第10話:xxxと名前
名前を呼ぶということ。外ならばその行為はなんてことはないものだ。
だがここ、庭園寄宿舎では意味合いが違ってくる。
名前を呼ぶということ。それは、心を許した者にだけ許されたこと。
ただの知り合い程度であるならば、決して聞くことはない。それが名前。寄宿舎にとって、名前は禁忌にも等しい。
「リドリー、僕の罪を教えてあげるよ。とても簡単で陥りやすい罪だ」
リドリーは答えない。アリステアがそれをいうのを待っている。
「名前を呼んだから」
「……え?」
「知ってた? この寄宿舎では、名前を呼ぶことは罪なんだ。
秘密の関係を持ったものでも、心を許したものでも等しく、誰かの名前を呼んだら罪になるんだ」
「な、」
「僕はそれを知らなかった。だから供物にされた。それだけ」
アリステアの口調は穏やかだった。
名前を呼ぶという習慣が寄宿舎にないことくらいは、リドリーも理解していた。物心ついた時から寄宿舎にいたから、それを疑問に思うことも無かった。苗字を呼び合えば生活に不便はなかったし、当たり前のように感じていた。
名前を呼ぶという行為は、リドリーにとっては呼ぶほどのものではない、という認識でしかなかった。
だがその真相は、もっと深く暗かった。
名前を呼んだら、もう罪だなんて。
知らなかった。アリステアに言われるまで。なんてことだ。リドリーは震える声を押さえきれない。
「なんで、名前、いや、名前を呼んで、どうして、おまえが、」
「誰かに聞かれちゃってたんだろうね。その時僕は、誰もいないはずの場所にいたんだけど、盗み聞きされてたのかもしれない。本当のことはわかんない」
「お前、頻繁に名前を呼ぶことはあったのか?」
「ないよ。1回だけ」
にこにこ、とアリステアがいつものように微笑んでいる。その微笑みを見つめていると、リドリーの胸が締め付けられた。
実はね、とアリステアが続ける。
「その時僕は図書館にいた。僕には、うん、とっても好きな人がいてね。その人の傍にいるのが何よりの楽しみだった。心が落ち着いて、この人の隣でならしんでもいいって思えるくらいには。
でもその人との関係は秘密だったから、放課後の図書館の、ずっと奥深くでこっそり逢っていたんだ。短い時間の間、誰かに見つかるかわからない怖さを味わいながらだったけど、その人との時間は僕にとってかけがえのないものだった。
そのときね、僕が零してしまったんだ。僕の名前を」
アリステアはリドリーから離れない。リドリーの背中に回した手が、きゅっと握りしめられる。
「xxx、と。名前を言葉にしてしまったんだ。あの人はその重大さを知っていたんだろうね。とっても顔が真っ青だったよ。何も知らなかった僕は、やがて供物に決められた」
「……そんなことで」
「リドリーもそう思ってくれるの? やさしいね。でもね、この寄宿舎ではそうなんだよ。
僕がおかしいのかな? 寄宿舎がおかしいのかな? 名前を呼ぶだけで人生が変わるなんて、思いもしなかった。僕は罪をかぶって、1か月……もないのか、あと少しで天に捧げられるんだ」
「……アリス、」
リドリーの両手が、宙を彷徨う。アリステアを胸にもっと抱き寄せようと、ずっと泳いでいる。
「その人はいなくなってしまった。家の事情で帰ることになったって聞いたけど……本当は、供物になった僕との関係がバレて、寄宿舎から追われたんじゃないかなって」
「まさか、」
「そう、賢いねリドリー。
僕が逢っていたひとは、君のルームメイトだったひとだよ」
「……うそだ」
「本当だよ。僕嘘つけないもん。ごめんね。君のルームメイトを奪ってしまって。君からいろんなものを奪っていく。
僕は本当に罪の子なんだろうね。供物になってもしかたがない……いーや、なって当然なんだ。僕は」
する、とアリステアがリドリーから離れた。
つとめて笑顔を保つアリステアを、リドリーは平気で見ていられない。
アリステアは閉じた世界でもさらに深くに閉じ込められていた。
人とのかかわりもほとんど断たれ、かりそめの外を歩く自由すら与えられることがなかった。ただ、出生に罪があるというだけで。
そんなアリステアにとって、図書館での逢瀬はどれほど救いになったんだろう。リドリーはそんな現場を見たことはないが、きっとアリステアの穏やかな安らぎになったに違いない。
はにかみながら笑って、なんてことはない会話に花を咲かせて、次の逢瀬を心待ちにしていたんだろう。
そんなささやかな自由さえ、アリステアにはもうない。
――名前を呼んだという、ただそれだけのことで。
(あいつが泣いてたのは、そういうことだったのか)
ルームメイトはアリステアとの関係を知られてしまった。それ故に寄宿舎を離れるしかなかった。寄宿舎に残っても、関係が発覚した以上、平穏な日常などない。罪を犯した者と通じた不届きものとして、憐みの目で見られるか迫害されるか。
だけれど、実家に戻って永遠にアリステアと会えなくなるのとどちらがつらかっただろう。どちらに転んでも、ルームメイトにとっては苦しい選択だったんだ。
(何もしらなかった。何も、聞いてやれなかった)
リドリーは右手で顔を覆う。喉から張り裂けそうな叫びがこみ上げてくる。飲み込むとしょっぱい味が喉に戻ってきた。
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