4月11日 否定と疑問を持つということと
ほんの少しだけ真面目な話をしよう。
雪車町地蔵だ。
なぁに痛みは一瞬だ。
学問の基本は懐疑である、というと全然意味が分からないという人の方が多いだろう。
言い換えれば、好奇心だ。
なぜ、どうして、という疑問が、学問を始める原動力になる。
逆に言えば、疑問を抱かないひとが学問を学ぶのは苦痛にもなるだろう。
何せ喜びがない。達成感がない。報酬系が満たされない。そんな状況で率先して物事を学ぶ人がいたら、もうそれは埒外の存在と言える。
さて、この〝疑問〟とよく似ている思考が存在する。
それが、否定だ。
リンゴは下に向かって落下するという根も葉もない例え話があったとする。
これを「なぜ?」ととらえれば疑問だが、「そんなことがあるわけがない」と考えれば否定になる。
どちらが悪いという話ではない。出発点とたどる過程が違うという話だ。
リンゴが下に落ちることを不思議に思うのなら、その理屈を解き明かすという探求を始めるだろう。
一方で、リンゴが下に落ちるという話をそもそも信じないのなら、否定するための理屈を探すことになるだろう。
両者は似ているようで全く違う。
前者は総体を探ることであり、後者は一つの現象に結論を出すことだ。
後者が積み重なれば、前者と同じものが出来上がるだろう。
前者を突き詰めていけば、おのずと後者にも答えが出るだろう。
砂のつまったバケツをひっくり返してそれを削り砂山を作るか、砂をかき集めて砂山を作るかの違いだ。
学問への入り口はどちらでもいい。
どちらでもいいが、その過程は大きく異なるということを知っておかないと、遠回りをすることになるかもしれない、ということは知っておいてほしい。
何かに興味を持ち、学ぶ。
信じられないことをつぶすために、学ぶ。
それぞれ違っていながら、同じく学問である。
そこに貴賤はないのである。
意味不明な話だったかもしれないが、こいつを心得ておくのと無自覚でいるのでは案外目に見えるものが変わってくる。
もしも読者諸氏の一助になれるなら、幸いである。
以上!
(で、これは正しいのか?)
(正しいか間違っているのかは、私の意見を聞いても仕方がないことです)
(結論を出すのは常に己ということか)
(個人の世界とは、そういうものですからね。それでは、アデュー!)
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