欲が為に、意味を持つ―2―
〜ある日の富田家 Chapter1〜
「たっだいまぁ〜〜〜!」
夕方六時を回った辺り。これは何を指すのか?答えは、富田家一の育ち盛りがお腹をぺこぺこに空かせて帰ってくる時間である。運動部故にジャージ姿で帰宅した遥は、お腹をぐるぐる鳴かせながら早速夕飯をねだった。
「あーお腹空いたぁ!ねぇママ、今日のご飯なぁに?」
「チンジャオロースよ」
「えー!?」
「何よえーって!」
「だぁってー!あたし、ピーマン苦手なのに〜〜」
「んもん、ワガママ言わないの!」
割と本気めにぷんぷん頬を膨らませるのは、小麦肌の三白眼、ママofママ•玲二。みんな大好きレイママだ。娘を軽くあしらいつつ、エプロン姿でせかせかと食卓の準備を進めている。
「どうしても食べられない訳じゃないでしょ?」
「そうだけどっ、今はがっつりお腹いっぱい食べたい気分なの!」
「食べればいいじゃないの!全く、ピーマンは身体にとっても良いんだから我慢なさい?ほら、ちっとも苦くないから。美味しいわよ、チンジャオロース」
「むぅ……ママのケチ!」
「こらっ、ハルちゃん!」
子供っぽい親子喧嘩一歩手前の空気が漂うキッチンに、その時、鶴の一声とも呼ぶべき二文字が舞った。
「ハル」
咲夜だ。
グレーのパーカーとネイビーのスウェットパンツ、両手足共に裾を捲っているところから見て、どうやらお風呂掃除を済ませてきたらしい。
「あ……た、ただいま、サクちゃん……」
「おかえり」
遥は焦った。咲夜のその穏やかな声質ながら、さして笑っていない目に。きっと今の会話を聞かれていたのだろう……横にいる玲二も「あ〜あ」みたいな顔で行く末を見守っている。
「あのさ、ハル」
遥は焦った。自分でも駄々をこねている自覚があったからだ。たかがピーマン如きにやいのやいの言うんじゃなかった、なんて後悔してももう遅い。今にも大好きな姉貴分に叱られるのを予測して、びくびくと縮こまる。
「今日……久しぶりに、一緒に寝る?」
「…………ぴゃ!?」
甲高い絶叫がワンルームに木霊した。当然遥だけではない。まさかの発言に玲二も一緒になって仰天している。
「エッ!……え!何で?」
「……別にいいならいいんだけど」
「あ、ううん!やだ寝たい!絶対寝るっ!サクちゃんと一緒に!!」
「……じゃあ、」
幻の尻尾をプロペラの如くビュンビュン振って飛び付いてきた妹分を、ぽんと優しく撫でながら、咲夜。
「ちゃっちゃとご飯食べよう?モタモタしてると先お風呂入って寝ちゃうからね」
「わ、わかった!手ぇ洗ってくる!」
「うがいもなー」
「うーん!」
ダッシュで去りゆくちょろい娘に、玲二は呆れを。そして、飴と鞭を上手に使い分ける咲夜に舌を巻いてしまった。傍目には甘い対応かもしれないが、遥のワガママは今に始まった事じゃないので──それはそれでアレだが──こうしてサクッと対処できるのは親として素直に助かる。
が、結果的に美味しい美味しいとチンジャオロースを平らげたのには、呆れ全開で「全くこの子は」と小突いておかずにはいられなかった。
──ハルちゃんのサクコンには困ったものねぇ……
食後、ふと物思いに耽る玲二。食器洗い機に軽く濯いだお皿を並べながら考える。
(それにしても一緒に寝るって……我が娘ながら、相手にされてなさすぎて泣けてくるわ)
相手というのは、人生の伴侶的な意味で、だ。側から見ていても咲夜はあの娘を手の掛かる妹くらいにしか思っていないのが丸わかりで、遥も遥でそれを理解していながらあのようにベタベタとくっつきまくっているのだからもう何だか可笑しいやら切ないやら。
と、交代でお風呂に行った遥を見送り、タオルを頭に乗せたパジャマ姿の咲夜へ。
「さっきはありがとね、サクちゃん。ほんともうハルちゃんったら、お腹空いてるとすーぐいじけるんだから……」
「うん、大丈夫」
「こうなったら、一度サクちゃんからビシッと言ってもらおうかしらね!ママが言うよりずっと効果ありそうだもの。いーい?」
「わかった。あとで言っとくね」
「……」
「何?」
「……サクちゃん、どうかした?」
「え?何も?」
「そう?」
(一瞬、思い詰めたような顔してると思ったんだけど……)
遥が人一倍ワガママっ子なら、咲夜は人一倍の“良い子”だ。皆に尽くそうという気持ちが前に出すぎて、自分の欲求を後回しにするきらいがある。不満を訴えるどころか、好きな料理のリクエストすら遠慮してくるのが通常運転。一応の理由は「レイママのご飯は全部美味しいから」との事だが……それはそれで嬉しいやら寂しいやら。
「貴女達は、足して二で割るくらいがちょうどいいのにねぇ」
「?」
*
とある休日の昼下がり。天気は雨。そのせいでいつもより人口密度は低いのに、それぞれ傘を差している為に結果的に大して変わらない広さの大通りを、白いワンピースを着た一人の女性が悠々と歩いている。
彼女は、トレードマーク"M"と大きく掲げられた洋菓子店でその足を止めた。しなやかな手つきで閉じた傘を傘立てに置くと、ふと店の窓ガラスに私服姿の自分が映り込んだのに気付く。いつの間にか侵入していたらしい雨粒が、彼女の麗らかな黒髪を滑り、音もなく大地へ吸い込まれてゆく──……のを店内から偶然目撃していた一般客は、ハッと息を飲み、そして紅潮した。読んで字の如く、水も滴るいい女に出逢えた奇跡に感謝して。
だがしかし、仮にそれを当人に伝えたとしても、彼女の心の水面は少しも揺るぎはしないだろう。何故ならその女性──竜峰天華にとって、誰とも知らぬ者から賛辞を受けたところで何にも嬉しくないからだ。少々言葉を厳しくするならば……全く意味がない、とも言えよう。
そう。例え、何十何百何千から好かれようと。
たった一人──七十五億分の一の。
あの娘と、結ばれなければ、意味がない───。
「いらっしゃ──あっ、スミマセン!今日は咲夜さん来る予定ないんですよ……!」
……男性店員からの、申し訳なさげな、初手、謝罪。
カッコいい感じのモノローグで入店した少女は、文字通り固まった。
…………いや、待ってほしい、違う違う。ここは笑うとこでも、哀れむところでもない。繰り返す。各位、お願いだからその気まずい顔をやめてほしい。
ああいや確かに、まさか入店一歩目でそんな事を謝られるとは予想もしていなかったから、がっつりと面喰らってしまったけれども───
「…………大丈夫です。知ってましたから」
咲夜が今日、
だからこそ。天華は今日を選んだのだ。
──
─────
「その人が好きだから、すべてを知ろうとする。その人が好きだから、あえて少し距離を取る。天華は、前者のタイプなんですね」
と、学習机に向かいながら、來夢は言った。
二人部屋の学生寮。壁と壁で背中合わせになるような家具の配置なので、その声は必然的に背後から聞こえる形となる。
天華ら完全下校時間後の寮生達は、夜の食事を挟む時間帯は自習扱いだ。基本的に何をしていても良いが、勤勉的な二人は毎日真面目に、たまに軽い雑談を交えながら、きちんと宿題や予習復習に手を付けている。天華が來夢に相談を持ちかけたのも、このタイミングであった。
「來夢は違うの?」
天華が質問を返したその時、カララと椅子の滑車音が聞こえたので、一旦シャープペンを走らせるのを止めた。顔を上げて振り向くと、案の定、來夢も半身を捻るようにしてこちらを向いている。
「どちらかと言えば、後者だと思います」
「好きだからこそ、距離を……?」
理解出来ない、といった感情が瞳に色濃く表れていたのだろう。困ったように小さく笑んで、來夢はこう続けた。
「例えば、恋人。夫婦。兄弟、姉妹、親……どんなに近しい人間でも、言ってしまえば赤の他人です。中には、いくら好きとは言っても、近すぎると苦しく感じる人もいると思います。だからお互いに気持ちのいい、程良い距離間を保つのも大切ですよ、という考え方ですね」
「そういう事ならわかるけど……あの娘と少しでも離れて過ごすなんて未来、私、全然イメージ出来ないわ」
「ふっふふ。だから、貴女は前者なのですね、と言ったんです。それに、どちらが正しいという話でもないですよ。それこそ、人の数だけ答えがあるんじゃないですかね……」
「來夢は平気なの?」
「ミヤさんとですか?まあ実際に離れ離れな訳ではありませんし……それに、私はミヤさんに隠し事をしているのに、ミヤさんの事は全部教えてほしいというのは虫が良すぎるでしょう?」
「……ふむ」
まるで崇拝する神に畏れを抱いているかのような慎ましさを見せる來夢に、天華は納得しきれないながらもひとまず相槌を打った。
彼女達を良く知る自分からすれば、來夢は少し“ミヤさん”──都に対して臆病すぎではないかと思う時もあるし、彼女の言う隠し事が全く気にならないと言ったら嘘になるけれども、今はそれをわざわざ言う事も、聞く必要性も感じなかった。故に、そこはスルーだ。それにもしかしたら、既にあらかた話された可能性もある。心当たりのヒントは“鳥籠”だ。
「──って、私の話は良くてですね。……ええと、はて、何を言おうと……ああ、そう!瀧本さんは、天華に詮索されるのを良く思わないんじゃないですか?大丈夫なんですか?と尋ねたかったんです」
「……だから相談してるんじゃない」
「……ですよね」
二人の脳内には今、恐らく同じ危機感が募っているだろう。
改めて考えると、天華と咲夜は本当に特殊な関係だ。片や相手を落とす為に、片や相手を諦めさせる為に“運命”を賭けた勝負をしているなんて、全校生徒誰一人として想像さえしていないに違いない。
ましてや、あの完全現実主義者で通っている竜峰天華が、このご時世に“運命”を信じているだなんて……。
ルールその1・二人の関係を騒ぎ立てられないように行動する事。
ルールその2・良からぬ噂になった時点で天華の敗北とする。
ルールその3・咲夜はワザと噂を仄めかしてはいけない。
一見、学校生活を穏便に過ごしたいと言う咲夜に有利な条件ばかりが揃っているように見えるが、いざ下準備を整えた天華に大きく踏み出されるとどうなるかは……皆まで言わずとも、いつぞやの“1-B乱入!生徒会スカウト事件”が証明してくれるだろう。
「本人でなく、瀧本さんのクラスメートにそれとなく聞いてみるとか?」
「実は帰り際、たまたま見覚えのある子を見かけたから話をしてみたのだけど、特に変わった感じはしなかったって言われたわ」
「でしたら、そもそも天華の思い過ごしだったり……ああいえ、はいはい、わかってますよ。それはないんですね」
「……ん。かと言って、これ以上聞いて回るのはさすがに目立ちすぎるからペナルティーが嫌で」
「では、瀧本さんのケーキ屋さんは?まだ聞いてないところならセーフなんじゃないですか?外での出来事なら、校内で噂になりにくいでしょうし」
「……そうね!アリかもしれない。考えてみるわ、ありがとう、來夢」
「You're welcome」
天華の明るい反応に手応えを感じた來夢は、ニコリと笑って椅子の向きを元に戻した。そうと決めたら動きが早い彼女の事だ、近い内に行動に出るだろうと確信しつつ、今一度苦手な古文のノートをなぞる。
「もう一つだけ聞いてもいい?」
「はーい?」
ようやく現代語訳が軌道に乗り始めて来た頃、また背中に凛とした声が掛かった。何となく今度は振り向かず、ペンを走らせながら、返事だけ。
「さっきの、好きだからこそっていう前者と後者の話なんだけど」
「ええ」
「つまり、違うタイプ同士は長続きしないのかしら」
「そんな事はないでしょう。私の場合はミヤさんに合わせたいですけど……想い合っていれば、乗り越えられる事の方が多いですよ。きっと」
「……だったら、私と瀧本さんが付き合った時も──」
──あ、そこは“もし付き合えたら”、とかじゃないんですね……
と密かに目を曇らせた來夢に、天華は気付けるはずもない。
「そうなれるかしら……」
「どうでしょう?ベタな恋愛好きなあの娘の事ですから、案外、好きな人には束縛されたいタイプだったりするかもしれませんよ」
なんて……と、冗談めかして言ってみたのに、何故か返ってきたのは静寂だけ。数秒経って、おや?と來夢が不思議に思った時、突如、背後からガタッ!と物音がした。ギョッとして振り向くと、天華が宙を見上げながら直立している。
「ど、どうし……」
「顔洗ってくる」
「あ、はい」
足早に部屋を去った天華の横顔。
その瞳。
そこに宿った強い光は、想い人を茶化された怒りでも、ましてや意外にも、甘い妄想による高揚でもなかった。
その瞳はこう物語っていた。
──絶対に、そうさせると。
“そういう関係”を、第一の理想とする、と───!
どこまでも熱く、それでいて静かで、真夏の太陽のようなギラギラとした決意。
その未来を“if”でなく“must”とさせる為ならば、恐らく彼女は今後、より一層大胆な手段に出るだろう。何て事だ。本当に……ああ、やってしまった……!
多大な後悔の念に負けた來夢は、冷や汗の止まらない額を両手で抑え、深く深く伏せるのだった。
「Oops……!Sorry、瀧本さん……もしかしたら私、取り返しのつかない事を言ってしまったのかもしれません……!」
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