「ねーねー! 今日は何時に帰ってくるの?」


 朝、登校前。学生鞄を手に玄関を出ようとする俺を引き留めるように、制服の袖口をぐいぐい引っ張りながら少女はそう問いかけた。


「あ、ごめん。今日は遅くなりそうだ」


 ぶんぶんと主張の激しい引き留めに若干うんざりしながらも俺はきちんと答える。慣れたものだ。今更気にしない。こいつの言動には会った時から振り回されっぱなしで、鍛えられているので俺の寛容さ器の広さはそれはもう広大で太平洋をも超えるのだ。



 嘘だ。大分盛った。太平洋は言い過ぎたな。正解は茶碗ほどか。



 ……などとくだらない自己回答ができるほど、今の俺は心に余裕がある。こいつの言うことやること一つ一つに今更驚いたり鬱陶しがったりしないさ。


「えーっ! なんで⁉ 今日は将棋がしたかったのに!」


 少女は口をへの字に曲げ、大きな声で不満を漏らした。漏らすというか流れるというか、こいつの口は開けっ放しの蛇口の様に自分の欲求に素直で、すぐにこうやって遠慮も我慢もなく不満を口に出すのだった。それがこいつの悪いところであり良いところでもあるのだが、やっぱりいつもこんな調子だとちょっとうざい。天真爛漫なのは構わないが少しはこっちの身にもなっておくれ。


「いやー、近藤に生徒会の雑用を頼まれちゃってさ。ほら、俺って優しいじゃん? 頼まれると断れないタイプじゃん? 自己主張少ないタイプだからさ。断れなくってね。あー悲しいなー。面倒だなー」


「棒読みだよ⁉ 全然そう思ってないよね⁉ むしろ生徒会活動楽しんでるよね⁉」


「そんなことないさ。実際俺、生徒会役員でもないのに業務に手伝わされてるんだぜ? やんなっちゃうよ。あ、そうだ。園芸部にも顔を出さないといけないから今日はマジで帰れない。一人で詰み将棋でもして時間を潰してくれ」


「高校生活エンジョイしてるぅ⁉ 私が詰み将棋できないのは君も知ってるよね⁉ 君がいてこその将棋なんだよ分かってる⁉」


「うんうんソダネー」


「とうとう返事まで雑になっちゃった!」


 わー! と顔を真っ赤にしながら少女はぽこぽこと俺の腕を叩き始めた。子供かお前は。



 ――なんて感じに俺とミコトは元気だった。



 必木先輩との決戦及びミコトとの和解から一年と少しが経った。あれから、色々なことがあった。色々なことが遭った。色々な人と会った。そんな色々を乗り越えて、俺達は、今はこうして笑っている。つまり、そういうことだった。中々悪くない一年だった。いや、良いと言い切ってもいい。そう、最高の一年だった。


 隣人の花道とは依然と同じように話ができたし、クラスメイトの近藤とも仲良くしている。それに、園芸部という部活に入ったことによって新しく仲間もできた。俺は確かに高校生活をエンジョイしている。昔からずっと勉強漬けだったから、よく分かっていないけれど、青春とはきっと、こういうことを言うのだろう。


 ミコトのことを言うと、こいつもまた明るくなった。俺がミコトと再会したあの時、あれから暫くはお互いギクシャクしてなんとも言えない雰囲気だったけれど、今はこうして冗談を言い合える仲になった(ミコトは冗談というか、元々彼女自身が天然なので基本は俺が冗談を言っているのだが)。


 だが二人とも、過去を忘れたわけではない。


 俺は今でも必木先輩のことを考えると眠れなくなる。夢に自分が現れて「あれで良かったのか」、「もっと良い解決方法があった筈だ」、「お前は誰も救えてなどいない」と言われる日々が続いている。ミコトもきっと、自分を騙した俺を許していない。そしておそらくこれからも許すつもりはない。それでもお互いがお互いを認めて今を生きている。刻まれた傷は消えない。これからも背負って生きていく。それは俺達人間だって、ミコトのような神様だって変わらない。それを認めて、それを受け入れて、それでも前を向いて歩いていくんだ。


 それが、俺達の答えだ。


「まあまあ、できるだけ早く帰るよ。だからさ、気長に待っててくれよ」


 ミコトの頭を軽く撫でながら、俺はそう言った。


「うん! 早く帰ってくるんだよ! 待ってるからね!」


 ミコトは屈託のない笑みで答える。


 まったく、そんな風に言われちゃあ、頑張らないとって思っちゃうな。


「では――行ってきます」


「行ってらっしゃい!」


 元気よく手を振るミコトをちらりと視界に入れて、俺は外に出た。扉を閉める。


「ふふっ」


 何故か息が漏れだした。そういえば、最近は家に帰るのが怖くないな、そう思った。











 通学路を改めて見回してみると、一年前からかなり復興が進んだことが分かる。荒廃した雰囲気はもうなく、駅前は予言者の一件以前のように栄えている。勿論、未だ手つかずのところはあるし、亡くなった人達も多い。それでも、世界は確実に前向きに進んでいる。


「やあ、今日も独り言は絶好調のようだね」


 背後から声をかけられた。この声は隣人の花道だ。振り向く。俺と同じ制服を着ているそいつは小洒落たオレンジ色の眼鏡のズレを中指で直しながらにやにやとこちらを見ている。


 花道良太。


 寮の隣人で、こうして通学中に話したり、校内で会えばお互いに軽口を叩いたりするほどの仲だ。事件以降に友人が亡くなったそうで、かなり落ち込んで一時期部屋から出てこなかったが、今はこうして登校している。彼曰く、最近偶然仲良くなった人に励まされて元気が出たそうだ。その人について彼はあまり語りたがらないが、その人が花道にとって大切な人であることは見て取れた。そういう人間関係ができるのは良いことだ。是非花道には元気になってもらいたい。


 ちなみに、彼はミコトのことを知らないので、俺とミコトとの掛け合いは全部俺の独り言ということになっている。独り言にしては無理のある文量だと俺自身思うのだが、花道は「お前は変わり者だからな」と一言言って納得してしまった。それはそれで悲しい。


「独り言自体は構わないが、玄関先でうるさくするなと言っただろう? 廊下に響くんだよ。お前が変人なのは今に始まったことじゃないから別にいいけれど、僕まで変に思われたらどうするんだ」


 不満を言いながらも彼の表情は相変わらずのにやけ顔で説得力はない。ただ、彼の表情はこれがデフォルトと言っても差し支えないので実際のところ、どれくらい迷惑に思っているのかは測りかねない。……いや、測るまでもなく迷惑だった。ミコトとおしゃべりはいいが程々にしないとな。


「悪いな。ついテンションが上がっちまった」


 素直に謝った。花道とは良い友好関係を築いていきたい。変に言い返す必要はないだろう。


 俺はきちんと謝れる人間なのだ。どうだ、すごいだろう。


「……僕もそれほどまで気にするタイプじゃないが、さすがに自分の妄想の中の少女と会話をするのはあまり人目につかないところでやってほしいもんだね」


「……」


 我慢だ我慢。花道とはできるだけ良い関係を築くのだ。今は甘んじて現実と妄想の区別がつかずに空想の少女と会話をしている変人という肩書を受けるのだ。


 ……最悪の肩書だな。俺が花道の立場だったら精神科に通院することを勧めるかもしれない。そう考えると花道も案外悪い奴ではないのかもしれない。俺はそう思った。


「ところでお前、最近疲れてはいないか? 僕が良い病院を教えてやろう。小松メンタルクリニックはどうだろう。駅から歩いて五分だ」


 前言撤回。どうやら今まで言われてなかったのは時間と程度の問題だったらしい。


「……遠慮しとくよ」


 苦笑い気味にそう答えた。花道との会話は煽り合いだったり貶し合いだったりおよそ有効なコミュニケーションとは言えないものが多いけれど、それでも俺は花道とこうして話す時間がけっこう好きだ。気兼ねないっていうのはいいよな、ほんと。会話の具体的な中身については触れないでおくけれど。


「なんだお前、ニヤニヤしやがって。気持ち悪いぞ」


 いや、それに関してはお前も一緒だけどな?







 学校に着いて教室に向かった。花道とは三年生になった時にクラスが別になってしまったので一旦花道とは別れた。


「よっ、おはよう」


 窓沿いの自分の席に着いたところで近藤が話しかけてきた。花道とは違ってこいつとは同じクラスになったんだよな。


「おはよう」


 軽く挨拶をする。近藤とは友人関係であると俺は思っているが、特別仲が良いわけではない。よく近藤に生徒会の雑用を頼まれたり遊びに誘われたりしている程度だ。人見知りであまり自分から絡みに行かない俺としては貴重な人間だ。気前もよく兄貴肌の彼は誰からも好かれるような稀有な奴なんだが、なんで俺と関係を持つ時間を作っているのだろう。卑屈な俺からすればもっと絡みやすくて性格の良い奴がいるだろうにと思わずにはいられない。おっといかんいかん。持ち前のネガティブ精神が発揮されてしまった。この言い分では近藤に失礼というものだ。近藤だって自分の時間を削って俺と話しているんだ。その時間をまるで無駄かのように言ってしまうのはいけない。近藤にとっても俺は友達――なのかもしれないのだから。


「まった難しい顔をするな、お前ってやつは」


「……そういう性分なんだよ。悲しいことに」


「どうせまた友達の基準点とかなんだか、考えたところで答えの出ないことを考えてたんだろ。そんなことを考えてたってろくなことにはならないぜ。友達なんてものはな、こうやって、真正面からくだらねーことを言い合える関係のことを言うんだ」


「……そうかもしれないな」


 ほんとう、こいつはどうしてこんなことを真正面から言えるのか。言われたこちらが恥ずかしくなる。邪推をした自分が――嫌になる。


「さて、では俺から友達にお願いがある」


「変な物言いだな……分かってるよ、生徒会の手伝いだろ? 昨日言ってたじゃないか。今日は何をすればいいんだ?」


「流石物分かりが良い。それでこそ俺の友達だ」


「お前は友達を便利な道具か何かと勘違いしてないか?」


「何を言う。友達はコキ使うものだろ。ちゃんと分かっているさ」


「認知のゆがみが酷い⁉」


 こいつの場合、意思があることを理解した上で人を使い倒すから、人間を道具扱いする奴より質が悪いかもしれない。


「まあ、今回は生徒会の雑用というか、ちょっと違うんだけどな。えーっと、うちのさ、後輩達がいるだろ?」


「ああ、名張さんとか上辻君とか?」


「そうそう。でさ、もう期末テスト近いじゃないか」


「……あー」


 もう大体わかった。試験関係で俺に頼むことといえば一つしかない。


「テスト対策、ね」


「そうそうそれそれ。いやー生徒会ってさ、一応面目を保つためにテストは悪い成績取れないじゃないか。でもさ、最近あいつらの調子がイマイチなんだよ」


「ふんふん。それで俺に教えてもらいたいと」


「ああ、お前も俺も推薦決まって受験対策しないだろ? だから申し訳ねえが俺と一緒に面倒みてくれないかってことだ」


「オーケーオーケー。それなら大丈夫だ」


 名張さんも上辻君も俺達の後輩だ。三年になって近藤が生徒会副会長になり、次の代でやってきた役員達だ。雑用の手伝いをしながら少しばかり話したことがある。


「テスト対策自体は別にいいんだが、ちょっとその前に園芸部によってもいいか? 御炬にも手伝えって言われちゃっててさ」


「ああ、大丈夫だ。先に始めておくから。場所は生徒会室な。頼んだぞ」


「りょーかい」


「ありがとな、じゃあ俺ちょっと行ってくる」


 答えると近藤はすぐに教室を出て行ってしまった。ホームルームまで時間があまりないが、忙しいのだろう。


「……」


 窓から外を眺める。あの一件から時が経ち、季節はもう冬になった。始まってまだ日が浅いが、それでもやっぱり少し肌寒い。外の景色はあの時と違って活発な様相が見て取れた。嬉しい反面どこか寂しい感情にもなる。俺の知っている風景が変わっていく。当たり前のことだけれど、どうしても感傷的な気分になってしまう。


「でも、それでいいんだよな」


 そう思って今は生きていこう。







 午後の授業も終わり。放課後になった。約束通り園芸部の方へ向かわないと。俺は校舎の屋上へと向かった。園芸部には部室がないが、代わりに校舎の屋上を使わせてもらっている。そこで様々な植物を育てているというわけだ。


 ちなみに、校舎の屋上には鍵が必要で、それは園芸部しか持っていない。特別感が少しだけする。


 そういえば、俺が園芸部に入部した理由だけれど、それは特別な理由があったわけではない。文芸部が廃部された後、行き場を無くした俺が御炬に誘われて入部したというだけだ。御炬、御炬みかがり明日香あすかというのは、三年になった時に偶然席が隣同士になってそこから仲良くなった友人だ。勿論俺から話しかけたわけではなく、向こうから有り難くも「隣同士だね! 宜しく!」と気さくに話しかけてくれたことがきっかけだ。俺が自分から能動的に女子に話しかけるわけがない。そんなことはできない。異性に話しかけるって、俺からすればとんでもない労力がかかるのだ。だから、御炬が俺に話しかけてきた時はかなり戸惑ったものだが、今では立派な友人関係だ――と俺は思っている。近藤と同じように俺が勝手に思い込んでいる理論だ。……俺って、めんどくさい人間だよなあほんと。なんでこんな風になってしまったのだろう。


 そう自己嫌悪に浸っていると、いつの間にか屋上への階段を登り切っていた。ドアノブを軽く捻るとドアが開く。鍵はかかっていない。御炬が先に来ているようだ。園芸部員は近藤や御炬、俺を含め五人程いるのだが、実際に活動しているのは俺と御炬だけだ。近藤は生徒会活動が忙しいから仕方ないとして残りの二人は何をしているのだろう。というか名前すら知らない。本当に幽霊みたいだ。


 ……まあ、俺もそんなに熱心に活動しているわけではないから彼らのことは強く言えないけどな。御炬に頼まれた時しか来ないし。そう考えると御炬は立派だと思う。園芸部が使えるスペースは教室二部屋分あるのだが、それを御炬一人が管理している。顧問の教師はテニス部の顧問と兼任しており、そちらに手一杯なので顧問もここには来ない。つまり実質ここは御炬専用スペースとなっている。


「よっ、来たねー」


 花壇に水を遣りながら、顔だけこちらに向けて御炬はそう言った。俺もそれに合わせて挨拶する。


「よっ、来たぜ。今日は何をすればいい? あんまり時間がないから色々できないよ」


「ええーどうして?」


「近藤に頼まれちゃってさ。後輩の勉強を手伝ってほしいんだとよ」


「後輩かぁ……。名張さん、とか?」


「そんなとこだな」


「ふーん……いいなー」


 羨ましそうに口を尖らせる御炬。そういえば御炬もあんまり勉強ができるタイプとは言えなかったな。


「御炬が良ければまた今度教えてやるよ。今回は後輩がいて構ってやれないから無理だけど」


「おっ、嬉しいねー。いやぁー、実は中間テストの成績がそんな良くなくって、期末で取り返したいなあーと思ってたんだよ」


「じゃあ明日にでも勉強会を開こうぜ。近藤と花道も呼んでさ。二人とも明日なら大丈夫だろ。金曜日だし」


「うげえ、花道も呼ぶの? 私、あいつ苦手なんだよなー」


「気持ちは分かるがそこまで言ってやるなよ……」


 俺の心までも少しばかり痛い。花道、強く生きろよ……。


「じゃあ私の家集合でいい? 時間は後でメールするね。近藤と花道にはこっちから誘っておくからー」


「おっけ、分かった」


 なんだかんだ言って頼んだ自分から近藤と花道も誘うあたり御炬も良い奴なんだよな。


「ささ、今日お手伝いいただくお仕事はこちらです」


 仰々しく掌で道を差し示す御炬。今日も茶目っ気全開だ。


「よかろう。この儂が直々に手伝ってやろうではないか」


 芝居がかった口調で俺も御炬に合わせる。


 さて、今日も一仕事やってやるかな。







「――この赤線引いたところを覚えればとりあえず歴史で八十点以下を取ることはないと思う」


 御炬と園芸部の仕事を済ませた後、俺は生徒会室に行った。先に近藤が名張さんと上辻君に数学を教えていたが、名張さんは歴史が苦手であり、近藤もまた不得手ということで、俺が歴史を教えることになった。といっても試験に出題されるであろう単語や文に赤線を引っ張っただけなんだけどな。


 ちなみに近藤は覚えるだけのような科目が苦手らしい。勉強のモチベーションが上がらないのだとか。俺からすれば数学も国語もただ覚えるだけの科目なんだけどな。このセリフを言うと近藤に「嫌味かよ」と言われそうなので口には出さないけれど。


「あ、ここのこれだけど、単語じゃなくて説明文の穴埋めを要求される可能性があるからここも覚えておいてね」


 蛍光ペンで該当箇所を塗る。赤線が単語、蛍光ペンが文章。さらに赤線で囲っているところや蛍光ペンが黄色ではなくオレンジ色のところは重要度が高い。そんな風に分けて示しておく。俺の教科書はこんなにカラフルじゃないんだけれど、他人に教える時はいつもこうしている。口で言うだけじゃ全然分からないからな。しかもこうするとウケもいいからとりあえずこんな風にやってしまう。


「こ、これを全部ですか?」


 暖色に彩られた自分の教科書を困り顔でぺらぺらと捲りながら名張さんがそう問いかけた。


「勿論これを全部覚えたら百点くらいは楽に取れるだろうけれど、人間急にそんなに覚えられないからこの赤線で囲ったところとオレンジの蛍光ペンで塗ったところを覚えればいいよ。これだけでも八十後半は取れるし、いくつか漏らしても七十代ならキープできると思う」


「う……それでもけっこうありますね」


「五十ページもあればなあ。歴史は基本的に授業を聞きながら覚えるもので、後で教科書見直すだけじゃ中々覚えられないよ。先生の話をちゃんと聞かなきゃね」


「はい……」


 教科書をまじまじと見つめながら肩を落とす名張さん。うーん、確かにこの量じゃやる気も上がらないよな。いくら日々の積み重ねが重要だといっても勉強が高校生活の全てではないし、現に生徒会で奮闘している後輩の力にはなってやりたいよなあ。


 ……仕方ない。この方法は名張さんのためにならないので使いたくはなかったけれど、ここは特別。裏技を教えてあげよう。


「名張さん、歴史の担当って堺先生だよね?」


「はい、そうですけど……」


「堺先生はね、平安時代が好きなんだよね。あと和歌とか。江戸時代から近代にかけては興味が薄いからマニアックな問題はまず出ない。誰でも知ってるレベルの問題しか出してこないからそこの箇所の勉強は捨てていこう。逆に平安時代や古今和歌集、万葉集辺りは歌がそのまま問題になるからそれを覚えないとね。で、堺先生はこの歌とこの歌が好きだからこれは問題になる。これを丸暗記するだけで十点は取れる。あとはこれとこれが――」


 教科書に丸印をつけていく。本当、これをすると中身が全然頭に入らないから試験以外には何の役に立たないんだけれど、今はそんなことを言っている場合じゃないらしい。


「――以上、この丸印をつけたところを覚えるだけで四十点は固い。これの上に江戸から近代のページを除く試験範囲の重要部分を覚えると、七十は超えると思うよ」


「こ、これだけで……」


 一気に覚える量が減ったことに驚く名張さん。五十ページある範囲が半分以下になった上に覚える箇所がかなり減ったのだから、これならまだ楽に覚えられるだろう。


「これくらいなら頑張れる?」


「は、はい!」


 嬉しそうに元気よく返事をする名張さんを見て、俺も少し嬉しくなる。俺の強みって本当、昔から積み上げてきたこれしかないからなあ。役に立てるならけっこう。今の俺はそれで十分だ。


「いいなー。近藤先輩もあんな風にやってくださいよ」


 名張さんの隣で上辻君が羨ましそうに言うが、近藤は気にしない。容赦しない。上辻君の頭を軽く叩きながら、「あれがいいなら普段から真面目に生きような?」と額に筋を浮かべた笑顔でテキストを指さしていた。近藤は大変だなあ。


「あ、ありがとうございます。生徒会だけじゃなくて、こんなことまで」


 名張さんが申し訳なさそうに頭を下げた。名張さんは人見知りの所為か口下手だが、真面目で、こうしてちゃんとお礼を言える人間だ。こういう人なら俺だって少しは協力したくなる気持ちが出てくる。やっぱりものを言うのは日頃の行いなんだよなーと思うのだった。


「……さて、お互い大体教えてもらったな? じゃあ俺はちょっと外に出るわ」


 近藤はそう言いながら立ち上がると、俺に向かってちょいちょいと手招きをしてきた。え? 俺も出るの?


「いいから来いよ」


 言われて俺も近藤と一緒に生徒会室を出る。なんだ? 俺、なんかまずったかな。


 そのまま無言で食堂前まで連れられていった。近藤は近くの自販機にお金を入れてボタンを押す。そして、出たペットボトルを俺に投げ渡した。


「今日はありがとうな、ささやかなお礼だ」


「気にしなくていいのに。まあでも、いただくよ」


 ボトルをキャッチして、キャップを捻って口に運ぶ。お茶だ。いつもお昼に飲んでいるやつだった。


 近藤は別の自販機から紙パック飲料を購入したようだった。ピンク色のパックに付属のストローを突き刺す。


「……なあ」


 近藤がいちごミルク片手に真剣な眼差しで話しかけてきた。ギャップがすごい。近藤自体ガタイも中々いいからそのギャップに拍車をかけている。


「名張のこと、どう思う?」


「名張さん?」


 なんで名張さんの話を? 一瞬そう思ったけれど、そこまでは言わなかった。ああ、なるほどね。今日の勉強会の感触か。


「素直で真面目だし、言えばちゃんと理解してくれるから自頭も良いと思うよ。少し勉強するだけで問題ないと俺は思う」


「……」


 近藤が苦虫を噛み潰したような顔をしながらこっちを睨みつける。ええ……、何故?


「いや、今のは俺の聞き方が悪かった。すまん」


 しかも何故か謝られた。なんだなんだ、なんの話だ?


「話を変えよう。お前、御炬と付き合ってるのか?」


「ぶふぉっ⁉」


 お茶を吹き出してしまった。俺が――御炬と? 恋愛関係かだって? イキナリなんてことを言うんだこいつは。


「ナイナイ。御炬とは友達――だと思ってる。向こうはどうか知らないけれど」


 ……友達だと言い切れない自分がいて少し恥ずかしい。仕方ないだろ。御炬の気持ちを俺は知らないんだから。向こうは俺のことをただの便利屋だと思っているだけかもしれないのだから。でも御炬がそんな奴じゃないことは俺も知っているわけで。疑ってしまうことは不義理なわけで。友達と言い切ってしまった方が良いのは知っているわけで。それでも言えない自分がいる。いてしまう。悲しいことに。我ながら、卑屈な性格って人生損をしているよなあと考えてしまう。


「……まあ、お前の容姿と性格からしたら無理だわな」


 おっと? 今、俺のことを全否定された気がするぞ? 気のせいかな。


「とにかく、御炬とはそんなんじゃないって。なんでそんなことを訊いて――」


 と、そこまで言ってやっと気が付く。


「え? さっきの名張さんの質問って――」


「やっと気付いたか。お前、名張のこと、どう思う?」


「いやいやどう思うって、そんな目で見たことないし……」


「でも名張はお前のこと好きだぞ」


「ぶふぉっ⁉」


 人生で十五分の間にお茶を二回噴き出す経験をお持ちだろうか? 俺はたった今経験した。


「名張さんが⁉ 俺を⁉ あり得ないって!」


「どうしてそう言い切れる」


 お前こそなんで言い切れてんだよ。


「俺だぞ? どこに好きになる要素があるって言うんだ」


「ない」


「即答かよ」


 少しはフォローしてくれ。


「お前こそ自分でそんなこと言って悲しくならないのか」


「は? 悲しいに決まってんだろ」


 今にも涙が出そうだ。どこの世界に自分を卑下して気持ちが良くなる奴がいるっていうんだ。マゾなのか? 俺だって好きで自己評価を下げているわけじゃない。


「まあ、お前は顔も良くないし、性格もネガティブ全開で気持ち悪いし、魅力なんて何処にもないんだが――」


 前置きが酷すぎる。やっぱり「近藤は俺を友達と思ってない説」は濃厚のようだ。




「――でも、それは人を好きにならない理由にはならない」




「……」


 呼吸が止まる。近藤の目は依然真剣のようだった。――え? 今までの話は冗談じゃなかったのか?


「名張はお前のことが好きだ。これは名張がお前に直接言えばいいことなんだが、お前も知っている通り名張は奥手だ。このままだと俺達が卒業するまで何も起こらない。だから名張には悪いが、俺から言わせてもらったぞ」


「……」


 言葉に詰まる。何をどう言えばいい? これはまだ冗談が続いていると信じて茶化していいものなのか? それとも――


「しょ、証拠は? 証拠はどこにある?」


 探偵に追い詰められている犯人みたいなセリフが漏れる。


「お前がそう信じるのは勝手だが、それは近藤の推測なだけで名張さんが言ったことじゃない。もし名張さんが俺のことを好きじゃなかったらお前は名張さんにとても失礼なことを――」


「いやだって本人から直接聞いたし」


「ぶふぉっ⁉」


 お茶はもう飲んでいなかったが、飲んでいなくても結果同じだった。息が勢いよく漏れる。汚い。


「あのさ、お前は知らないが、俺はけっこう名張の相談にのってやってるんだぞ? あいつ、ことあるごとにお前の好みとか日頃何してるのかとか訊いてきて、ぶっちゃけ若干うざい。でもさ、大事な後輩だし、名張は健気でいい奴だし、このまま何事もなくお別れは嫌じゃねえか。だから、名張のこと、少しはそういう目線で考えてはくれないか」


「……」


 人間、生きていれば恋くらいするだろう。当たり前だ。でもその対象が自分になるとは考えてもみなかった。


「青春だなあ」


「おい、現実逃避するな。お前のことだぞ」


「いやー、名張さんも青いね。こんな奴を好きになるのか―。将来悪い男にひっかからないといいなあ」


「おい、今まさにひっかかってる最中だろうが」


「…………ちなみに、ここまでの話、全部冗談だったりしない?」


「お前、俺がこんな冗談を言う奴だと思ってるのか……」


 思っていない。近藤はなんだかんだ言って一線は引く男だ。質の悪い冗談は言わない。だからこそ、信じられない。


「……近藤。お前、名張さんに相談された時、あいつはやめとけ的なことは言わなかったのか?」


「は? 言ったに決まってんだろ」


 正直でよろしい。俺はお前のそういうところ好きだぞ。でもあとで殴るからな?


「一応言ったは言ったんだが――あれは駄目だな。恋は盲目らしいが、初めて実感したよ。何を言っても無理だ。人間、好きになったら負けだよな。惚れた弱みには勝てないもんらしい」


「……そうなのか」


 そこまで言われて俺も初めて実感する。好意、か。悪い気はしない。むしろ心臓の鼓動が速くなって今にも叫びながら走り出してしまいそうだ。嬉しすぎる。もう名張さんの顔は直視できまい。今まで直視できたかと訊かれたらそれもまた疑問ではあるけれど。


「じゃあ、戻るか。時間も経ったし。話すこと話したし」


「待って待って! 今は無理! 絶対名張さんの顔見れない!」


「んなこと知るか。嫌なら目隠しでもしてろ」


 近藤が俺の袖を力強く掴む。やだ、強引……。待てボケてる場合じゃない。


「ほら、行くぞ」


「やーだぁーお家帰るぅー!」


 子供みたいに駄々をこねながらも引き摺られるように生徒会室に運ばれる俺。傍から見れば異様な光景であることには違いない。


「そういえば、お前。最近よく笑うようになったな」


「……そうかな」


 実感したことはないけれど、近藤がそう言うならそうなのだろう。俺も、笑えるようになったのだろう。でもさ、それはきっと俺が特別変わったんじゃなくて、傍に近藤たちがいてくれたからなんだと俺は思うぜ。恥ずかしくて口には出せないけれどな。








 それから数時間後。名張さんを直視できないもののなんとかテスト対策講義をした後のこと。


「……」


「……あの、ミコトさん」


「……なにかな」


「どうか私を中に入れてはくださいませんか」


 俺は自分の寮から閉め出されていた。


 ガンガンとドアを押しても扉が完全に開かない。あのやろう、チェーンロックをかけやがった。


 チェーンロックによって可動域を狭められた隙間から中を見ると、玄関には仁王立ちのミコトが見えた。


「何か言うことがあるんじゃないのかなあ?」


 ミコトにしては珍しい凄みだった。怒っている。完全に怒っている。疑いようがない。


「えーっと、ただいま」


「おかえり! ――じゃなくてさ! 謝ろうよ⁉ 今何時か分かってる⁉」


「まだ八時じゃん。まだまだ遊べる時間だぜ」


「遅いよ! 早く帰ってくるって言ったじゃん! ずっと待ってたんだよ⁉」


「そんなこと言ったっけな」


 とぼけてみせたが、罪悪感が半端ない。言った。確実に言った。その上でいつもより遅く帰宅した。間違いない。


「……ごめん。色々あって、その……申し訳ない」


 頭を下げる。こうやって素直に謝れるところが俺の良いところだと思う。え? 一度誤魔化そうとしてたって? そんな小さいこと気にするなよ。器が小さいぞ?


「……何時間?」


 ミコトが問う。


「へ?」


「何時間将棋に付き合ってくれる? その時間によってはこのロックを解除するのも吝かではないよ?」


「時間単位かよ」


 どれだけ俺に将棋をやらせるつもりだよ。プロにでもなるつもりか?


「えーっと……二時間?」


 バタン。扉を閉められた。


「待って! 待って⁉ 二時間でも駄目なの⁉ 十分やってない⁉ 二時間だぜ⁉ 分単位にして百二十分!」


「……さて、では私は何時間待ったでしょう?」


「うわ、こいつめんどくせえ」


 思わず不平が口から出る。でも今回は俺が完全に悪いのでもう受け入れるしかないのだ。ミコトの要望を聞き入れよう。


「……ミコトさん? 私は何時間将棋をお付き合いすればよろしいのでしょうか?」


「そうだね、ざっと十三時間かな」


「おまっ、それ学校の間も換算してるじゃねーか! ぼったくりだ! そんなにずっと将棋ができるか! 今からやっても朝になるどころか学校行けなくなっちまうだろ⁉」


「じゃあ朝までそこにいて」


「ああなんだか急に将棋がしたくなってきたなあ⁉ この昂りは十時間じゃ収まらないぜ⁉」


 こうなりゃヤケだ。十三時間将棋に付き合ってやろうじゃねえか。俺に無茶を言ったことを後悔させてやるぜ。


「よろしい。じゃあ入るといいよ」


 ロックを外してミコトは扉を開ける。どうやらひとまずそれで手打ちにしてくれるらしい。


「今日は寝かさないからね」


 ミコトが口角を上げてにやぁと笑いながら意地悪そうにそう言った。


「その言葉、丸々お前に返してやるぜ」


 対抗して俺もそう言ってみせるが、ぶっちゃけもう既に眠い。家に入ればこっちのものだから、将棋に少し付き合ってやったら寝よう。約束? 十三時間も将棋ができるか。常識的じゃない提案をしたミコトが悪いんだ。俺は悪くない。


「ふふふっ、じゃあ将棋盤を持ってくるから待ってて」


 嬉しそうに軽くスキップしながら物置へと向かうミコト。その後ろ姿を見て、少なくともミコトが寝るまでは付き合ってやるかと思わなくもないのだった。


 ……ちなみに、この後二時間も将棋をすればミコトが負け続けた癇癪を起こして将棋盤をひっくり返し、「もう将棋はいいよ! 囲碁にしよう!」と言い始めるのだが……お前、将棋がしたかったんじゃなかったのかよ。







 結局ミコトとは八時間近く将棋やら囲碁やらオセロやらトランプやら色々とやる羽目になったので、学校は休むことにした。意外とミコトが寝るまで時間があったので俺もへとへとだ。でもまあ、たまにはそういう日だってあるだろうさ。


「ふーん、それで今日は学校に来なかったんだ」


 テーブルに頬杖をつきながら御炬はそう言った。俺は今、御炬の部屋にいる。昨日約束した勉強会だ。部屋の中央のテーブルに教科書とノートを広げ合って談笑していた。まだ近藤と花道は来ていない。二人とも遅れて来るそうだ。俺達は彼らが来るまでこうやって話すことにした。


「ああ、なんか、色々と遊びたくなっちゃってな。そういう時、あるだろ?」


「いや、一人で八時間近くも夜通し遊ぶのはさすがにないかな……」


 御炬は苦笑いでそう答えた。いい加減、ミコトのことを隠しながら話をするのが面倒になってきたな。ミコトのことを伏せて話すと、必ず、俺が奇怪な行動をとる人間になってしまうのもまた困ったポイントだ。


「一人で遊ぶのはさ、なんかつまんなくない? やっぱり対戦ゲームは二人でやるもんだよ。君には無理かもしれないけれど」


 御炬がにんまりと意地悪そうに笑いながらそう言ってきた。くそう、俺だって将棋や囲碁を一人でやるのは辛いさ。ミコトがいるからできたんだ。寂しい奴を演じるのは悲しくなるよな、ホント。


「お、俺にだって将棋を一緒にやる友達くらいいるさ」


「へえ、誰? 近藤と花道以外でいるの?」


「うっ、いない……」


 しかも近藤と花道両方とも未だに将棋や囲碁等の対戦ゲームをしたことがない。つまり、実質零人だ。あれ? もしかして俺の友好関係狭すぎ……?


「近藤と花道がいれば十分いる範囲だろ? それに――御炬だって」


「おっ、私のこと数に入れてくれたね。でも残念です。私は将棋のルールを知らないので君とは将棋ができません」


「そういう問題なのか……。まあ、ルールなら教えてやれるけど」


「私そういうのめんどくさいからいいや」


「どっちみち駄目なのか……」


「まあ、気が向いたらね。でも君ってさあ、一人で八時間も時間使うなら、ちゃっちゃと彼女でも作ってその子に付き合ってもらえばいいじゃん」


「簡単に言うなよ……。そんな料理を作るみたいなノリでできるかよ」


 レシピとかあるのか? あるなら教えてくれ。今すぐ材料を買いに行く。


「へー、彼女自体は欲しいんだ」


 見透かしたように笑う御炬。こいつ、からかいやがって……。


「まあ、できるものなら欲しい……さ。相手の気持ちもあるからどうにもできないところがあるんだよ」


「ふうん、そんなことを考えているから童貞なんだよ。考えたら行動に移さないと」


「うっ……痛いところを突くな。俺だってそれができれば苦じゃないさ」


「ま、草食系という名のただの臆病には難しい話だったね」


「おお、言葉が刺さる刺さる。なんで今日はそんなに刺々しいんだ」


「いやー、確認だよ確認。ねえ、本当に彼女が欲しいの?」


「そりゃそれだけを言うなら勿論欲し――」


「私がなってあげよっか?」


「……は?」


 空気が凍る。――いや、凍ったのは俺だけだった。


「だからさ、私が、君の、彼女に――」


 御炬が言葉を繋げるもその先が俺には聞こえない。聞こえている筈なのに、何故か、御炬が何の話をしているのか分からなかった。


「待て待て待て。待って。急になんだ? どした? 熱でもあるのか?」


 慌てて言葉を遮ってしまう。……こういうところが駄目なんだよ俺は。でも、こんなの、俺じゃなくても慌てるって。


「熱なら、あるよ?」


 御炬の顔を見る。真っ赤だ。人ってこんなに顔が赤くなるものなのか。これじゃまるで、本気で言っているかのような――


「本気だよ」


 真っ直ぐ見つめられながらそう言われると、本当に心を見透かされているような、心の中身が全部出てしまっているかのような錯覚に囚われる。まさか、そんなわけはないのに。


「み、御炬……?」


「あのさ、君って、極度の奥手というかビビりというか、人の心の中に中々踏み込んでこないじゃん。だから、このままだと一生独りきりだと思うんだよね。彼女を作れるチャンス、ないんだと思うんだよね。だからさ。私で妥協しときなよ」


「妥協って……そんな言い方はあんまりだと思う」


 御炬は贔屓目で見なくとも美人と言える女性だ。そんな奴が、そこまで自分を卑下していいものか。俺が人生百回やり直しても付き合えるとは思えない程、御炬には魅力があると思う。


「私も君で妥協するからさ、それならお互いとんとんで、うぃんうぃんで、はっぴーじゃん」


「……そんな、こんなところで妥協しなくても御炬ならもっと、」


 自分で言いながら、少し落ち込む。でも、本当、御炬なら、俺なんかよりも、


「言い方が、悪かったかな? ちゃんと言うから、ちゃんと言うから。君も、ちゃんと考えてほしい。私は――



 君のことが好きです。



 付き合ってください。



 私を、彼女にしてください」


「~~っ‼」


 ぼん、と顔から火が噴き出たような気がした。体中が熱くて溶けそうだ。自分がどんな顔をしているのかもわからない。⁉ ⁉ ⁉ 俺の体に一体何が起こったんだ⁉


「あ、あっ……」


「あはは、思ったより恥ずかしいね、これ」


 頬を軽く掻きながら御炬が笑う。いやいやいや俺もかなり恥ずかしいぞ⁉ 今にも燃え尽きそうだ!


「み、御炬……?」


「返事は、また今度でもいいよ。でも、そんなに待たせないでね。まったく、君というやつは。女性に恥をかかせるもんじゃないよ」


 顔がまだ赤いものの以前の調子を取り戻しつつある御炬。待って待って。俺はまだ元に戻れそうにない。


「あはは~、顔真っ赤~」


 俺の顔を指さして御炬は笑い始めた。誰の所為だと思っているんだ。


「……敵わないな」


 溜息を吐く。きっと、この御炬の行動は俺にはできなかっただろう。俺の方が御炬のことが好きだったとしても、俺は何も言えなかっただろう。ほんとすごいよ。


「たまに思い切りが良い御炬を見て、胸がすっとする時がある。本当、お前のそういうところ好きだよ」


「おっ、それは返事と受け取っても……?」


「待って、これはそういうのじゃないから。返事は――またするよ。今すぐはごめん無理。でも、月曜日には返事するから。月曜日には、こっちから言うから」


「……じゃあ、待ってる」


「ああ、待ってて」


 今はまだ気持ちの整理もついてないし、勇気もない。だからすぐには答えられないけれど、精一杯誠心誠意真面目に返事を言うつもりだ。


「……」


「……」


 沈黙が流れ始める。気まずくなってきた。恥ずかしい空気に耐えられない。もう帰りたい。


「そ、そういえばさ。近藤も花道も遅いなあ。何してんだろ」


 御炬の告白の最中に来てしまったら大惨事だ。誰一人茶化すことができずに気まずくなるに違いない。


「二人は来ないよ」


 あっけらかんと御炬は言う。


「え?」


「だってそもそも呼んでないし」


「ええ? 呼ぶって言ったじゃ――もしかして」


「うん、最初からそのつもりだった」


 あははと照れ隠し気味に微笑みながら御炬はそう言った。なんだこいつ、可愛いぞ。こいつにこんなスキルがあったとは知らなかった。


「じゃあお前、最初っから勉強するつもりなかったんだな?」


「当たり前じゃん。めんどくさいし。要は卒業さえできればいいの」


「……呆れた奴だ」


 でも、悪い気はしない。


「じゃあ、帰るよ。今日は、ちょっと、なんというか、正直恥ずかしくてこれ以上いられない」


「ヘタレだね」


「悪かったな」


 女子に告白される経験なんて今まで一度もない。勿論告白したことだって――いや、一度はあったのか。一度だけ。でも、あれを数に入れてしまうのはなんか違う気がする。


「……じゃあ、また」


「じゃあね」


 軽く挨拶をして御炬の家を出た。扉を閉めた後、急に体の底から喜びの感情が湧いてくる。


「っしゃあ!」


 ……ガッツポーズまでしてしまった。仕方ない。誰だって好意を示されたら嬉しい筈だ。少なくとも俺は超嬉しかった。


「男女交際、か。考えたこともなかったな。縁がないと思っていたし」


 帰路の最中、一人ぶつぶつと呟きながら歩く。案外ミコトがいなくても俺の独り言は多いのかもしれない。


「ああ~、こんな時どうすればいいんだ? 素直に受け取るものなのか? それとも自分からこんな奴はやめとけって言うのか? でもそれは御炬の好意にきちんと答えていると言えるのか?」


 あーだこーだ言いながら頭を抱える。うら若き男女は皆こんなことを経験してるっていうのか? まじかよ。尊敬するぜ。俺なんてもう処理落ちしそうだ。


「……はっ、名張さんの件はどうすればいいんだ? いや、あれは近藤の作り話という可能性が……でも近藤があんな嘘を吐くとは――ああ、滅茶苦茶だ!」


 うがーと頭を掻きむしって喚く。傍から見れば間違いなく不審者を通り越して危険人物にしか見えないだろう。


「――でも、やばい。にやけが止まらん」


 悩んでも、もがいても、結局。


 嬉しいことには変わりないのだ。


 ……そうか。人に好かれるっていうのは、こんなに嬉しいものなのか。

 こんなにも、暖かいものなのか。


「……」


 空を見上げる。夕日が沈みかけ、濃紺の空が見え始めていた。冬が始まりそろそろ暖房を点けようか考える頃。俺は一人、風に吹かれながら空を見上げていた。




「誰かと思えば、英雄君ではないか。空はそんなに綺麗かね?」




 振り返る。振り返った先には黒のコートを羽織った大柄の男がいた。


 ところでいきなりだが、俺から人生の教訓を一つだけ教えてあげよう。


 人生山あり谷あり、喜怒哀楽入り混じるものだ。つまり、以前も同じようなことを言ったが人生幸せなことだけではない。そう――




 男は言う。




「こんな処で会うとは、偶然だな」




 ――不幸にもこの時、俺は幸せの終わりを告げるラッパ吹きに、出遭ったのだった。



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