騎士学園のドン・キホーテ

かきな

第1話 プロローグ:その日、騎士に出会った

 それはまだ春の暖かさを感じさせない二月のことであった。冬の厳しさを思わせる風がビル間を吹き抜ける。平日の午前、この町は忙しない社会の喧騒に包まれていた。車道を行きかう社用車、ビル建設に響き渡る重機の音、早足に革靴を鳴らすスーツの群れ。


 そんな中でブレザーに身を包み口元をマフラーに隠したあどけなさの残る少女が歩いていた。彼女はその大きな目を煌めかせ、通りの向こうに見える大きな建造物を見据えていた。


「あれが春原学園」


 それは少女の握りしめた受験票に記された学園の名前であった。この日、春原学園では来年度の新入生を迎えるための試験が行われる。スーツの群れに紛れるように学生服に身を包んだ少年少女も多くこの通りを歩いている。それら全てというわけではないが、多くがこの学園の受験生としてこの場にいるのだろう。


 その例に漏れず少女、伊吹冬華もまた先に見える学園に通うことを夢見た受験生の一人なのである。少し小柄な少女はその細い足を、けれど、力強く踏み出していた。そこには他の受験生たちとは異なる確固たる意志が感じられる。流されるままこの場に来たのではなく、自分が選んだのだと。


「だ、大丈夫ですかね。わ、忘れ物とかしてないですかね?」


 けれど、ここに来て不安が彼女を襲う。何を思ったのか、その場にしゃがみ込み鞄の中身を確かめ始めたのである。周囲の人々が怪訝そうな瞳を少女に向ける。人の波は少女を避けるように流れ、少女はビル建設の工事現場の前でヘルメットをかぶるおじさんに苦笑いで見つめられていた。


「筆記用具よし、ハンカチよし、ティッシュよし、時計よし……」


 一つ一つ確認しながら、少女は次第にその表情を暗くしていく。鞄の中身を指さしで全て確かめるころには青ざめた表情を晒し、今にも泣きそうな程に瞳を潤ませていた。


「ない、ないです! 受験票がないですぅ!」


 そう言って頭を抱える少女。突然、大声を上げる少女に何事かと周囲の人も一瞬視線を向けるも、その関心は自分の足を止めるほどのモノではないと、人の波は流れを止めることはなかった。


「受験票がなかったら試験を受けることもできないよぉ!」


 少女が戸惑いに目を回していると何かが少女の頬を撫でる。ビクリと体を震わすと、視界の端を覆う白い紙の存在に気が付く。どうやらそれは右手に握られたものであるようだ。


「あ、あれ?」


 そうして右手を下ろしてみれば、その手に握られているものが少女がないと嘆いていた受験票であることを認識することができた。


「あ、ありました!」


 少女はその馬鹿らしさに気付く前に、安堵感と歓喜に声を上げた。そんな様子を工事のおじさんは優し気な眼差しで眺めていた。


 けれど、その眼差しは無線に飛び込んできた怒号によって一変する。


「皆さん離れてくださいっ!」


 目を見開き、慌てた様子で行き交う人々に声を荒げて言う。人々は顔を上げその視線を空に向けると、事態を理解したように悲鳴を上げながら駆け出した。


「どうしたんですか?」


 その状況を呑み込めずにいる少女。受験票を大事そうに握りしめ膝をついていた少女は空を仰ぎ見る。


 寒空に不似合いな赤い物体。空を覆う雲と鉄骨の赤がその絶望的な状況を浮き彫りにする。期待に煌めかせていた大きな瞳を、鈍い赤色が染めていく。それが少女に何を想起させたのか、強張る体はいうことを聞かず、確実に迫りくる絶命の定めに抗おうとはしなかった。


(ああ、死ぬんですね)


 そう少女が理解するには十分すぎる時間が過ぎる。そして、もう少女の瞳に空が映らなくなる頃に、少女は諦めるように瞳を閉じた。


「はぁあ!」


 その雄叫びは少女の鼓膜を激しく震わせた。かと思えば次の瞬間、少女は激しい金属音に包まれていた。コンクリートに鉄骨がぶつかる音が聞こえ、少女は恐る恐るその瞳を開ける。


「……」


 そこには制服に身を包んだ青年の背中があった。長身に、くせ毛、鋭い瞳が面倒くさそうに横目でこちらを伺っていた。


「怪我はないな」


 少女に問うわけでもなく青年はそう呟く。少女の安否を確認した青年はその手に持った剣、ロングソードと呼ばれる片手持ちの剣を腰に携えた鞘に収めた。少女は確かに自分に怪我がないことを理解すると、周りを見回した。


 そこには綺麗な切断面を見せる鉄骨の残骸の姿があった。青年と自分を避けるように転がる鉄骨。それに少女は目の前の青年に自分が助けられたのだということを理解した。


 そうして、何事もなかったかのように歩き去ろうとする青年に少女は声をかける。


「あ、あのっ!」


 背を向けた青年は少女の呼びかけに振り返らず、けれど、無視するわけでもなく立ち止まった。それを見て少女は慌てて立ち上がり、そして深く頭を下げた。


「助けてくれて、ありがとうございます!」


 少女の言葉に青年は何を言うわけでもなく歩き出した。その遠ざかる足音に少女は顔を上げる。少しして青年は再び立ち止まり振り返った。


「君、受験生だろう」


「え? あ、はい!」


「頑張れよ」


 それだけ言うと、様子を伺っていた周囲の人間たちの間を抜け青年の姿は見えなくなる。少女は青年の消えていった方を呆けた様子で見つめ続けた。そんな風に立ち尽くす少女の下に工事現場から責任者らしき大柄な男か慌てて近寄ってくる。


「お、お嬢ちゃん、大丈夫かい⁉」


 男が駆け寄ってきたにも関わらず、少女は依然として呆けた様子を見せていた。その小さな口を少し開け、ともすれば『ボー』という声が聞こえてきそうな程に少女はその意識を空の上に置いてきていた。


「ボー」


「お、お嬢ちゃん、大丈夫かい? 頭でもぶつけたかい?」


「親方、それだと致命傷ですよ」


「はっ!」


 ようやくと意識を取り戻した少女は自身の近くに立っていた大柄な男の存在に驚き悲鳴を上げるも、ようやく事態を把握すると男たちの謝罪を丁寧に断っていた。


「いや、これは警察に連絡すべきだ」


「ほ、本当に大丈夫ですから! それに私、急いでるんです!」


 そう言い放ち少女は地面に置いていた鞄を掴み、走り去る。


「あ、ちょっと!」


 親方と呼ばれた男の声を背に、少女は青年の消えた先と同じ方向に走っていく。


 少女の中にもはや不安や恐怖は消えていた。受験に対する不安も、迫る鉄骨の恐怖も、今彼女の胸中にある期待や希望に勝る感情ではなかった。


「あの人、学園の人だった」


 少女を助けた青年が身に付けていた制服は、春原学園のものであった。赤と白を基調とした制服に、腰に携えた剣。それは少女が確固たる意志で選んだ、憧れを実現させるために目指したもの。


「騎士科の人……だよね」


 少女の瞳が再び煌めきだす。高まる鼓動に吐く息は白く染まる。次第に見えてくる学園の校舎に少女は笑みを浮かべた。


「私は、立派な騎士になる」


 校門に立て掛けられた試験会場の看板に少女は立ち止まる。ようやく始まるのだ。少女の目指した憧れへの道を拓くための第一歩が、今ここから始まるのだ。


 少女は高まる鼓動に身を任せて、校内へと進んでいく。


 春原学園、騎士科。


 それは災害やテロから国民を守るために存在する騎士団を目指す若人たちの学びの場。騎士道を身に付け立派な騎士となるべく志を共にする仲間と切磋琢磨する。


 期待を胸に臨む少女の背中を、まだ見ぬ春を運ぶ風がそっと後押しするのだった。

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