3月19日 神は細部に宿るが、パーソナリティーは無駄の中に生じる

 創作論が大変苦手な私こと、ドーモ、雪車町地蔵だ。

 そんな私がちょっぴり尺の話をしていく。


 尺、尺だ。

 ドラマで言えばクール、小説で言えばページ数。

 世の中に無限の時間は存在しないので、どうしても決められた範囲内でしか物語というのは紡げない。

 そうして、年々この尺というやつは短くなってきている。

 なにせ、物語というのは常に面白さがインフレーションしなくてはならないのだ。

 インフレさせる一番簡単な手段は何か、情報の濃度をあげることである。


 簡単に言えば、無駄を削り見せ場を増やすということだ。

 戦闘だったり、背景の描写だったり、人間関係だったり、それは作品によりまちまちだろう。

 見せ場を増やせば、当然見るべき点は増える。

 見るべき点で客を上手く魅せることができれば、評価はもちろん上がる。

 じゃあ、どんどん無駄を削ればいいのか?

 答えは、YESともNOとも言えない。


 たとえば、脇役Bというキャラクターがいたとしよう。

 彼の役割が、主人公の背中を押すことだけだったとしよう。

 だとすれば、そのシーンだけが存在すればいいのだろうか。

 そういった作品は、結構多いようにも思える。別に悪いことではない、上述の通りの戦略だ。

 けれども、もし尺が余っていたとすれば、脇役Bの日常だとか、主人公やそれ以外との関係性だとかを描写することもできるだろう。


 脇役Bは、もしかすると雨に濡れる捨て猫を拾うような優しい人間かもしれない。

 逆に猫を保健所に連れて行くような冷静な人間かもしれないし、見捨てたうえでラーメンを美味しく食べる人格を持っているかもしれない。

 こう言った情報はノイズではあるが……どうだろうか、脇役Bというキャラクターが、急に精彩を帯びたとは思わないだろうか?

 灰色ののっぺらぼうが、いきなり人格を持ったようには思えないだろうか。


 いわゆる掘り下げという行為だ。

 物語のなかでは一見して無駄に思える描写を踏まえたうえで、脇役Bの本来の役目、主人公の背中を押すという行為を考えよう。

 それは送り出すという優しさかもしれないし、崖の下に突き落とすという悪意かもしれない。そのへんが、急に説得力を持ち始めるのである。


 神は細部に宿る、というのは、本来ならこの用途で使うべき言葉だろう。

 しかし、いささか伝わりづらいのも事実だ。

 だから今風に言うのなら、個性は無駄の中でこそ描写される、とでもしておくのが無難なところだろうか。

 限られた尺の中で無駄を省くのは大切なことだ。

 だが、無駄の中にこそ、キャラクターの個性というのはにじみ出るものなのである。



 ……という戯れ言を3分ぐらいで思いついたので、なんか書いてみた。

 楽しんでいただけたのなら、幸いである。



(つまり、おまえはそういうキャラクターなわけか)

(自分のプロデュースは率先してやらなくちゃいけませんからね。それでは、アデュー!)

 

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