それぞれの日常
「さて、この部屋のことだけど…」
アーシェスの胸に縋って泣いて、やっと気分が落ち着いてきたユウカは、アーシェスに促されるままに部屋の説明を改めて受けた。
部屋には、浴槽はないけれどシャワーが供えられていた。すぐ近所に銭湯もあるそうなので、湯に浸かりたいならそちらに行くことも可能だ。着替えはある。タオルもバスタオルもシェルミが改めて贈答用のを差し入れてくれた。ボディーソープとシャンプーやコンディショナーも、マニが溜め込んでいた試供品がもらえた。
『本当に、何から何までお世話になりっぱなしだなあ……』
そんなことを思いながらシャワーを浴びる。
『本当は湯船に浸かりたいけど、そこまで贅沢は言えないよね……』
という訳で、今日はさすがにシャワーだけで我慢した。
『銭湯とか……他の人の前で裸になるとかホント無理。修学旅行でみんなと一緒にお風呂に入るのもイヤだったのに……』
と、銭湯デビューするのはさすがに辛かった。
それどころか、
『学校の体育で着替えるのも嫌だったし、水泳なんてそれこそ休めるものなら休みたかった。水着は下がショートパンツ型のセパレートになってたのは唯一の救いかな。昔のスクール水着なんて絶対無理……!』
この部屋のシャワーにしても、本当に狭いユニットタイプのシャワー室だから、脱衣所も当然なくて、アーシェスに背中を向けてもらって服を脱いだ。中はさすがに綺麗で、お湯もちゃんと出た。体を洗って頭を洗って、それを一気にシャワーで流した。気持ち良かった。
コンディショナーで髪をケアして最後にもう一度流して、シャワー室の扉をそっと開けた。アーシェスはちゃんと背を向けてくれてた。床に置いたバスタオルを拾って体を拭いて、シェルミにもらった生理用ショーツを穿いて、キリオからもらった服の中から部屋着にちょうど良さそうなシンプルでふわっとした感じのワンピースを身に着けると、
『あ~…すっきりした気がする…』
と思えた。すると、
「じゃ、次は私が入らせてもらうね」
アーシェスはそう言うと、パパッと服を脱ぎ捨てた。
『あわわ……!』
ユウカが慌てて背中を向ける。見られるのももちろん恥ずかしいが、他人の体を見るのも気恥ずかしくて苦手だったからだ。
「バスタオルと着替え、ここに置いときますね」
アーシェスがシャワー室に入ってからそう言って、やっぱりキリオからもらった服の中からTシャツを着替えとして扉の脇に置く。体が小さいからそれで十分だった。
ドライヤーはまだないので自然に乾くのを待つ間、いろいろ話をした。この地域はユウカのようなヒューマノイドタイプの人間が集まる地域で、他にもいろんなタイプごとに地域が分かれてるとか、まずは仕事を探さないといけないとか、ここでの暮らし方についての具体的な説明だった。
髪も乾いてそろそろ寝ようとなった初めての夜。ユウカはアーシェスと一緒にベッドに入った。
「おやすみ」とアーシェスが言い、
「おやすみなさい」とユウカが応えた。
別に何をする訳でもない。ただ一緒に寝ただけだ。だけど、
『不思議……なんかすごく安心する……』
ユウカにとっては大きな安心感を生んだ。だから昼間はあんなに不安だったのに、自分でも驚くくらいすっと寝られたのだった。
『……やっぱり、夢じゃなかったんだな……』
翌朝、目が覚めるとそこには見慣れない天井があって、ゆっくりと視線を巡らせると確かにあの部屋だった。
昨日のことは夢じゃなかったんだなと改めて実感する。
『アーシェスさん…』
アーシェスはすでに起きてて、ユウカが起きるのを待ってくれていた。
「おはよう」
そう声を掛けられて、ユウカも、
「おはようございます」
と返事をした。起き上がってまず髪を整えようとしたら鏡がないのに気付いて、
『あ…そうか…』
と思った。
「鏡がないよね。今日にでも手に入れなくちゃね」
アーシェスが察したように言う。そして、
「今のところはこれで何とかね」
と、スマホのような携帯端末を出して、ユウカの前に差し出してくれた。カメラが起動してて、画面に自分の姿が映し出されている。
「ありがとうございます」
と恐縮しながら画面を見つつ手櫛で髪を整えようとしたが、
『あ、あれれ…?』
鏡とは違って左右反対になってなかったから逆に戸惑ってしまった。その様子を見ていたアーシェスが、
「ごめん、鏡面モードの方がやりやすいかな」
そう言いながら携帯端末を操作して、画像が反転した鏡の映り方にしてくれた。すると今度はスムーズにできた。
とは言え、
『ブラシもなければドライヤーもないからなぁ……』
綺麗には整えられない。普段から特に何かセットとかしてるわけでもないストレートのセミロングだから辛うじてなんとかなったという感じだが、しかし今はこれでも仕方ない。
それからとりあえず口をゆすいで顔を洗って、キリオからもらったテーブルを挟んでアーシェスの向かいに座る。するとアーシェスが、テーブルの上に置いた買い物袋からサンドイッチとオレンジジュースらしきものを取り出して言った。
「とにかく、朝ご飯にしよ。それから今日は買い物に行って、その後は仕事探しだよ」
『仕事探し……!』
言われて、ユウカは緊張するのを感じた。
『まだアルバイトもしたことがないのに仕事とか、できるのかな……』
と思った。
しかしそんな不安も彼女にとっては慣れたものなのか、アーシェスが穏やかに微笑みながら語り掛けてくれる。
「大丈夫よ。ここには本当にいろんな仕事があるの。
それに、ここでの仕事は、税金を払ったりする義務を果たすための仕事じゃないし。純粋に、自分が誰かの役に立つ存在だっていうのを実感するためにやるだけだから、そんなにシビアなことを要求されたりはしないわ。
まあ、その辺は仕事にもよるけどね。クオリティを要求される仕事だったりすると、さすがにその部分ではシビアかな」
と、微妙に安心できるようなできないような説明に、ユウカは戸惑うしかできなかった。
しかしまずはサンドイッチを食べて、オレンジジュースらしきものを飲んで、どうやらサンドイッチと一緒にアーシェスが買ってきてくれた歯ブラシと歯磨き粉で歯を磨いて、一応、用意は済ましたのだった。
『あ、これがいい! カワイイ♡』
アーシェスは自分の服に着替えて、ユウカはキリオからもらった中にあった、少し華やかな感じの、でも派手すぎない淡い黄色のワンピースを見付けてそれに着替え、外へ出た。
『このワンピースにスニーカーはちょっと似合わないかもだけど……』
靴はスニーカーしかなかったが、今のところは仕方ない。マニからもらったサンダルはそれこそちょっと外に出るとき用だ。
「生活に必要なものをちゃんと揃えなきゃね。これは、私からのプレゼントだよ」
アーシェスはそうは言ってくれてるけれど、
「え…でも……」
と、やはり恐縮してしまう。しかしそういうのも慣れているのか、彼女はにっこりと笑った。
「大丈夫。私、お金には余裕あるの。ざっと三百年くらいは何もしなくても暮らせる程度にはね」
「三百年……!?」
三百年という数字には驚いたものの、それがどれほどの金額かはピンと来なかった。ただ、
『だったら大丈夫なのかな…』
とも思えて、少なくとも負担にはならないと感じられて、いくらか気が楽になった感じがした。
そしてアーシェスの後ろについて歩く。
『不思議な街だな……建物は和でも洋でもないし、道路は石畳だし……でもなんか、日本の住宅街の路地っぽい気もする……
道も狭いし、自動車とかは通れそうにないなぁ……』
また、すれ違う人はやはり一目見て地球人じゃないと感じるのがほとんどだった。だが、基本的なシルエットとしては地球人である自分とそんなに違わないようだ。頭があり腕があり脚があり、いわゆるヒューマノイドタイプと言われるような人間が多かった。アーシェスも言っていた通り、ここはそういう人間たちが主に暮らす地域なのだ。
昨日と同じようにすれ違う人のほとんどが顔見知りらしく、アーシェスは挨拶を交わしながら歩いた。
『顔が広いんだな…って、二百万年も生きてたら当たり前なのかな…』
しばらく歩くと、少し大きな建物が見えた。
『スーパー…? ホームセンターかな……?』
見ただけでは判然としないが、どちらにしてもこの辺りの住人が買い物に訪れる店だというのはすぐに分かった。
中に入ると、
『なんか、ホントにスーパーとホームセンターが一緒になったみたいな店…』
とユウカが感じたとおり、スーパーとホームセンターが一体になったような作りの店だった。だが、広さはそれほどでもない。食品のみ扱っているスーパーよりは少し大きい程度だろうか。食品売り場と日用品売り場の面積がほぼ半分ずつといった感じだった。
「食料品の方は差し入れで冷蔵庫がいっぱいだから、今日のところはいいよね。まずは日用品だね」
アーシェスの言う通りだった。今日は、日用品を手に入れるために来たのである。
ティッシュ、鏡、ブラシ、洗剤、掃除道具、ハンガー、洗濯用品、リュック、折り畳みカート等々、取り敢えず必要なもの、必要そうなものをショッピングカートに乗せてレジに行った。するとアーシェスはカードで会計を済ませた。それから品物を段ボールに詰め、それを買ったばかりの折り畳みカートに括りつけて、ひとまず買い物は終わりだ。
買い物を終えてアパートに戻ると、キリオがちょうど玄関を出るところだった。
「やあ、ユウカ。今日も可愛いね」
当たり前のように挨拶としてそういう言葉が出てくるキリオに、ユウカは、
「ははは……」
と乾いた苦笑いしか返せなかった。ヌラッカのことが頭に浮かんだからというのもある。
「今日は仕事が入ってるんだ。うちのマネージャーが優秀で大変さ。僕はもう少し抑えたいんだけどね」
そう言いながらキリオは自転車を出してきてそれに乗り込み、颯爽と走り去ってしまった。
『こういうところだけを見てると確かに恰好良くてさすがにモデルだなって思うんだけどな……』
そんなことを思うユウカの隣で、
「ヌラッカは歯科技師だから先に出勤したのね」
アーシェスが補足するように言葉に出した。
『そう言われれば昨日、そんなことを聞いたような……』
などと考えながら荷物を持って自分の部屋に向かった。
「あ、おはようございます」
部屋に戻る寸前、六号室のドアが開いて中からクォ=ヨ=ムイが出て来た。昨日とは別のものだがやはりグレー系のビジネススーツに身を包みつつも、その全体から漂ってくるのは何故か夜の雰囲気だった。もう少し派手な感じのスーツだったりしたら完全に水商売の女性っぽさがある。気怠そうな眠そうな表情と、微妙に体が常に揺れていて、相手を誘っているかのような隙を感じさせるからだろうか。
「おはよ…」
ポツリと呟くように一言だけ返し、階段を下りて行ってしまった。
『仕事でも行くのかな…?』
と思った時にユウカは気が付いた。
『そう言えば、クォ=ヨ=ムイさんの仕事って聞いてなかった気がする…』
それを察したアーシェスが言った。
「彼女は仕事はしてないわ。あの恰好は単に習慣でそうしてるだけみたい。仕事しなくても何でも自分で作り出せるし。ただ、仕事じゃないけどいろいろと付き合いはあるみたいで、ああしてしょっちゅう出掛けて行くのよね」
その言葉にも気になるところがあった。
『付き合い、って何だろう…?』
それにもアーシェスは応えてくれた。こういう時に相手が何を考えてるかというのが、その豊富過ぎる経験から分かってしまうのだろう。
「基本的には、同じ邪神とかと集まってるみたい。そこで、勝負とかもしてるらしいのよね」
「え? 勝負? 邪神同士で……?」
とユウカは驚いた顔でアーシェスを見た。さすがにラヴクラフト全集なども読んでるだけあって、邪神同士で勝負とか不穏さしか感じなかったからだ。が、アーシェスはやれやれという感じで肩を竦めただけだった。
「どんなに派手にやり合ったって、精々殴ったり蹴ったり程度の威力しか再現されないから、ただのレクリエーションみたいなものだけどね」
『ふう…何とか片付いたかな……
今、何時だろう?』
店で買ってきたものを一通り片付けた頃、既に太陽がほぼ真上まできていた。時計も買ってきたのでテーブルに置いたが、アーシェスが操作して地球時間に合わせたアナログ表示にすると、数字が一から十四まであった。
『え? 十四時間?』
そう、一日が二十八時間ということだ。
「地球の時間と多少はズレると思うけど、これはもう慣れるしかないよね。そういうことも含めて慣れるまでの間は、その人の生活リズムとかについてとやかく言わないというのもここの暗黙のルールよ。
何しろ、惑星によっては一日が八時間だったり四十時間だったりするところもあるし、そこまで差がある場合は慣れるのが大変だから」
「…あ、そっか。そうですよね」
言われてみれば納得だった。地球以外の惑星が地球とまったく同じということの方が確率的にはありえないと言っていいほど低いだろう。同じ太陽系でも、地球と火星では、一日の時間は大きく違わないが、地球の一年が三百六十五日なのに対して火星は六百八十日ほどだったりするのだ。それを考えるだけで異なる惑星の種族が同じところで住むことの難しさが分かるというものである。
「<書庫>の時間については、ここを作った種族の母星のそれを基準にしているの」
そう言いながらアーシェスは、時計を見つつ説明を続けた。
「え、と、地球時間で言えば一日は二十八時間ほど。一年は三百九十七日ってことね。ちなみに季節はないわ。このニシキオトカミカヌラ地区は一年を通してずっと温暖よ。
でも、地域によっては熱帯だったり寒冷だったりするから、季節感とか味わいたかったら他の地域に遊びにいく形になるわね。私も年に何回か、熱帯の地域に行って海で泳いだり、寒冷の地域に行ってスキーしたりするのよ」
「はあ…」
としか、ユウカは言葉が出なかった。何もかもが初めての経験だから、
『受け入れるしか、慣れていくしかないんだよね。
でも、ずっと温暖っていうのは助かるかな。暑いのも寒いのも苦手だし』
そう考えるしかなかった。
アーシェスの説明も一区切りついたところで、昼食にすることになった。冷凍チャーハンだ。電子レンジがあればよかったのだが、残念ながら今はないので、さっき買ってきたフライパンで炒めることになった。
「温めるだけだから簡単だし、ユウカもやってみる?」
「あ、はい…!」
アーシェスに言われて、フライパンにかけられた冷凍チャーハンを、まんべんなく火が通るようにお玉でかき混ぜた。
「あんまり慣れてない感じだね」
「はい。お母さんが触らせてくれなかったから…」
そう。実は、こういうことも初めてだった。ユウカの母親は余計な手間を嫌って彼女に手伝いをさせなかったからである。
『初めて自分で作った……』
ただ冷凍チャーハンをフライパンで温めただけの、とても料理とも言えないようなものではあったが、ユウカは初めて自分で食べるものを用意して、少し気分が高揚していた。そのせいか、とても美味しく感じられたのだった。
「美味しい…!」
と思わず声を出して、アーシェスはそれを微笑ましげに見ていた。
だが、そうやって腹ごしらえが終われば今度は仕事探しだ。
「さ、いよいよここで暮らしていくための本番だよ。とりあえず、私の心当たりから行ってみよう」
「……はい…!」
促されて、ユウカは身が引き締まるのを感じていた。
アーシェスに従うように歩き、今度は本屋らしき店に到着する。
「やあ、アーシェス、元気そうだね」
彼女の顔を見るなり、店員と思しき男性が声を掛けてきた。細身の眼鏡をかけ、痩せ型で背の高い、尖った耳を持ち緑がかった長髪を後ろでまとめた、いかにも普段から本ばかり読んでそうな印象の若い男性だった。
『わあ…なんかすごく<本屋さん>って感じがする…!』
なんて思ってしまう。
「こんにちは、ハルマ」
応えながら、アーシェスがユウカに向けて手を差し出し、ハルマと呼んだ彼に向かって紹介した。
「この子が、昨日連絡したユウカ。あなたと同じで大人しい子だから、まずはここでと思ってね」
それに合わせてユウカも頭を下げて、
「
と少しオドオドした感じながらも自分で声を出して挨拶できた。そんなユウカに向かってハルマは、
「僕はハールマリオン・ポルテルナ・メルテ。この書店の店長だよ」
『え? 店長さん…!?』
声には出さなかったが、ユウカは心の中で思わずそう驚いていた。
『アルバイトの店員さんかと思った…!』
そう。せいぜい大学生くらいにしか見えなかったからだ。だがその後すぐに、
『あ、そっか、ここでは年齢とか見た目では分からないんだ…』
と気が付いた。事実、
「若そうに見えるかもしれないけど、僕ももうこれで百歳を超えてるんだよ」
と少しはにかんだ感じでハルマが言った。しっかり目を見られなかったから彼の口を見ていたら、やっぱり口の動きと声が合ってなかった。日本語に自動変換されてるということがまた改めて感じとれる。
彼のことには少し驚かされて一瞬気が逸らされてしまったが、ユウカはこの時、正直言って困っていた。
『どうしよう…接客とか無理~……っ!』
人と接することが得意でない彼女は、接客仕事とか有り得ないと思っていたからだ。だがそれを見抜いたかのように、ハルマは言った。
「大丈夫だよ。まず君にしてもらう仕事は、バックヤードでの商品の整理だから。そんなに難しい仕事じゃないよ」
自分の考えてることがバレバレなことに改めて気付いて、
「は…はい! ごめんなさい…っ!」
と、思わず謝ってしまったりしたのだった。
「この子はイシワキ・ユウカさん。今日から研修という形でここで働いてもらうことになりました」
「よろしくお願いします…」
戸惑いつつもユウカは丁寧に挨拶できた。しかし同時に、
『これを断っても他にいいのが見つかるか分からないし……』
とも思っていた。
これを断って次の心当たりを見たほうがいいかなと思えるほど仕事というものを肌で理解してなかったユウカは、物は試しととりあえずここで働くことに決めた形である。
アーシェスとはそこで一旦別れ、そしてハルマにバックヤードに連れてこられて、眼鏡をかけた知的な感じのする、でも少し鋭い視線を向けてくる若い女性に紹介された。
「彼女はここの責任者で、タミネル・フミタニア。彼女の指示に従ってもらえればいいからね」
ユウカの方に向き直ったハルマが、穏やかに笑いながらそう言った。
『店長さんが優しそうな人で本当に良かった…』
と、いくらかはホッとできたが、彼が店の方に戻ると、ちょっと怖そうな印象のあるタミネルを前に体が固まるのを感じていた。
『うう…緊張する……』
そんなことを思っていたユウカに、タミネルが語り掛ける。
「イシワキ・ユウカさん。それでは早速、こちらの箱の中の商品の検品からお願いします。この目録と実際に入っている商品が一致するかを確認するのがあなたの仕事です。もし分からないことがあればすぐにおっしゃってください。決して、分からないままで自分で判断しないようにお願いします」
彼女の言葉は淡々としていて事務的で冷淡な印象があった。
「は、はい…!」
と返事はしたものの、緊張で背中に冷や汗が浮かび上がるのを感じた。そんな彼女に対してタミネルはあくまで冷静だった。
「箱の中から商品を出して、こちらの棚に仮置きしながら、目録に描かれたタイトルや数量と一致するかを確認していく作業です。今日はそれほど忙しくありませんので急がなくても結構ですが、確実にお願いします」
タミネル自身で手本を見せつつの簡潔な説明だったために、要領はすぐに理解できた。そこで早速、ユウカも言われた通りにやってみる。
『なるほど…見たことない文字だけど意味は勝手に頭に入ってくるから何とかなりそう…』
とも思う。これなら自分にも無理なくできそうだと感じた。
だが、しばらく作業を続けていると、不意にユウカの手が止まった。
『あれ…? これって……』
彼女が手に取った本のタイトルは『思い出の川を越えて』となっていたのだが、目録の方では『思い出の川を越えたら』となっていたのだ。
ただの打ち間違いの様にも思える些細な違いだったために、
『別に気にしなくてもいいのかな……』
と一瞬、思ってしまった。
『あ、でも……』
本当にそれでいいのかと思い直して迷っている彼女に、タミネルが声を掛けたのだった。
「イシワキ・ユウカさん、分からないことがあったらおっしゃってくださいと申し上げたはずですよ」
タミネルの口調が少し厳しい感じだったように思えて、ユウカは思わずビクリと体をすくませた。
「あ…あの…」
声を出そうとはするのだが実際には声にならず、おろおろと目を泳がせるだけになってしまった。
『お…怒られる……?』
そんなことを思ってしまう。
ユウカを前にタミネルは黙ったままこちらを見ている。やがて少し頭の中が整理され始めてようやく、
「こ、これ、紙に書かれてるのとちょっと違うみたいです…」
と説明することができた。するとタミネルが目録を覗き込み、呟くように言ったのだった。
「これは品物が違いますね。こちらが発注を掛けたものは『思い出の川を越えたら』です。でも届いたのは『思い出の川を越えて』。まったく別の品物です。正しい品物を送ってもらわないといけません」
淡々とした感じで『思い出の川を越えて』というタイトルの本を手に取り、それを別の棚に置きつつ、バックヤードの隅に置かれた机の引き出しから紙を一枚取り出してきて、ユウカに見せた。それは『報告書』と書かれた紙だった。
「こういうことは時々あります。今回はたまたま問屋側のミスでしたが、こちら側のミスの場合もありますので、この紙に気付いた内容を書いた上で必ず私に報告してください。何か気付いたことがあれば、報告、連絡、相談です。ホウ・レン・ソウと覚えてください。あなたはまだこの仕事の全体を把握できていません。判断は私の仕事です。あなたの役目ではありません」
「は…はい……!」
背筋を伸ばし緊張しきったユウカが何とか返事をする。
『怖かった…怒られるかと思った……』
淡々とはしているが、良く聞けば特に怒っている感じはなかった。
タミネルはただ、ユウカに説明しているだけなのだ。アパートの住人には朗らかな感じの人が多かったが、ポルネリッカやヘルミのように必ずしもそうでない者もいた。これもまた、それと同じことなのである。しかし、タミネルはポルネリッカやヘルミのように面倒臭がっていたり攻撃的だったりしている訳でもない。単にひどく事務的なだけだ。しかも、事務的ではあるが丁寧でもある。決しておざなりな訳ではない。
報告書の書き方を丁寧に説明し、ユウカにそれを書かせて受け取りつつ、
「では、続きをお願いします」
静かにそう言って自分の持ち場に戻っていった。その背中を見送りながら、
『でも、怖い人じゃないみたい……もしかしたら人と愛想よく話するのが苦手なだけなのかな…』
と、ユウカは思った。そしてそれは事実だった。タミネルもまた、辛い過去を背負っており、ただ今はまだうまく笑顔が作れなかっただけなのであった。
そう。人にはそれぞれ事情というものがある。それを頭に入れなければ、人間関係など元より上手くいくはずがないのだ。自分が上手く人と関われないという事情を考慮してもらいたいのなら、自分もまた、他人の事情を考慮しなければいけないのである。
「よく頑張りましたね。はい、これが今日の分のお給金です。半日分ですけど、ここでの最初のお給金ですね」
夕方。そろそろ日が暮れ始めた頃、仕事の終了を告げられたユウカは、ハルマからそう言って封筒を渡された。
「あ、ありがとうございます」
決して大きな声ではなかったが、ユウカは確かにそう応えて頭を下げた。それが、この時点での彼女にできる精一杯の事だった。
『お給料…私、自分で働いてお給料もらったんだ……』
その事実に胸が熱くなる。手にした給与袋を見詰めて動きが止まる。
そんな彼女を、ハルマは穏やかな表情で見守っていた。でも、しばらくして、
「じゃ、明日は朝の九時からお願いしますね」
と声を掛ける。
「…あ、は…はい……!」
言われてユウカはもう一度頭を下げて店を後にした。
ここでの仕事は、四日働いて二日休みというシフトだった。
ちなみに、<書庫>の中では<曜日>という概念はない。ここを作った種族にそういう概念がなかったためにそうなっているのだ。これも慣れていくしかないだろう。また、<月>という概念もない。
だがその辺りは、細かいことを気にせず毎日を凡庸に送ることを心掛ければ、慣れるのは実はそれほど難しいことでもなかった。ここでは制度上、明文化された上で保証されている<権利>というものはない。その代わり<義務>もない。勤労の義務もなければ納税の義務もない。ぐうたらにだらしなく生きようと思えば生きられる社会なのだ。
が、意外なことに本当にそういうふうにして生きてる人間は、全体から見れば0.02%ほどしかいない。暮らしている人数が多いからいくら割合が低くても数そのものは多くなるが、そういう人間を養うために誰かが代わりに何かを負担しているわけでもないので、不公平感は生じなかった。
何しろ飢えても死なないのだ。働く気がなければ放っておけばいい。放っておいてもどうせ死なない。本人がただずっと飢えに苦しむだけなのだ。で、そのうち、それに耐え切れなくなり何か仕事をし始めるのである。
泥棒や強盗をする必要はない。施しを受けたいと願い出れば必ず誰かがそれに応えてくれる。しかも、『死なない』のだから脅しもさほど効果がない。
また、老いず朽ちずの状態で延々と怠惰な生活を続けるということは、実は結構な苦行でもある。いつか終わりがあると思えばこそそこまでどうにか楽をしたいと思うのであって、大抵の者は百年もそれを続けると飽きてしまう。そしてやはり、無理のない範囲で働き出すのだ。適度な刺激を得るために。
仕事もまた実に多種多様で、物質社会ではおよそ成立しないようなただの児戯のようなものでも仕事として成立する。通貨はただ物品やサービスを手に入れるための単なる道具でしかなく、それ以上の価値もそれ以外の価値もなかった。
この社会は、そういう形で成り立っているのである。
給料は、手渡しでもいいし振り込みでも構わない。と言うか、決まった形がないのだ。通貨の代わりに物品でも構わない。物品で支払われる仕事が嫌なら他の仕事をすればいい。農業や漁業を生業としてる者は、それこそ物々交換で必要なものを手に入れる場合が多い。
また、ここに来たばかりの者に対しては、しばらくの間、日給という形で給金を渡すのも慣例となっていた。手持ちの通貨がないのだから、それに配慮してのことである。
そしてこの社会の一番の特徴としては、
『行政や政府が存在しない』
ということである。そう、まさに無政府社会なのだ。とは言っても、この<書庫>そのものを管理している者はいるので、それがある意味では政府であり行政であり司法でもあるから、完全な無政府というわけでもないとも言えるのだが。しかし、ここに暮らしている者は一切それに関与できない。
その一方で、泥棒や強盗をする必要がないからそんな者も滅多におらず、死なないから殺人事件が存在せず、どんな怪我をしても必ず元の状態まで回復するから傷害事件があってもそれほど深刻な話にもならず、様々な価値観を持つ人間が存在するということは性的嗜好や習慣についても様々な人間がいるために性衝動を制御する方法が必ずあることでレイプ事件もほぼなく、破壊衝動や暴力的傾向を持つ者すらそれほどの期間を置かず牙を抜かれたように大人しくなってしまう。暴力に依存する意味がここには存在しないのだ。故に、クォ=ヨ=ムイのような邪神ですら借りてきた猫のように大人しくなってしまうのである。
それだけを聞くと、いかにもここが理想の楽園の様にも思えるだろう。だが、実際には意外とそうでもない。年間の<自殺者>は、新しくここに来る人間の数とほぼ一致しているという厳然たる事実がそれを物語っていた。
死ねないのに自殺?と思うかも知れない。だが、ここにも自殺と言うか、<自殺のようなもの>は存在するのだ。要は、一切の生命活動を休止し自らを凍結してしまえば、滅ぶことはないが実質的には死んでいるのと同じである。それについては今後詳しく語ることになるだろう。
ここは、己の状況を受け入れることができるようになった人間にとっては楽園にも思える社会ではあるが、死ぬことも滅することもないという事実は、別の角度から見るならここが<絶対に解放されることのない、緩やかな永遠の監獄>でしかないという一面も確かに存在するのだ。故に、それから逃れたいと望み自ら生命活動の休止を選択する者もいるということでもあった。
ユウカも、いずれはその現実に直面することになるだろう。それは、ここに暮らす者にとっては避けることのできない現実なのだから。
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