追い払われるようにして庭園にたどり着いた。

 場所はわかる。いつもの温室だ。深呼吸して、水神がいつも叩いているリズムで扉を叩いた。いわゆる、ちょっとした暗号だ。


「ユシェラ――?」


 私を見たクラウスがそう呟いた。一発で見抜くってやっぱすごいね。しかしジークは目玉が零れ落ちるのではと思うくらい瞠目し、挙句ティーカップを落としそうになっていた。


「そ、私、人間に戻ったんだ」


 それを聞いたクラウスはふわりと柔らかく微笑んだ。やった、と笑う姿は年相応の青年の物だった。


「ほんと、愛おしいよ。可愛すぎて」

「ありがと。お世辞でも嬉しいよ」

「え、お世辞じゃ――」

「クラウス」


 私はクラウスの言葉を遮った。そして心から微笑んで、伝えるのだ。


「大好き!」











 後、ジークと水神の話では、クラウスがユシェラと微笑み合う姿を見た使用人たちが鼻血の出血多量で貧血になり次々と倒れていったという。

 ユシェラの告白は使用人に見られなくて良かったとジークは語る。 

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