エルダーの苦悩
いい気分でアパートへの帰路に着いたユウカだったが、不意に、
「!?」
という感じでアーシェスの体に緊張が走るのを察し、ユウカもハッとなった。その視線の先を追うと、街灯が辛うじて届くそこに人影があった。
「…ヘルミさん…?」
思わず声が漏れる。そこにいたのは、確かに三号室のヘルミッショ・ネルズビーイングァだった。だが、明らかに様子がおかしい。足を引きずるように歩いているのだ。しかも、今にも崩れ落ちそうなほどにふらふらだった。
アーシェスが走り、ユウカもそれに続いた。そして力尽きるように倒れていくヘルミの体を、アーシェスと一緒に受け止めた。
「え? なに? ヒドイ怪我…!」
また思わず声が漏れた。髑髏のプリントが入ったタンクトップを着ていたが、肌が出ている部分は残らず痣や擦過傷らしき傷で埋め尽くされているような有様だった。ぱっと見のシルエットと印象でヘルミと思ったが、近くで見ると顔まで痣だらけで頭からも出血してるらしく、逆に誰だか分からない程である。
「バカ! またケンカしたのね!?」
アーシェスが怒鳴る。でもそれは、明らかに涙声だった。
『びょ、病院…!? 救急車…!?』
ユウカの頭の中を細切れの思考が無秩序に走り回る。思考がまとまらなくて何をすればいいのか分からない。だがその時、ユウカの背後から近付く影があった。
「…何してんの…?」
不意に声を掛けられてビクッと跳ねるように振り返ったユウカの前にいたのは、眠そうな目でこちらを見下ろすクォ=ヨ=ムイだった。それに気付いたアーシェスが言う。
「ごめんなさい、クォ=ヨ=ムイ。ヘルミを巻き戻してあげて!」
その言葉に「え~…?」と嫌そうな顔をしたクォ=ヨ=ムイだったが、「しょうがないなあ…」とボヤキながらいかにも嫌々やらされてますという態度を隠すことなくヘルミに向けて手をかざす。その瞬間、まるで映画の特殊効果のように見る間に傷が消えていったのだった。
するとヘルミが突然立ち上がり、
「余計なことすんなよ!!」
と声を荒げた。
クォ=ヨ=ムイは『やれやれ』と言いたげに肩を竦め、ユウカは怯えて体を小さくし、アーシェスは右手を大きく振りかぶった。けれど、振りかぶったまま動きを止めた。てっきりヘルミの頬でもひっぱたくのかと思えたその右手は、しかしアーシェス自身の右頬を激しく捉えていた。
パァンッと乾いた音がして、アーシェスの顔が弾けた。そしてヘルミをキッと見上げ、言った。
「あなたをいくら叩いても、あなたには届かないことは私も知ってる。だからあなたのことは叩かない! これは私自身への戒め。あなたに届く言葉を紡ぎだせない私自身への戒めよ!」
真っ直ぐに自分を見詰めるアーシェスの視線から逃れようとするかのように、ヘルミは視線を逸らした。
顔を背け黙ったまま歩き出すヘルミの後を追うようにアーシェスが歩き出し、それにユウカとクォ=ヨ=ムイが続く。と言っても気怠そうにゆっくり歩くクォ=ヨ=ムイはみるみる遅れてすぐに見えなくなってしまったが。
ツカツカと大股で歩くヘルミの後ろを歩くアーシェスだったが、体の小さな彼女にとってはほぼ小走りのような感じだった。
『アーシェスさん…! ヘルミさん……!』
ユウカも引き離されないように早足で歩くので精一杯だった。クォ=ヨ=ムイは…そもそもついて行く気もなかったのだろう。
アパートに着いて自分の部屋のドアを開けすぐに閉めようとしたそれを、アーシェスは体で押さえた。
「チッ!」
舌打ちしたヘルミだったが、ドアを閉めることは諦めたように部屋に上がってベッドに倒れ込み、毛布を頭からかぶってしまった。
そのまま部屋に上がり込んだアーシェスに釣られるようにしてユウカも思わず部屋に入ってしまったものの、彼女がそうしなければいけない理由は何もなかった。これはあくまでエルダーであるアーシェスの役目であって、ユウカには何の関係もなかったのだから。
勢いで上がり込んだけれど、
『ど、どうしよう…?』
とユウカは途方に暮れる。
思わず部屋を見回すと、あらゆるところに髑髏や悪魔か何かをモチーフにしたらしいポスターなのか何なのかよく分からないものが部屋中に貼られ、尖った鋲まみれの革ジャンらしきものもいくつも壁から吊るされ、おどろおどろしい気配を放っていた。
『こ…怖い……!』
完全に女性の一人暮らしの部屋などではなく、ユウカは心底震え上がった。
だがこの時、アーシェスにもユウカを気遣う余裕はなかったのだった。
と言うか、ユウカが一緒に入ってきていることにすら気付いていなかったのだろう。ベッドで毛布にくるまるヘルミに向かって、彼女は静かに声を掛ける。
「ヘルミ、あなたが信頼していた人に裏切られたことはきっと辛かったと思うし、そのことで気持ちが荒んでしまうことも仕方ないと思う。だけど、あなたがいくらそれを呪っても過去には戻れないの。無かったことにはならないの。いくら時間がかかってもいいけど、いつかはそれを認めるしかないんだよ…」
「……」
彼女の言葉に、ヘルミは応えなかった。身動き一つしなかった。アーシェスはさらに続ける。
「何度も言うように、あなたがいくら落ち込んでても恨んでてもいい。そうする自由があなたにはあるしここはそれが許される世界なの。だけど、あなたの苦しみに他人を巻き込むのはやめて。あなたがケンカした相手だって痛いんだよ?」
アーシェスの言う通りだった。ここでは命の危険もあるような武器による攻撃はダメージが再現されない。つまりケンカなどは基本的に素手で行うことになり、さっきのヘルミの姿になるほど痛めつけるには、相手にもかなりのダメージがあるはずなのだ。
多くの場合、人間の手というものは作業を行うことに特化しており、本来は殴ったりという攻撃には不向きだった。脆すぎるのである。
知性を持つ生物の場合、多くは道具に頼る傾向があるため、自らの肉体を武器することはそれほどなく、自然とそういう部分では退化してしまう。そのため、相手の体に大きなダメージを与えるような攻撃を素手で行うと、拳を骨折してしまったり手首を挫いたりということが往々にして起こるというわけだ。
ましてやここでは強力な武器や攻撃は再現されない。武器を用いた攻撃ではダメージを与えられない。となると必然的に素手での攻撃になり、そして素手で相手にダメージを与えるとなればその反動は自分にも返ってくるのである。その為、ここで長く暮らしてる人間はケンカもしなくなる。自分も痛いだけだからだ。
しかし、ヘルミのようにまだ来て間もない者の場合、ここの環境に適応できていないこともありケンカになってしまうこともある。恐らく相手も似たようなものなのだろう。
アーシェスには、相手の心当たりもあった。この辺りでヘルミの挑発に乗ってケンカをするような人間はそんなにいない。しかももしその予測が正しければ、吹っかけたのは間違いなくヘルミのはずだ。向こうはもう、自分からケンカを仕掛ける段階は過ぎていたのだから。
「ヘルミ…」
自分がいくら話しかけても全く反応すら返そうとしないことにアーシェスは、ただでさえ小さな体をさらに小さくさせるようにうなだれた。とその時、自分の背後にユウカがいることにようやく気付いて、
「うわ!」
と思わず声を上げてしまう。
「ユ、ユウカ、ついてきちゃったの? てっきり自分の部屋に帰ったと思ってたのに。あなたまで来る必要なかったんだよ?」
動悸を抑えようとでもするかのように胸を押さえながら、アーシェスが言った。それにユウカも困ったようにおろおろしながら、
「ご、ごめんなさい、つい……」
と応えた。
だが思わぬユウカの登場でアーシェスも少し落ち着きを取り戻していたようだ。
『いくら長生きしても人間は人間か…』
例え二百万年生きようとも、人間には限界があるのだということを改めて自覚する。何でも思い通りになる訳でないという当たり前のことが思い出された。
「ま、いいわ。今日はこのくらいにしておきましょう」
気持ちを切り換えられたことで、彼女の表情にも余裕が戻ってきていた。焦っても仕方がないのだと思えた。
そしてアーシェスはユウカを連れて、ヘルミの部屋を後にした。ヘルミは結局、毛布にくるまったまま何一つ身動きすらしなかったのだった。
ユウカと一緒に彼女の部屋に戻ったアーシェスは、
「回鍋肉いただくね」
と言って冷蔵庫からタッパーを取りだし中身をフライパンにあけ、コンロの火にかけ温める。ユウカはテーブルに着いてそんなアーシェスを黙って見ているしかできない。するとアーシェスが静かに語り始めた。
「さっきも言ったけど、ヘルミは信頼していた人に裏切られて命を落としてここに来たの。だからあんなに気持ちが荒んでしまってるんだっていうのは私にも分かる…」
「……」
「彼女はね、昔は魔法使いだったんだよ」
「…ま、魔法使い…? ヘルミさんが…?」
言われてみればあの部屋のおどろおどろしい雰囲気とか、イメージが無いというわけではないが、それでもどうにも結びつかなかった。
『魔法使いって言われたら、やっぱりあの映画とかアニメの魔法少女とかってイメージかなあ…』
それがユウカの思う<魔法使い>だったからだ。
そんなユウカをよそに、アーシェスは言葉を続ける。
「彼女の
「……!」
そこまで言われて、ユウカは思わず息を呑んだ。自分が思っていたものとはかなり違っているように感じたからだ。
『魔法使い同士で殺し合い…?』
そう思った時、ユウカの頭にハッとひらめくものがあった。
「まさか、魔法使い同士でって…?」
そう問い掛けたユウカに、振り返ったアーシェスが静かに頷いた。
「そうよ……ヘルミは、魔法使い同士の殺し合いで殺されたの。しかも、彼女が信頼し、守りたいと思った人にね…」
「……!」
ユウカは言葉もなかった。そんなことがあったのなら、あの様子も無理ないと思ってしまう。アーシェスはさらに続けた。
「ヘルミはその人を守って戦った。その人はすごく優しくてとても戦いには向いてない人だったから。彼女はその人を守りたかった。でも…」
「……」
「でも、それは全て、その人の狙いだったのね……優しくて思いやりがあってってすれば自分を守ってくれる人が現れるっていう狙いだったの。そしてヘルミは完全にそれに乗せられてしまった。その人を守って戦い抜いて二人だけになったヘルミはホッとして、その人に抱かれて眠ってしまった。だけど、彼女はそのまま永遠の眠りにつかされて、それでここに来たのよ。しかも、そのことを彼女も知ってる。命が尽きる直前、一瞬だけ意識が戻って全てを察してしまったから……」
「そんな……」
それを聞かされたユウカの目に、光るものが見える。
アーシェスもそうだったが、ヘルミにもとても自分には理解できそうもない辛い過去があったことに、ユウカは涙が抑えられなかった。そんな彼女を見て、アーシェスがふわっと微笑んだ。
「ユウカは本当に優しいね」
そう言われて、ユウカは気恥ずかしくなって顔を伏せてしまった。
『でも、私なんかが優しいっていったら、アーシェスさんはそれこそ女神とかのレベルじゃないかな……
私のこともヘルミさんのこともこんなに一生懸命になってくれて…どうしたらそんな風になれるんだろ……?』
と不思議でしかたない。
『それに…アーシェスさんもヘルミさんも、どうしてそんなに辛い目に遭わなきゃいけなかったんだろう……』
そんなことを思い、やっぱり涙が零れた。
アーシェスは言う。
「ユウカ……辛いことや苦しいことっていうのは、いつだってどこにだってあるんだよ。もちろんここにだってそういうことはある。死ぬことはなくても、片思いをしたり失恋したり誰かとケンカになったり裏切ったり裏切られたりなんてことは普通にあるの。
だけど最後の瞬間に、自分は生まれてきて良かったと思えたら、どんな辛かったことも苦しかったことも報われると思う。私は二百万年の間にそういう人をたくさん見てきた。みんなとてもいい顔をしてた。いつかは私もそうなりたいって思ってるんだ」
柔らかく、穏やかにそう話すアーシェスに、ユウカは自分が落ち着くのを感じていた。
『もしかしたらヘルミさんもいつかはアーシェスさんみたいになれるのかな……』
と考えたら、少し気が楽になったように思えた。
だがユウカは、この時、気付いていなかった。アーシェスの語った内容の不可解な部分に。死なないはずのここで何故『最後の瞬間』というものがあるのかということに。
彼女がそれに気付くには、まだ時間があるだろう。その間、ユウカはただここでの生活を楽しめばいい。そうして心の余裕を作った上で、その事実を受けとめられるだけの器を作った上で、改めてそれに向き合えばいい。いずれは来る別れだとしても、そんなに急ぐほどのことではない。
アーシェス自身、ユウカとヘルミのことは気がかりだった。既に後任は決まっているが、ちゃんと見届けてからその時を迎えたかった。
二百万年。普通の人間にとっては気の遠くなるような長い時間、たくさんの人間を見守ってきたアーシェスは、今、とても満たされていたのだった。
ただその前に、この二人のことはちゃんとしてあげたかったのだ。でないと、ゆっくり休めそうもなかったから。
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