第4話 契約書

「1円。これが私の全財産・・・。」


サイバーなんとか事務所からの帰り道、

世界一ツイていない加茂井 春子は、

スマホに表示された電子マネーの残金を見て溜め息をついた。

何度確認しても同じ。

一円たりとも増えたりしない。


そう。結局私の3000円は戻ってこなかったのである。

それどころか、電子マネーを全部失うことになってしまった。

どんな酷い目にあったのかみんなにも知ってもらいたい。


丸上 彩の紹介で、3000円を取り戻す相談をした寒江 逢乱という男。

私のようにサイバー攻撃の被害にあった人の相談を受け、

調査対応をしてくれる人らしい。


それにしても冴えない男だ。

ひと目で一生独身で終わるタイプだとわかった。

髪はボサボサだし、服装も清潔感がないし、

なんか部屋の中臭うし・・・。


始めに彩から話を聞いたときは、

ITの世界を守る、システムエンジニアのヒーロー。

よくわからないけど凄い人なんだと思っていた。

きっと天を衝くようなガラス張りのビルに住んでいる、

若くてカッコイイ運命の人に出会えるに違いない、

と、直感でそう思っていた。


でも、実際会ってみたらこんな事業仕分けされたような会社員だった。

金持ってないおっさんとかお断りだよ・・・。


「事情はわかった。

 調べるだけ調べてやる。」

「はるにゃ~ん!交渉成立だよぉ。ぶいっ♪」


それはVサインではない。Kサインだ。

冷静に相手を分析している間に、彩が寒江と交渉していたらしい。

どうやら仕事をする気になったらしく、私に電子書類を突きつけてきた。


この電子書類は、契約書を電子化したものである。

昔は紙に印刷した契約書に、サインをしたり、押印したり、

とにかく契約成立までに時間がかかった。

お父さん曰く、『スタンプラリー』。

歩き廻ってハンコを集める無駄な作業らしい。


それが今では画面を押すだけ。

生体認証によって一瞬で契約が成立する。

これがなかったらハンコを家まで取りに帰らなくてはならなかった。

調査のために契約が必要だと思わなかったし。


言われるままに契約し、調査が始まった。


「まずは、届いたという不審なメールを見せてくれ。」

「あ、はい。」


汚い手で触られたら嫌だな。と思いつつ、スマホの画面を見せた。


「言い方が悪かった。私のメールアドレスに転送してくれ。」

「あ、はい・・・。」


知らない男にメールを送ったことがバレたら、いろいろ言われそうだな、

と思いつつ、メールを転送する。

気持ち悪いからあとで送信履歴は消しておこう。


寒江はパソコンにスマホの画面を表示させた。

普段からこんな持ち運びに不便な機械を使っているのかな。

やっぱり最新のスマホを買うお金がなかったのかな。

と、心優しい私はちょっと可哀想に思った。


私の送ったメールが表示されたが、

なにやら操作すると文字がいっぱい表示されてよくわからない画面になった。

この人はメールもまともに使えないのかな?

リンクを押すだけでいいのに。


続いて寒江は世界地図を表示した。

日ノ本から北の方に線が伸びて、南に戻って、日ノ本に戻った。

線の端の丸いところにカーソルを持っていくとビルが表示された。

『サラミホールディングカンパニー』と書いてあった。


「偽装してるわけでもなく、普通にここのサーバを使ってるらしい。

 例のメールは、この会社が送信したものだな。」

「じゃあ、この会社を訴えれば私のお金が戻ってくるってこと?」

「いや、まだ調査は途中だ。」


相手がわかればこっちのものだ。

私は何も悪いことしてないんだし、騙したのはあっちだ。

雨天に向けて大砲をぶっ放し、広がる青空から無数の光が差し込むように、

私の未来には光が満ち満ちていた。

しかし、逸る気持ちを抑え、私は大人の対応を心がける。

あまりがっつくと品性を疑われてしまう。それはよくない。

大人しく調査を待つことにした。


「・・・なるほど。」

「なにかわかったんですか!?」

「これを見ろ。」


パソコンに映し出されたスマホの画面を見る。

あの時見た抽選ページだ。

何十回と見た、もう二度と見たくないページだと記憶している。

その抽選ページの下の方に何か書いてある。

・・・利用規約?


「これは確認したか?」

「してま、せんけど?」

「・・・そうか。」


私の輝かしい未来につながる光の階段が、音もなく消えようとしていた・・・。

その利用規約という文字、そのリンクは、

1万円が当たるチャンスという文字に比べたら蟻みたいなサイズで、

背景の色のせいで非常に見にくい色で、

確かに抽選ページの、スワイプして2回くらい下の方に、あった。


「ここを開くとだな。しっかり書いてある。

 『1回押すごとに50円必要になります。』

 『トライはお一人様1回とさせてください。』

 『規約を破った場合の保証は一切行いません。』

 『違法行為が発覚した場合、法的手段を取らせていただきます。』」

「ぷっ!くくく・・・。何回だっけ?

 はるにゃん何回押したって言ってたっけ?クスクス

 10回?20回?ね゙ぇぇ?」


簡単な計算である。

春子は1回50円のボタンを何回か押しました。

その結果、3000円使いました。

春子は、いったい何回ボタンを押したでしょう。


「ひぃー!おかしい!くくく・・・。笑い死ぬぅ♪

 ちょっと、はるにゃん?

 顔真っ赤じゃーん!ほらほら~♪」

「どうする?文句の一つでも言いに行くか?」


彩には笑われ、寒江には呆れられ、散々だった。

会心の出来だった天使のラテアートが、運ぶ間にドロドロに溶けて、

得体の知れない化物の絵に代わってしまったような感覚。

石橋を叩いたら、意外にも発泡スチロールでできていて、

突き破って下に落下していくような気分だった。


「本来なら、50円の損害。

 100円ガチャに比べれば極めて良心的。

 減った所で通信量か何かだと思えば諦めがつく。

 たまたま1日に何十回も押したから騙し取られたように見えなくもないが、

 この企業がやっていることに違法性はない。

 少なくともサイバー攻撃を受けたわけではない。」

「でも、こんなの誰でも引っかかるですよね?

 こんな小さな文字で、見にくくて、あとは・・・。」


とりあえずなにか言い返したかった。

言葉が続かなかった・・・。


悪いのは私だから。


くやしい。涙が出そう。

多分出てるけど、頬を伝う前ならセーフだし。

あと私にできることは、一刻も早くこの場を去ること。

二度とここに戻ってこないことだ。


「・・・帰ります。」

「待て。」

「何か?」

「料金がまだだが。」


料金?特に何か買ったわけではないけど。

少し考えてみた。

そういえば、何か電子書類にタッチしたような・・・。


「仕事したからな。休日に。」

「あっ・・・。」


そう。私は休日にもかかわらず事務所に押しかけ、

仕事の依頼をしてしまっていたのだ。

その金額、なんと2000円!

私が持っているのは、1511円!!


足りない。


「どうした?」

「あ、あの・・・。無理です。」

「何がだ?」

「お金が、足りなくて・・・。」


泣いている場合ではない。

子供の頃、高価な皿を割ってしまったときのことを思い出した。

酷く叱られ、事あることに話に出され、

いつも小さくなって生活するしかなかった。

あの日以来、もう他人に迷惑はかけまいと心に誓った。

はずなのに・・・。


「気持ちはわかるが、

 お前は既に、契約書を確認して、承諾した。

 この指紋が証拠だ。

 そして、この契約書にはこう書かれている。

 調査料金、2000円と。」

「見てませんでした。

 きょ、今日はとりあえず帰っても・・・。」


見の危険を感じた。

一刻も早くこの場を去らないと、体を要求されるかもしれない。

だってどう見ても独身だし、いろいろ溜まってそうだし、男だし。

しかしそれが逆効果。


「払えないというのなら、この指紋を2000円で買う。

 それで払え。」

「指紋を・・・?」

「正確にはお前の生体認証データだ。」


こいつは変態だ!

下着とか髪の毛とかそういうのじゃなくて、

私の指紋が欲しいなんて・・・!


「は、春子・・・?

 わかってなさそうだから説明すると、

 この指紋を売っちゃうってことは、

 この男はいつでもあなたになりすまして買い物できるってことだよ?」

「えっ?」


いやいやそんなまさか。

こいつがどう頑張って女装したところで私になれるはずが・・・。


「そういうことだ。

 この指紋を、こうやって他の契約書の上に持っていったら、

 ・・・どうなる?」


んん?

想像とは違うようである。

寒江は、さきほどの契約書を画面に写した。

そして、契約書にある私の指紋を自由に動かしてみせた。

最近の契約書は凄いなー。


「あ、あなたなんてことを!」

「えっ?どうしたの彩?」

「・・・落ち着いて聞いてね?

 春子の生体データなんだけど・・・。」


いつも頼りになる彩が、笑顔の素敵な彩が、

こんな絶望した顔をしているのを見たのは初めてだった。

どうしたらこんな絶望した気分になれるのだろうか。

歯医者にある歯を削る機械で生きたまま頭蓋骨を削られるときかな?

私がこんな絶望した顔をすることはないだろう。


「既に、この男の手に渡ってしまっているわ。」


私は絶望した。

・・・かというとそうではなかった。

何が起きようとしているのかわからなかった。


「この端末は、ただ電子書類を表示するだけの端末ではない。

 触れた相手の生体認証データを取得できる端末だ。

 この仕事は料金を踏み倒されることが多くてな、

 お前のような迷惑な客のために、

 強制的に料金を支払ってもらう仕組みを作ってある。

 2000円払うならこのデータは破棄しよう。

 だが払わないのならこの生体データを使って2000円受け取る。

 さて、どうする?」


生体データがあるとどうなるかはよくわからないが、

私を脅迫しようとしていることは理解した。

でも、おっさんだからなぁ・・・。


しかし、ただ一つだけわかっていることがある。

私は2000円払えない。

これだけは、はっきりと自信を持って言える。

この状況はまずい。

レストランでお金を払わずに帰ったら食い逃げ。

その程度のことはわかっているつもりである。


これが物語なら、ここでバッドエンドだろう。

しかし、これは現実世界の出来事。

私には、彩という親友がいるのである。


「ええと、話はわかりました。

 でもですね。この子、本当にお金持ってないだけなので。」

「・・・何が言いたい?」

「払える料金まで値引きしてくれませんか?」


さすが彩!有能!

値引き交渉に持ち込んでくれた!


「まず、この子は学生です。

 つぎに、今回はサイバー攻撃の調査ではなかった。

 そして、調査が始まってから終了まで1時間もかかっていない。

 つまり、値下げを検討できる状況にありますよね?」

「・・・なるほど。」


そうだぞ!私は学生だ!

子供からお金を取り上げるなんてみっともないぞ!

心の中で叫んだ。


「1500円だ。」

「えっ?」

「料金を1500円に下げる。」


払える・・・!

その値段ならなんとか払うことができる。

家に帰るのは徒歩になるけど。

ほっと胸をなでおろしたところで、彩が言った。


「1500円は流石に可哀想・・・、ですよね?」

「まあな。」


待って!余計なこと言わなくていいから!

1600円になったら払えないから!


「1200円にしてくれませんか?」


まだ値引きを要求するのか!

いくらなんでも虫が良すぎるのでは・・・?


「・・・わかった。」


あれ?通った?

・・・通った!

帰りの電車賃も足りる料金まで、下がった!

流石、私の頼りになる親友!

大切にするべきはやっぱり友達だよね。


「だって。どうする?」

「ありがとう彩!

 払います!1200円でいいんですよね?」

「契約成立ね。」


彩のおかげでなんとかなった!

支払いを済ませて、あとは帰るだけ。

そう思った矢先。


「待て。」

「はい?」

「そっちの彩とかいう女は残れ。

 ・・・話がある。」

「私。えっ、私?」


思わず胸を指差す彩。

ここで大変なことに気がつく。

彩のほうが、私より胸が大きい!


・・・いや、重要なのはそこではなかった。


男という生き物は、巨乳とメガネが好きだという話は聞いたことがある。

そして、彩は巨乳でメガネ愛好家なのだ!

ちなみにかけているのは伊達メガネなので目が悪いわけではない。


なぜこうも簡単に値切りが成立したのかわかった。

さてはこの男、彩に興味があるな!

最初からいやらしい目で見ていたに違いない。

値切りにつけ込んで体を要求しようとしているのだ!


そうなると私の立場がマズイことになる。

先程まで私の指紋が2000円で売られようとしていたが、

今は私の友人が800円で売られようとしているのだ。

彩はそんな安い女ではない。今までの働き的に。

そして、その原因を作ったのは、私である。

これはマズイ。私でもわかる。


ここは親友として、助けないといけない。

私がやらねば誰がやる。


「あ、あの!」

「大丈夫、春子は先に帰ってて。」

「で、でも・・・。」

「言いにくいんだけど・・・。」


あれ?なんで帰らせる?私の救いの手をはねのける?

もしかして脈アリなのか!?

まさかこんな変態に一目惚れを・・・。


「春子がいたところで、役にたたないから。」

「・・・あ、はい。」



・・・というわけで、こうして1人で先に帰っているのである。


私は、今日一日で色々なものを失った。

電子マネーだけで終わったらまだよかったと思うほどに。

彩はどうなってしまったのだろうか。

いや、多分大丈夫だろう。

あんな男に負けるような弱い女じゃない。


・・・もう一度、電子マネーの残金を見た。

1円だけ残っている。

私の隣には、いつもいるはずの、唯一の親友、彩がいない。

ちゃんと明日学校に来てくれるだろうか。

無視されたらどうしよう・・・。


「1円。これが私の全財産・・・。」


いろんな考えが頭の中をぐるぐるしていた。

そもそもサイバー攻撃ってなんなんだ。

現実世界に影響が出てるんだぞ?

ネットから出てくるな!


「とりあえず、お金。欲しいなぁ・・・。」


今度は変なメールは信じないようにしよう。

そう思った。



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