水底の望郷
猿烏帽子
第1話
「ここが俺の……」
噎せ返るような暑さの中、
「やっぱり、というかとんでもない暑さだな……」
周囲を山々に囲まれたこの盆地は夏になると40度を軽く超す気温になる。帆足は事前に岩手出身の捜査一課の同僚から「覚悟しておけよ」と忠告をされていたのだが、ほとんど生返事で返すのみだった。
青々とした山野の遠く、陽炎に揺らめく水面は陽を照り返しながら輝いている。彼の傍らを流れる川はあそこへ向かって伸びている。見た目はキレイでも実際は結構汚れていたりするものだが、ここに流れているのは山からの湧き水のため、都会の喧騒の中に流れるモノよりは幾分もマシだろう。
いつまでも見つめていたいような風景だと思いもしたが、額からの汗がその思いと一緒に流れ落ちていった。
「さっさと要件済ませて帰るか」
茹だる暑さに溜息を漏らしつつ、彼はダムに背を向け、川上の方へと伸びる坂道を登っていく。
帆足はこの地で起きたある事件を調査するためにここまで飛ばされてきた。
事件が起きたのは去年8月のこと。この川に沿うように点在する集落の住人が次々と倒れるという事件が起きた。
当初、県警は熱中症による死亡事故として取り扱っていた。現に、その集落に住んでいるのは何れもが高齢者であり、一番若くても還暦を過ぎているというのだからその見解は見当外れではないだろう。
最初の二人まではただの事故、生命力の弱った老人が熱で死に追いやられただけと思われていたが、次の三人目の死亡者で自体は急転した。
「喉が乾いたっていうから、台所までお茶を取りに行ったんです。そしたら急に部屋の方から叫び声が聞こえてきたんです」
帆足の向かいに座っている女性は
座卓の上にはよく冷えた麦茶が注がれたグラスが置いてあり、その表面に流れる水滴を扇風機の生ぬるい風が揺らしていた。
水村はその風に肩ほどに長い髪をたなびかせながら事件当時の話を続けた。
「何事かと思って急いで部屋の方に戻ったんです。そしたら白石さんが何かに怯えているような風に手を宙に突き出していて……」
「怯えていた?」
「はい。私が話しかけてもまったく反応しなくて。まるで目の前に何かがいるみたいにしていて。それから『ごめんなさい、ごめんなさいっ』と叫び始めたんです」
水村はそこまで話すと、事件当時のことを思い出したのか、細い右腕を左手で抑え、俯いてしまった。当人からすれば思い出したくはない記憶だろう。だがそれでも聞くべきことは聞かなければ。
帆足は手元の資料を捲りながら彼女に質問をぶつけてみた。
「亡くなった白石さんは認知症ではないんですよね?」
「はい。そういった病気は何も。足が悪いのを除いてはとても健康な方でした。事件当日はお散歩に行きたいと仰っていたのですが、あまりにも暑かったので流石に私が止めたんです。それで日中は家で過ごしていらっしゃったんですが……」
「唐突に何かに怯え始め、絶叫しながら息絶えたと……」
「はい……」
向かいに座っている水村から目を離し、手元の資料に視線を落とす。
白石和子の死因は心臓発作。その場に居合わせた水村が救命措置行うも、息を吹き返すことなく、この世を去った。
水村が今目の前でこうして歯噛みしているのは自分が側に居合わせながらも助けられなかったという悔恨からのものだろう。
彼女の様子を目の端に留めながら、帆足は続けて質問をした。
「重ね重ね申し訳ありません。白石さんは他に何か仰っていませんでしたか?」
「他に……ですか?」
そういうと彼女は深く俯き、考え込んでしまった。彼女の左手の指がしなやかに波打つ。先程から何かを考える時、彼女はそうしていた。おそらくは無意識的な癖なのだろう。
程なくして、彼女は何かを思い出したようで俯いていた顔を上げてぽつりと呟いた。
「そういえば……、興奮していらしたのであまりハッキリとは聞き取れなかったのですが、『クシ』と、『カエス』という単語を言っていたような気がします」
「クシと、カエス……?」
「えぇ。すいません、曖昧で……」
「いえ、大丈夫ですよ。こちらこそ、さぞお辛いでしょうに思い出させてしまって申し訳ありませんでした。本日はここいらで御暇させて頂きます。ご協力、ありがとうございました」
「すいません、ろくに何もお出しできずに。何かお役に立てれば幸いです……」
「いえいえ、麦茶とても美味しかったです。本当にありがとうございました。それでは……」
水村宅から道路に出た帆足は、そのまま川上にある集落の方へ向かった。
以前として包み込むような熱気が帆足の足を鈍らせたが、何とか目的地である白石和子の邸宅にまで辿り着いた。
事前に許可を得て、貰った小さな鍵をスーツの上着ポケットから取り出す。腕時計の針は午後15時を指していた。
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