第2話 アリステアとリドリー
庭園寄宿舎。街ひとつほどの規模を持った、少年たちの花園である。
ここは6歳から18歳までの男子が立ち入る秘匿の庭園とも言われる。生徒たちを導く教師や寮父、医師に庭師、その他の職人も全て男性。女性という存在はあるとするなら、それは天におわします、と教えられる。
ここにいる生徒たちの身分や家庭の事情は様々ある。口減らしに放り込まれた孤児、どこかの貴族の令息、寄宿舎に見出されて連れて来られたもの、寄宿舎に働くおとなたちの親類。
リドリーはそこそこ良い家の坊ちゃんだったが、諸事情あって逃げるようにこの寄宿舎へ転がり込んだ。だから家族というものをよく知らない。
転がり込んだのは6歳の頃。18歳になった今でも、ずっとこの寄宿舎から出たことはない。出る必要がないのだ。ここはあまりに満ち足りているから。
パンにスープに野菜と肉。いくつかのジュースに多彩な紅茶の数々。
巨大な図書館には膨大な資料が保存され、勉強や研究の為の資料から娯楽の為の書籍や雑誌、オーディオも揃う。
体を動かすに足る競技場や球技の設備も整っている。リドリーはもっぱら弓道場で弓を弾いたり和室で舞踊に明け暮れていた。
隠れ家といわれる其処に柵や鍵はなく。むしろ開放的ですらある。
だがアリステアは逃げるつもりは毛頭ないらしく。隠れ家のベンチに腰をかけてぶらぶらと足を揺らしていた。
秋の涼しい風が通り抜けた。アリステアの前髪が揺れる。心地よさそうにアリステアが微笑んだ。
(なんだこいつ)
リドリーは赤らむ顔を風で冷やしながら、目の前の供物に怪訝な眼差しを向けていた。
わずかに上がった口端、あどけない指先、子供のような仕草。外の世界を何も知らない無垢な子供。
供物は天に背いた者から選定されるとは聞いていたが、この子供がそんな背信行為を働いたとは、リドリーの黄金の目には映らなかった。
「あの」
「ん?」
たまらず、リドリーは話しかける。アリステアは緑眼を煌かせて三途を見上げていた。
「そ、その」
「うん」
「おまえ、供物……なんだよな」
ぱちくり、とアリステアの目がしばたく。ふっと噴き出して、ころころ笑う。
「あっは、そうだよ。当たりまえのことだ。ここに来れるのは供物と番人だけだからね」
「そうだな……。ごめん、変なこと聞いた」
「ううん、別に良いよ。きみがぼくの番人なんだよね? だったらこれから1か月、僕と一緒に過ごすわけだ」
「そうなる、な」
「ではさっそく! 一緒に庭園を散歩しよう」
「……わかった」
「ん? 素直だね? いいことだ」
「番人の役目を果たすだけだ」
「それでも嬉しいよ、いこうリドリー」
勢いよくベンチから立ち上がったアリステアは、自然な流れでリドリーに手を差し伸べる。リドリーはこれも役目、と黙って手を取る。
うん! とアリステアは元気よくうなずいて、リドリーを引っぱって行く。
*
庭園寄宿舎の名物其の一。
水上庭園である。
水上、というより、浅く広い池に磨かれた石を足場にし、清らな水流れる中で花たちが彩るという、職人の技がこれでもかと凝られた逸品である。
この日は秋晴れだった。涼やかな風が心地よく、時々リドリーの赤毛にいたずらしていく。
「わあ」
アリステアは庭園の真っ白いアーチをくぐると、感嘆の声を漏らした。両手を広げて深呼吸ひとつ。
「噂通りの美しさ、だ」
「見たことなかったのか? 寄宿舎に来た生徒は、誰もが一度は来るんだけど」
「うん、まあね。今回がその一度目だね、僕」
「そうか」
「それにしてもいいところだね、ここは。お弁当広げたくなる」
「ここは飲食禁止なんだ」
「なーんだ、ちょっと残念。でもわかる気がする。これだけ綺麗だとね、食べもので汚すのはいけない」
「素直で何よりだ」
アリステアは石弾をとんとん、と踊るように渡っていく。水場はさほど深くない。せいぜいリドリーの膝くらいだろう。
紅葉しかけた葉の2枚3枚が、水に流れて来る。太陽の光を反射して煌めく水面に、鮮やかな朱色や黄色、オレンジ色が華を添える。
アリステアはしゃがんで、水面に手をつける。1枚、オレンジ色の葉を拾った。それを太陽に翳して、眩しそうに見上げている。
リドリーはじっ、と、アリステアの動向を見守っていた。
「んー、これはいいね」
アリステアは袖で葉をぬぐい、ポケットにしまった。
「おい……」
「ん? 何か変だった?」
「袖で拭くなよ、ハンカチ持ってないのか」
「ない」
「即答どうも……。俺のを使え」
リドリーはポケットから青色のハンカチをアリステアに押し付けた。ハンカチ程度、いくらでも替えがある。これもその1枚に過ぎない。1か月後には天に捧げられる供物に差し出したところで痛手はない。
アリステアはおずおずと、リドリーからハンカチを受け取る。両手で大切そうに握り締め、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう、リドリー。大切にする」
「せめて使ってくれ」
「うん、大切に使うね!」
えへへ、とアリステアがはにかむ。そのハンカチで葉を丁寧に包み、ポケットにそっと仕舞い込んだ。使え、というのはそう言う意味じゃない、と言いたい気持ちもリドリーから霧散した。
アリステアはしばらくの間、庭園内を飽きもせず散策していた。アリステアにとって、この庭園は相当興味深いものだったらしく。何かひとつ見つけると緑眼を輝かせ、恐れも無く近づいて触れようとするのである。――さすがに毛虫に触ろうとした時はリドリーも必死の形相で止めた。
「ここって水がきれいだよね。濁ったりしないのかな」
一通り散策して休憩、ということで。アリステアは庭園内のベンチに腰をかける。リドリーがワゴンの購買で買ってきた水を、ぐいぐい飲みほしていた。
「ああ、濁らないよう浄水設備が行き届いてるんだと」
「そうなんだ。冬は凍らないの?」
「凍らない。庭園の水は、ずっと流れ続けてる。この仕組みは俺も知らないけど」
「リドリー、でも、知らないことはあるんだね」
「俺は物知りじゃない。知らないことだらけだ」
「えっへ、じゃあ、お揃いだね。僕も何も知らないことばっかり」
「……まあ、な」
満足したのか、アリステアはもう一度庭園をぐるっと回って出ることになった。
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