五 覚醒


「判った。判らねえが判った」

「どっちじゃ」


 自分でもよく判らねえ言い草に、撫子がクスクスと笑う。


「ああだからもう、つまりだな!

 お前らの考えていることは、到底俺なんかの頭の及ぶ所じゃねえってことだ。それだけは判った。

 だがな、だからといってこれだけは言わねえ訳にはいかねえぞ」

「ほう、何じゃ? 言うてみよ」


 俺は、愉快そうな笑みを浮かべる撫子の眼を、正面から睨み付けた。


「いいか、はっきり言ってお前らは無茶しすぎだ。

 いくら人間離れした力を持っているからって、何をしてもいいはずはねえ。

 そんな風に、自分の身を削って他人に与えるような生き方を続けていたって、絶対に幸せなんかなれねえぞ。

 世の中全部を救おうなんて考えるなら、まず自分を救うことを考えやがれ。

 何でもかんでも自分一人で背負い込もうとするな。

 もっと人間を信じろ」


 撫子が目を丸くして、俺を見つめてくる。

 この馬鹿が、何をそんなに驚いてんだよ。そんなにびっくりするようなことなんか言ってねえだろうが。

 ああああ、何だか言えば言うほど腹が立ってきた。

 そうだ、俺はあの時からずっと、お前にこう言ってやりたかったんだ。


「いいかよく聞け! もっとこの俺を頼れっ!」


 その途端、撫子が飛び付いて来た。


「うわっ」

ろうっ! 狼っ!」


 俺の首を抱き、髪の毛をクシャクシャに掻き毟りながら子犬のように頬ずりしてくる。


「好きっ、大好きっ!」

「なっ、なんだよいきなり。っんんーっ!」


 思いっきり口を吸われた。


「ぷはっ。離せ! このっ!」

「嫌じゃ、もう離さぬ! おぬしがそうせよと言ったのじゃ! 私はこの手を二度と離したりはせぬぞっ!」

「判った、判ったから!」


 撫子は俺に体を預けたまま、アハハハと笑った。


「そうじゃ、私はずっと誰かにそう言って欲しかったのじゃ。

 有難う、狼よ。私にそんなことを言ってくれたのは、おぬしが初めてじゃ」


 そうかよ。


「じゃがそれでも、私は歩みを止める訳にはいかぬぞ。

 この国には、救いを求める者はまだまだ大勢いる。

 私とて、全てを救おうなどと思い上がってはおらぬ。じゃが手の届く者くらいは救ってあげねば、私自身がぐっすり眠れぬのじゃ。

 誰の為でもない。我らは我ら自身の幸せの為に、涙の海を越え血の川を渡る道を選んだのじゃ」


 このっ、馬鹿女がまだそんなことを。

 だが……。


「はあぁあ……」


 俺は天井を仰いで溜息を吐いた。

 まあ、人の生き方なんてそう簡単に変えられるもんじゃねえってことだよな。


「判ったよ、好きにすればいい。

 けど、これだけは忘れるなよ。お前の体はもうお前一人の物じゃねえんだ、勝手に死ぬことだけは絶対に許さねえぞ」


 すると撫子は顔を上げ、さっきとは打って変わった呆れ声を上げた。


「はあ? 何を言っておるのじゃ、この愚か者め。それはこっちの言うことじゃ」

「なんだと?」

「無茶ばかりして何度も死に損なっておるのは、おぬしの方ではないか。

 いい加減にせぬと終いには本当に死んでしまうぞ」

「ぐっっ……」


 言われてみれば、その通りだった。


「ま、まあとにかくだ。お互い、無理はしねえように気を付けようぜ」

「くふふっ、そうじゃな」


 撫子が、再び体を預けて来た。


「我がつま殿よ。おぬしには摩璃桃まりもも姫の加護が付いておるゆえ、ちょっとやそっとで命を落とすことはないであろう。

 じゃがそれでも、此度こたびに限ってはまだ心許無い。故に、私からも贈り物をしておこう」


 そう言って撫子は耳元に口を寄せると、囁くように何かを呟いた。


「#‥#‥#‥#……」

「ん?」

「ん?」


 よく聞こえなかったぞ。何て言ったんだ?

 つーか、どうしてお前まで不思議そうな声を上げてるんだよ。

 もう一度、撫子が耳元で囁く。


「#‥#‥#‥ょ…」


 はて?


「これは……。参ったのう、これほど強固とは思わなんだ」


 なぜか撫子は、本気で戸惑っているようだ。


「いったい何の話だ。お前今、何て言ったんだ?」

「まあ待て、今一度やってみよう」


 撫子は大きく息を吸うと、再び俺の耳元に口を寄せ、言葉を発した。


「:目:醒:め:よ::……」


 と。

 うん、今度は俺にもはっきりと聞こえた。

 て、えっ?

 どゆこと?

 と撫子に尋ねようとしたその瞬間。

 目の前の景色が真っ赤に染まった。


「がっ……」


 同時に脳みそを殴り飛ばされるような衝撃が俺を襲い、思わず膝が砕けそうになる。

 何だこれは……。

 全身が燃えるように熱い。体の奥から、何かが湧き上がって来るのを感じる。


「お……、お前。何をした……」


 撫子は「ふう、やれやれ」と息を漏らすと、体を離した。


「おぬしの封印を解いたのじゃよ。

 いやあ、それにしても大したものじゃな。何者かは知らぬが、これを施した者は余程おぬしを人間に留めて置きたかったと見える。

 私も触れるつもりはなかったが、この期に及んでは最早そうも言っておられぬ。おぬしを死なせぬ為にも、おぬし本来の力を取り戻してもらうぞ」

「何の話……だ……」


 思うように言葉が出せねえ。口を動かすのがやっとだ。


「決まっておろう。もういい加減に認めたらどうじゃ、犬神よ」

「なっ……」


 お前まで、何を言い出すんだ。


「お…、俺は……人間だ……。犬神……なんて…、化け物…なんか…じゃ……ねえ……」


 くそっ、体が自分の体じゃねえみてえだ。

 何者かが、俺ではない誰かが、俺の体を自由にしようとしている。俺の中で何かが目醒めようとしている。


「ちくしょう……、俺の体は…俺のもんだ……。誰とも知らねえ奴なんかに…奪われてたま…るか……」


 撫子が、俺の眼を真っ直ぐに見据えて言い放つ。


「それは他の誰でもない、おぬし自身の影じゃ。

 目醒めよ、そして受入れよ。己自身の魂を!」


 その声に答えるように、俺の中の何かが静かに眼を開いた。


 うぅおおおおおぐるるるるうおおおおおー……!!!


 闇の中に咆哮が響き渡る。

 同時に強烈な破壊衝動が俺を襲った。

 誰か、誰かこの俺に獲物を捧げろ! なんでもいい、この餓えを満たす贄(にえ)を寄越せ!


 すると、目の前に贄がいた。

 俺は歓喜に狂い、贄に手を伸ばした。


 やめろおおーっ!!!

 俺は叫んだ。

 そいつは違う! そいつは贄なんかじゃねえ!


 いいや! これは俺の贄だ!

 違う! それは俺の大切なものだ!

 贄だ!

 違う!


 俺と俺は、互いを従えようと激しく争った。

 俺はようやく手に入れた自由を求めて暴れ、俺はそれを許さず力ずくで押さえ付けた。

 離せ! 俺の贄だ! 肉を喰らい、血を頭から浴びて全てを味わい尽くすのだ!

 違う! 喰らうのではなく、守るものだ!

 嫌だ! 嫌だ! 俺は喰らいたい! お願いだ、好きにさせてくれ!


 俺は尚も暴れようとしたが、その動きは徐々に弱々しいものとなって行った。そして遂に……。


 うるせえっ! お前はすっこんでろっ!!


 俺はやっとのことで俺を従えることが出来たのだった。


「見事! よくぞ己の中の影を制した。これで犬神の力はおぬしのものじゃ」


 俺に首を掴まれたままの撫子が言う。

 その言葉で我に返った俺は、慌てて手を離した。


「す、すまねえ。俺はなんてことを」

「よい。これくらい大したことではない」


 だが撫子の首筋には俺の指の跡がどす黒い痣となって残っており、食い込んだ爪痕から赤い血がダラダラと滴り落ちていた。


「大したことあるだろ、馬鹿。とにかく血を止めねえと」

「くふふ、ではきれいに舐め取ってくれ」

「え?」

「ほれ、早う」


 そう言ってクイと顔を上げ、首を晒す。


「わかったよ」


 俺は言われるままに撫子の体をそっと抱き寄せると、血まみれの首筋に唇を当てた。


「ん……」


 撫子が小さく声をあげる。

 傷は深く、血はすぐには止まらなかった。

 俺は傷口を刺激せぬように気を付けながら、周りにこびり付いた血を丁寧に舐め取ってやった。

 子犬を癒す親犬のように……、いや狼のようにだ……。

 その間、撫子は俺に体を預けたままうっとりと目を瞑っていた。

 暫くの間、唇を傷口に押し当てて血止めをした後、静かに顔を上げた。


「止まったぞ」

「ええー、もっとおー」


 何を甘えた声出してやがんだ。

 馬鹿野郎と言う代わりに、俺は撫子を強く抱きしめた。


「んふっ」


 撫子もギュッと抱き返してくる。


「で、具合はどうじゃ? 何か変わりはあったか?」


 体のざわつきはまだ収まってはいねえ。

 俺の中の俺は一応は大人しくなったが、隙あらば暴れ出そうとこちらの顔色を窺っているような状態だ。

 だがどうにか、俺を主人として認めさせることは出来たようだった。


「ああ、なんとかな。自分が自分じゃねえみたいだ」

「ふふ、それは何より」


 俺の体が白い、だが真っ白とは言い難い淡い光に包まれている。

 この色味はどこかで見たような気がするが、にわかには思い出せなかった。

 

「明日は満月、犬神の血が最もたぎる日じゃ。決戦には打って付けじゃな」


 そうか、これは月の光だ。


「おぬしの体には、犬神の血に加えて龍神の血が混じっておる。そして今、私の血もそこに加わった。

 これなら、ちょっとやそっとではやられたりはせぬぞ」


 まさか……。俺は思わず自分の唇を舐めた。


「お前の血にも、力があるというのか?」

「いや別に」

「はあ?」

「ただな、側室の私としては、おぬしの中に正室の血ばかりが入っておるなんて悔しいと思っただけじゃよ」


 阿呆か。


「んなとこで張り合ってどうすんだ、馬鹿」

「くふふっ。なあ、狼よ」

「何だ?」

「明日は、皆で生き延びようぞ」

「ああ」


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