甘き毒
柏凪
いつもの様に、風が冷たい。いつもの様に、車のエンジン音が聞こえる。いつもの様に、顔も名前も知らない誰かの声が聞こえる。ただ一つ、いつもと違う。今、私がいる場所。
──あぁ、こんなにも景色が美しい。きっと、これが私にとっての最後の光景になる。一歩、また一歩と、ビルの屋上の縁へ。ゆっくりと、確実に、現代の三途の川を歩いていく。
ふと、風が吹いた。それも私の背中を押すように。
十数年も生きていた間に身についたであろう本能的な反射で、私は後ろに一歩、足を引いた。引いてしまった。
──なんて、情けないんだ。私は顔を覆った。
また、つまらなく苦しい日常が始まる。いつもの様に学校に行き、いつもの様に授業を受ける。いつもの様に。いつもの様に。いつもの様に。いつもの様に。いつもの様に。いつもの様に。いつもの様に。いつもの様に。
そして、授業という名の静かな喧騒の中、こんな言葉がすぅっと聞こえて来た。
「百合には毒があるんですよ」
──そうだ、帰りに花を買っていこう。
「ありがとうございました」
花屋の店員さんがにこやかな笑顔で百合の花を買った私を送り出してくれる。
どこに飾ろう。窓際、玄関、キッチン。ああ、考えるだけで楽しみだ。きっと、ほんの少し、この子が私の生活に色を与えてくれるのだから。ああ、楽しみだ。
ふと、誰かの叫び声が聞こえた。声がした方を見てみるとシルバーのワゴン車がこちらに向かっている。運転手はと言うと、ハンドルに項垂れており、とても正常な状態とは思えない。
そんな中、小学生くらいの子が私の側を通りかかった。
もう、考えている時間はない。
────────。
『本日午後4時ごろ、東京都武蔵野市の東急百貨店吉祥寺店前の都道で、「車が突っ込んだ」と110番通報があった。警視庁によると、通行中の歩行者らが乗用車にはねられるなどして、17歳女性を含む8人が死亡、12人が負傷したとのことです』
事故現場には、百合の花が一輪落ちていた。その事故の犠牲者には、数多の百合の花が供えられた。
甘き毒 柏凪 @kashinagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます