木と鉄でできた砦の門扉が、イリス=ヒューペリアを見下ろしていた。

 『導術師』になると決めた、翌日のこと。

 竜狩りギルドの拠点は街外れの丘の上にあって、ミルナシアを一望する格好になっている。丘には黒々しい岩肌を縫うように煉瓦敷きの道が続いていて、さながら火口から下る溶岩のごとくだった。砦は街中の建物とは違って木造だが、要所に配された鉄の輝きも相まって、巨大な樹木としてどっしりと根を下ろしている。

 イリスは束ねた銀髪を風に流しながら、ミルナシアの街並みを臨んでいた。延々と坂を登ったせいで少し汗ばんで、ぶかぶかの長衣に熱がこもるのを感じる。ギルドの紋章が染め抜かれたその装束は、竜狩りに携わる人々が着る制服で、シャムリから直々に与えられたものだった。

(暮らし始めて一ヶ月、わたしは街のことを何も知らなかった)

 眼下に広がる景色は見覚えがあるようでいて、細部となるとまるでわからない。いかに自分が侍女舎での生活しか知らなかったのか、思い知らされた気分だった。ただ侍女として暮らしていれば、砦に来ても街並みを眺めることはしなかっただろう。今こうして、未練がましくかつての居場所を振り返っていることが、『導術師』を目指し始める自分を象徴しているように思った。

「お別れは済ませましたか」

 クルム=ビートリッシュ。若き医術師かつ導術師である男が姿を現した。イリスと揃いで濃い藍色の長衣を纏い、ゆったりと歩み寄ってくる。

「ええ。散々羨ましがられたので、逃げてきちゃいました」

 イリスは苦笑する。色恋沙汰に目のない同僚たちは、イリスが砦で働くことになったと知るや一斉に羨望のまなざしを向けてきたのだった。とはいえ誰もが別れを惜しんで、また砦で会おうと言ってくれた。長いようで短い一ヶ月のことを思い返して、イリスもまた少しばかり名残惜しい気持ちになるのだった。

「行きますよ。導術を学ぶなら時間をかけるに越したことはありません」

 うなずいて、クルムの後に続く。

「あと、髪は長衣で隠しておきなさい。事情が事情とはいえ、普通なら砦を出歩く年齢ではありませんし、女性でその服を着るのはイリスさんだけですから、あらぬ誤解を招くこともあるでしょう」

 雨避けのためか、長衣は頭から被れるようになっている。言われたとおりにお下げをしまい込むと、なんとなく秘密めいたことをしている気になって愉快だった。あるいは緊張の裏返しかもしれない。二人はそのまま巨大な門をくぐった。

 侍女舎に置いてあった荷物は運んでもらったから、イリスが砦を訪れるのはこれが二度目だった。

 門を入って真っ先に見えるのは大きな広場だ。普段なら武人たちが鍛錬をするというそこに、今は竜の死骸が横たわっている。目を背けてはいけないと思ったが、背中を這い上がる恐怖の予兆を感じたところで、クルムに呼び止められた。

「そっちは本棟です。診療室は離れにあります」

 また無理をして迷惑をかけても仕方ない。おいおい慣れていこうと決めて、クルムについていく。

 クルムによると、砦の建物は全部で七つだそうだ。広場を囲むように建つ本棟、診療室のある離れ、砦に勤める侍女たちが住まう侍女舎、武人見習いの少年や青年が暮らす童子舎、鍛冶屋の工房、そして倉庫と厩が、ぐるりと塀で囲まれた中にひしめき合うようにして建っている。離れは門を入って右手、文字通り砦の活気から少し外れた場所にあった。

 どの棟も趣は質素そのものだが、窓には透き通った硝子がはまっていたりと、ところどころにお金のかかり具合がうかがえる。そもそもミルナシア近辺は乾燥地帯で、貴重な木材をふんだんに使っているあたり、主であるシャムリのこだわりが感じられた。

 歩いていく間に絶えず金槌の音が響いて、たびたび重いものが転がり落ちるような騒音も聞こえてくる。

「工事でもしているんですか?」

 訊くと、クルムは首を振った。

「違いますよ。竜の解体です。鱗は鋼より硬く、その下の皮膚も刃が通らないほど強靭なので、一筋縄ではいきません。図体も大きく、それこそ建物の解体をするよりよほど骨が折れます。そういう意味では、工事と呼んでも差し支えないかもしれませんが」

 そういえば、竜の素材がどのように作られ使われるのか、イリスにはさっぱりだった。

「どれくらいかかるんですか?」

「軽く一ヶ月はみないと駄目ですね。今回のはかなり大きいので、余計に時間がかかるかもしれません」

「……そのまま持ち帰るのはそういうわけですか」

「ええ。街で引き連れて宣伝する意味もありますが、倒した場所で解体しようにも手間がかかりすぎますから。あと、素材が痛まないようにする意味もあります。心臓さえ付いていれば、死んでいようと腐ることはないんです」

 伝説で語られるような存在だけあって、ただの獣とは一線を画す生き物であるらしい。

「竜の超常的な能力や特性は、導術の一種ではないかと頭領は考えています。その力を理解するため、あるいは対抗するために、頭領は導術に多大な関心を寄せているのです」

 クルムが付け加える。ちょうど診療室に着いたところだった。鍵を開けて中に入ると、こちらに椅子を勧め、自分は奥の椅子に座った。

「早速始めるとしましょうか。まずは導術の何たるか、ですが……」

 クルムはちらりとこちらに目配せをする。その意図をはかりかねて、首をひねった。

「……あれだけのことができて、本当に何も知らないのですか?」

 今度はクルムがいぶかしむ。とはいえ、イリスは首を振るしかなかった。釈然としない様子ながらも、クルムは説明を始める。

「導術は生きとし生けるものに等しく宿る力、生命力、とでも呼びましょうか。これを炎や風、氷結といった、別な力に転ずる技術のことです。正確には、力の変換は『触媒』が勝手にやってくれるので、根幹は自身の生命力を『触媒』まで導くことにあり、そのために導術の名で呼ばれています」

 そこまで一息にしゃべって、クルムは書き物机に置かれた鉢植えと、羊皮紙を切り分けるための小刀を持ってきた。

「試しにやって見せましょうか」

 言うなり、青々しい葉をめくって、その茎を一本切り離した。そのみずみずしい断面から、透明な滴がぽたりと落ちる。

「そしてこれが『触媒』、生命力を癒しの力へと変えるためのものです」

 クルムが鍵付きの金庫から取り出したのは、いつか見た翡翠の指輪だった。くすんだ金輪にはめ込まれた宝石は、よく見るとその中に緻密な模様が立体的に描かれている。それでいて台座や輪はまるで装飾がなく、およそ宝飾品には見えない単純な意匠をしていた。

 クルムはそれを指にはめ、小刀を机に戻すと、今しがた切り取った茎を元の場所にあてがう。目を閉じ、呼吸を整え、集中を始めたようだ。

 茎を支える手、そこにはまった指輪が光を宿すのを認めた。初めは点だった光の粒は次第に宝石全体に広がって、ぼんやりと翠を強めて輝き始める。光の鮮やかさは若葉にも似て、同時に実体のない透明感をそなえていた。その美しさに、イリスはしばし見入ってしまう。

 気付けば光は収まり、クルムがまぶたを持ち上げて手の覆いを外すと、そこには元通りにつながった茎があった。イリスは小さく拍手をする。

「傍から見るだけではわかりにくいですが、これが一連の手順です。自分の生命力を意識し、ひとところに集めて練り上げ、触媒のある体の末端部まで運ぶ。あとは触媒が勝手に生命力を対応する力へ変換してくれます。と、口で言うのは簡単なんですがね」

 クルムは苦笑いをして、続ける。

「生命力というのは、生きていくための活力のようなものです。それを体の外に取り出すのは、生きる本能へ逆らうことに他なりません。そして、これを行うための体系だった知識は失われていて、全ては術者の感性にゆだねられています。そもそも導術の存在を知る人すら稀なのです。……この前、私がどれだけ驚かされたかわかりますか?」

 診療室で目覚めた日のことを思い出す。歯車がぴったりと噛み合い、細い線が繋がる感覚。思えばあれは、生命力とやらを運ぶ道筋だったのかもしれない。

「でも、わたしは特に何かしたつもりはないんですが……」

 指輪へ意識を集中させたわけでも、自分の傷を治したいと願ったわけでもない。光の帯は、指輪が体へ近づいただけで溢れ出した。

「解せないことがいくつもあります。それもそのひとつです」

 クルムはあごに手を当てて、考え込むように言った。

「私はここまで習得するのに十年かかりました。頭領は二十年かけても駄目でした。それをヒューペリアさんは無意識のうちに、あんな大出力の導術をやってのける。さらに導術について何も知らないと言うのです。おかしいでしょう」

「ええっと……」

 責めるような口調に、どう答えたものかわからなかった。戸惑うイリスを見て、クルムは自嘲気味に笑って、肩をすくめる。

「そもそも、導術というのは無から有を生み出す技術ではありません。傷を治すほどの生命力を消費したのなら、傷を負ったのと同じくらい消耗するはず。……あなたはそうではないんです。要するに、私はあなたの能力に嫉妬しているんですよ。同時に、大きな興味を持っています。頭領と同じようにね」

 いたたまれない気持ちだった。自分とリトを助けてくれたクルムには感謝しているし、恩返しがしたいと思っている。しかし生憎と、自分にはさっぱりわからないのだ。

「申し訳ありませんが、わたしはギルドに来る前の記憶を全て失くしてしまっているんです。導術のことを知っていたのかもしれませんが、今のわたしにはわからなくて」

 クルムは虚を衝かれたように目を見開いてから、ばつの悪そうな顔をした。

「それは……すみません。ギルドはそういう子供たちが拾われてくる場所でしたね」

「いえ、お気になさらず。むしろ、少し負い目を感じるくらいなんです。みんなはつらい過去を乗り越えて生活しているのに、わたしには何もないもの。竜が怖くて仕方がないわけも、きっと忘れた記憶の中に答えがあると思っていて」

「竜の幻、とおっしゃっていましたね。強くなるために、それを克服したいと」

 イリスは首肯する。夜ごと夢となって現れるそれは、どれだけ意志を強く持とうとも、よりはっきりとした輪郭をもって脳裏に忍び寄る。それを払いのけない限り、新しい自分にはなれない気がしていた。

「わかりました。導術の謎、竜の幻、ともに失くした記憶が鍵になっていると。……ここにいる限り、竜という存在は付きまといます。過去の記憶を取り戻し、乗り越えたいと願うなら、私も力になりましょう。導術の理解にも結びつくはずです」

 そう言って、クルムは手を差し出す。イリスはこわごわ握り返して、言った。

「よろしくお願いします。……先生」

「ええ、こちらこそ」

 固く握手を交わして、クルムは不敵に笑う。骨ばった手は頼りないが、藍の瞳は闇よりも暗くまたたいている。

 もし導術が理解できたとしても、この表情を読み解くことは難しいだろうと思った。



 新しい自室の中、山と積まれた羊皮紙から顔を上げて、イリスは気怠げに伸びをする。空には陽と陰とがせめぎ合い、爪痕のような三日月がそっと光を投げかける時分だった。

 握手の後に渡され、読んでいたのはクルムの覚書だった。イリスはおそらく既に導術を使うことができるだろうが、無知のままでは制御できない恐れもあり、まずは知識を蓄えることが先決だというのがクルムの考えだった。

 几帳面そうなクルムらしく流麗な筆致で、紙面を敷き詰めるように文字が並んでいる。内容は、古神話と呼ばれる口伝からの引用が主だった。

 それはあまりに不思議な伝説だ。太古の昔、まだ人間が神々と絆を持っていた神代と呼ばれる時代のこと。人は神々の叡智を授かって繁栄し、現在では想像もつかないような技術や文化を発達させていた。神の加護を受けた船は空を行き、仲睦まじい恋人の声は街を隔てて愛をささやき、豊穣の遣いは一面の荒野に実りの穂をもたらしたという。導術の知識も断片的に語られており、クルムが手記にまとめる理由だった。

 しかし、古神話は謎に満ちている。そもそも知っている人間が稀で、各地を旅する吟遊詩人が歌の材料として仕入れてくる他は一切の情報源がなかった。古神話に描かれている繁栄が正しいなら、文字や書物の文化があってしかるべきだが、そういった資料は一切残されていない。口頭で伝わるうちに尾ひれがついて、ただの与太話になったものも多かった。内容にもまるで統一感がなく、神々の成した奇跡の逸話から、ただ釣りに出かけるだけの話まで様々らしい。

 普通ならただの作り話と目もくれないところ、頭領シャムリが古神話に注目したのは、その中に描かれている竜の生態に一定の真実が含まれていると気が付いたからだ。当時は竜も世界にありふれており、高度に発展した生活を脅かす唯一の脅威として恐れられていた。シャムリは雑多な話の中から竜の描写をまとめるうち、導術の存在を知る。宝飾屋にそれとは知られずに並んでいた『触媒』を見つけて手に入れ、それが現実の技術だと確信すると、竜へ対抗し得る手段として多大な金と労力を費やして調べたそうだ。

 それでも、全貌はわかっていない。神々とは、竜とは、導術とは何か。神話の類にありがちな神や人の成り立ちがさっぱり描かれない一方で、なぜかその終焉だけはどんな場所でも必ず語り継がれていた。『落陽の刻』と呼ばれる壮絶な滅び。自分たちは、幸運にもその災禍から逃れて生き延びた人々の末裔なのだ、と。

 しばらく没頭するように読んでいたが、月明かりの下では読むことも難しい。広げた羊皮紙を整理して、イリスは隣室へ移動した。

「おや、お疲れ様です」

 診療室ではクルムが湯を飲んでいた。湯呑を置いて、イリスを招き入れる。

「……まだ、目覚めませんか」

 リトの寝床を見やると、クルムは首を横に振った。そっと垂れ幕を引き開けて、その寝姿を確かめる。心なしか、血色が戻っているようにも見えた。

「そろそろ頃合いだろうと思いますが。体力的には回復しているはずです」

 答えながら微笑を漏らす。クルムはそれを詫びるように続けた。

「カッシュさんはいいお友達に恵まれたのですね。身を挺して守りたいと思うほど」

「……どういう意味でしょう」

「いえ、何でもありませんよ。……少し軽率でしたかね」

「お知り合いなんですか?」

「ええ、前にも治療したことがありますから」

 口ごもるように言って、それ以上は教えてくれなかった。聞いてはいけないことのような気がして、深く追及しないことにする。

「そうだ、料理はできますよね」

 そう聞かれて、イリスは少しどきりとした。

「……まあ、一応は」

「武人たちと違って、離れの人間には世話をしてくれる侍女がいません。炊事や洗濯、掃除など、身の回りのことは自分でやってもらいます。とはいえ、侍女舎で働いていたイリスさんには、今までと変わらない生活だと思いますが」

 そうですねと応じつつ、イリスは内心苦い顔をしていた。正直なところ、家事の訓練をしていたとはいえ、何も知らない状態から一ヶ月、さほど上達したとは言い難かった。侍女舎で生活しているときだって、いつもリトに手伝ってもらっていたのだ。

「調理場は右手の突き当りにあります。ただ、今日はもう遅くて手元も見えませんし、よければ作り置きを食べてください」

 今日のご飯は作らなくていいとわかり、胸をなで下ろすイリスだった。しかし、明日は早めに調理場を確認しておこうと思う。導術の資料を読むのと、包丁との格闘と、どちらがより苦労するだろうか。

「食材はどうするんでしょう」

「届けてくれますし、足りなかったら本棟に取りに行けば大丈夫です。今日から一人増えると言ってありますから、よほど大丈夫でしょうが」

 と言って、離れの残りの設備についても説明してくれた。離れは診療所としての役割が主であり、他の医術師が詰める診療室がいくつかと、寝台が並ぶ部屋、外科手術を行う部屋、調理場や風呂、客間などがある。薪と井戸水が貴重なこの街では、特に風呂は珍しいといえた。竜狩りに伴って酷い怪我をすることが多く、その療養にあたって風呂は重要らしい。離れだけでなく、本棟にもあるのだという。

「クルムさんは診療室で寝ているんですか?」

「いえ、さすがに自室は持っていますよ。ここの隣です。容態が重い場合はつきっきりですが、今は安定していますしね。でも、もう少しはここにいるつもりです」

「わかりました。何かあったら伺います」

「慣れないことも多いでしょうし、気軽に聞いてください」

 礼を言って部屋を辞すと、イリスは自室に引っ込む。ただ、ご飯を食べようと思い当たって、作り置きがどこにあるのか訊くのを忘れていたと気が付いた。

 引き戸を叩こうとして、中から聞こえる声に思わず手を止めた。

「起きているんでしょう?」

 クルムの声。それが向けられた相手は、リトの他にはいないはずだった。

「狸寝入りしたって駄目ですよ。拗ねているんですか?」

「……どうしてわかるのよ」

 確かにリトだった。少し弱々しいが芯の通った声で、意識ははっきりしているようだ。

「昔話を匂わせたとき、息を詰めて聞き耳を立てたでしょう。それに引っ掛かるあたりがまだ子供なんですよ」

「あら、いつまで経っても年下に敬語が抜けない甲斐性なしが、よく言ったものね」

 リトの艶やかな剣吞さに、イリスは戸に掛けた手を引っ込めた。さっさと退散すべきだと思ったが、足音で気がつかれるのさえ怖かった。

 聞かれているとも知らず、クルムは冗談めかして応じる。

「全く、拗ねたいのはこちらの方ですよ。久々に帰って来たと思えば、誰かさんが死にかかっているし、思いもよらぬ反感を買うことになるし、年端もいかない女の子に嫉妬する羽目になるんですから」

「あら、嫉妬する羽目になったのはあたしでしょう?」

「さて、あなたが嫉妬しているのはヒューペリアさんか私か、どちらでしょうね? 後者なら、私にもやっかむ権利はあるでしょう」

 ぐっと息を呑み込んでリトが黙った。畳みかけるように、クルムは続ける。

「どうして無茶をしたんです。その身を犠牲にして友人をかばうほど、あなたは愚鈍ではないはずです。あなたなら、いくらでも他の方法を思いついたでしょうに。それとも、ヒューペリアさんの存在はあなたの命よりも重いものですか?」

 冷ややかな問いに、リトは答えない。人を手玉に取ることにかけて百戦錬磨だったリトが、これほどやり込められている状況をイリスは他に知らなかった。

「隠し立てをするなとは言いません。誰しも秘密の一つや二つあるものです。ですが、そのために軽々しく命を散らすようなら、私は容赦しませんよ。……人間、拾い上げたものには執着が湧いてしまう生き物ですからね」

「……ずるいわよ、そんな物言い」

 観念したようにリトが言った。しおらしくするリトもまた、イリスには覚えがない。かと思えば、次の言葉には茶目っ気が戻っていた。

「でも、聞き出すなら二人きりの時にすべきね。気付かないとでも思ったのかしら」

「当事者ですから、聞く権利はあると思ったんですがね」

 今度はイリスが息を呑む番だった。二人ともとっくに気が付いていたのだ。後ろめたさに後ずさる間も、会話は続いている。

「でも、元気な声はイリスにも聞かせてあげたわよ。今日くらいわがままを聞く気になったかしら?」

「生憎と甲斐性なしですからね」

「意気地なし」

「あなたが生き急ぎ過ぎるんですよ」

 逃げるように自室へ戻って、扉を閉める。リトが目を覚ましたことは嬉しかったが、それ以上に肝の冷える思いがした。二人には逆らわないようにしよう、と密かに誓う。

 月光が窓から差していた。日は暮れて、空はすっかり藍に染まっている。やれやれと首を振ってから、イリスは寝具を出して潜り込んだ。

 何度か寝返りを打ってから、ようやくご飯を食べ損ねたと気が付いたのだった。



 砂埃の中を二筋の光が疾走していた。ひとつは朱、ひとつは白、それぞれが熱きと寒きをつかさどる力の奔流は、術者が思い描くままに虚空を巡り、形なき生き物としてその命を謳歌している。

 竜狩りギルドの砦、その裏手にある演習場でのこと。

 イリスはこれまでにない充足を味わっていた。右手の火炎、左手の氷雪、それぞれが腕と一筋の線で結ばれ、そこから内なる自分が溶け出していく。炎と氷という相反する存在が自分を介してひと連なりに踊る中、三者の境は曖昧で、その別はもはや意味をなしていなかった。

 片や火花を咲かせながら砂を焦がし、片や砕氷を散らしながら霧を振りまく。逆巻く渦の中心で風がいななき、爆ぜた砂粒、弾けた水沫を押し流していった。

(……これなら)

 意を決して、イリスはひとつの巨岩を見やる。山肌から生えるようにそびえるそれは、背丈の倍くらいの高さがあり、何度か的にしたせいで表面が少し煤けていた。

 気ままに暴れさせていた二筋の流れを、手繰り寄せるようにして頭上に束ねる。あまねく広がることを是とする意思無き力は、しかし、イリスの導きのもとにしなやかな弧を描いて天へと昇っていく。白きが朱きを照らし出し、朱きが白きを浮かび上がらせ、螺旋となった光が灼けつく雨を降らせた。

 槍と化したそれを、一息に岩へと撃ち出す。

 雷もかくやという轟音が響いた。焦熱が岩を焼き、同時に氷塊が凍てつかせる。白と黒の煙が上がり、足元が揺らぐ。

 いくらもないうちに、大岩が砕け散った。煙と砂、氷と炎が一緒になって視界を塞ぎ、行き場を失くしてさまよった。イリスは大きく息をついて、ふたつの矛を収めていく。荒ぶる気性に逆らわず、ゆっくりと。光が鎮まり在るべき場所へ戻ると、一陣の風が水の残り香を吹き散らしていった。

「見ていてほれぼれする腕前ですね」

 離れて立っていたクルムが近づいてきた。イリスは右手から紅、左手から藍の指輪を外すと、布にくるんでクルムに手渡した。

「熱して膨張を、冷やして収縮を引き起こし、岩をも砕く、と。思い付きでしたが、うまくいくものですね。竜の鱗にも効果的かどうか試してみたいところです」

 受け取って、クルムは砕けた岩の様子を調べている。直撃を受けた反対側も崩れ落ちていて、その威力が窺い知れた。

「出力も精度も申し分ない。いやはや、恐れ入りましたよ。これでは師を名乗るわけにはいきませんね」

「いえ、そんな。知識を与えてくれたのは、間違いなくビートリッシュさんです」

 長いとは思いながらも、リトに何と言われるかわからないのでクルムを名前では呼べなかった。クルムも同じ理由か、イリスのことはヒューペリアさんと呼んでいた。

「導術の要である生命力を導く技は、直感に大きく依るものです。それを教えずとも体得していたのですから、それはヒューペリアさんの技術ですよ。そもそも、私には真似できそうにありませんからね」

 導術を学び始めてから三ヶ月が経っていた。イリスはほぼ完璧に炎と氷の導術を使いこなすことができたが、癒しの導術については精密な制御が必要で、失敗はすなわち患者の危険に繋がるため、研鑽を積むことができないでいた。これはひとえに、イリスが扱う導術の出力が大きいことにも関係している。イリスとしては少しだけのつもりでも、導術として得られる力は莫大なものになる。その分制御が利かないのだった。

「しかし、ここまでの力を引き出せるのは本当に不思議ですね。それでいてちっとも疲弊していませんし、導術の源は生命力ではなく、何か別な起源があるのかもしれません。強力な導術を使いこなす仕組みさえわかれば、導術もより有用になるのですが」

 結局、イリスがなぜ導術を使いこなせるのかはわかっていない。過去のことも何ひとつ思い出せないし、未だに竜の夢も見る。そのせいで、導術に習熟した今も成長したという実感が湧かないでいた。

「……失礼を承知で言うと、わたしにはすごく当たり前のことに感じます。形容しがたい流れが体から染み出して、触媒の宝石に吸い込まれていくんです。それはとても自然なことで、むしろ、ほとばしる炎や氷を抑え込むために、その流れをせき止めることの方がよほど大変だと思って」

「それが、才能というものなんでしょうね。あるいは、導術には明確な適正があるのかもしれません。私にとって、触媒に注ぎ込む力は体内でかき集めて絞り出すものですから」

 イリスにその感覚は理解できない。導術を使った後に疲れて動けないなどということもなく、むしろ、起き抜けに朝日を浴びたような清々しい気分さえした。

「……戻りましょうか。今日はリトも来るはずです」

 リトはすっかり傷も癒えて、侍女舎での生活に戻っていた。とはいえ、治療への立ち合いをリトが拒んだので、怪我の様子をイリスが知ることはなかった。リトのいない生活は二人部屋で過ごした時間よりずっと早く過ぎていく。三ヶ月が経っても、てらいなくおしゃべりできる友人の存在は恋しかった。もっとも、家事がまるで出来なくて困るという理由もあるにはあるのだが。

 そんなイリスの気持ちを知ってか知らずか、あるいはクルムに会いに来るためか、リトはたびたびギルドの砦を訪れていた。侍女舎では毎日が勉強で休みは少なく、成人でない侍女がギルドの砦に来ることは禁じられているはずだが、リトのことだからうまく誤魔化しているのだろう。しかし、リトが来る日をクルムが察知できる理由は本当に謎だった。

 砦を囲む丸太の塀に沿って、砦の門まで歩いていく。演習場と言えば聞こえはいいが、単純に整備されていない荒地を訓練に使うことがあるというだけのことだ。各々が武術を磨く訓練は本棟に囲まれた広場で行われるが、竜との戦闘を意識した集団戦法は広い場所でしかできない。イリスの導術も、砦の中では使えないほど大規模で強力になっていた。

砦に戻ると、普段はあるべき姿がない。イリスはおや、と思った。

「武人の方はどうしたんでしょう」

 イリスが訊く。広場の竜は解体が終わって、代わりに武人たちが訓練をするようになっていた。主に組み手や演武、鞘付きの槍を使った模擬戦などだ。他の侍女が羨むのももっともで、毎日のように若い武人らの姿を見ることができたが、興味の湧かないイリスには宝の持ち腐れだった。しかし今日はまだ日も高いのに、槍を打ち合う音はない。

「確かに妙ですね。鍛錬は毎日行われているはずですが」

 クルムもいぶかしんでいた。とすると、何か特別なことがあったのだろうか。

「今日は別の訓練なのでしょうか」

 訊くと、クルムは首を振った。

「いえ、内容はいつも同じです。集団演習があるときも、一部の武人だけが参加してあとは普段通りに訓練をするようですし」

「え、竜狩りに向けた訓練とかはしないんですか? わたしには、単に槍の訓練をしているだけのように見えます」

「そりゃあ、竜と戦えるのは狩りに出た時だけですから、練習のしようがないでしょう。単に槍術を磨くことも大切だと思いますよ。まあ私は武術に関しては素人ですから、詳しいことはわかりませんが」

 クルムがそう言うので、そんなものだろうかと考える。実際に竜を倒して持ち帰ってきているのだから、効果はあるのだろう。

「何かあったのは間違いないでしょうね。とすると……」

 クルムはあごに手を当てる。しばらく過ごしてわかったが、クルムが考え込むときの癖だった。

「戻ったか。訓練は順調のようだな」

 と、目の前で緋色の長衣が翻った。ギルドの頭領、シャムリだ。これだけ存在感のある男なのに現れるのはいつも突然で、毎度のように驚かされるのが不思議だった。

「頭領、武人たちが訓練に出ていないということは……」

「さすが察しがいいな。竜発見の報が入った。彼らは今、出立の準備を始めている」

 クルムの目つきが鋭くなる。イリスも自然と背筋が伸びた。

「詳細を訊いても?」

「そのつもりで呼びに来た。一息ついたら頭領室に来い。ヒューペリア、お前もだ」

「え?」

「背にギルドの印を負う者は皆、訊く権利がある」

 それだけ言って、シャムリは去っていった。堂々としながら足取りは早く、わずかな時間も惜しむ実直さが窺えた。

 二人は急ぎ自室に戻って、簡単に身づくろいをしてから本棟に向かった。初めてだったが、本棟の装いも離れとさほど変わらなかった。ただ、武人たちにあてがわれている個室はかなり広いようで、廊下に見える扉はまばらだった。

 頭領の部屋は本棟の中央、三階にあった。クルムが扉を叩くと、入れ、と声がした。

「失礼します」

 クルムに続いて入ると、そこは一面の絨毯張りだった。足首まで埋まりそうなほど毛足が長く、枯れ草色も相まって秋の荒野を思わせた。部屋はちょっとした広さがあるものの高価な調度はなく、がっしりした書き物机と革張りの椅子がいくつかあるくらいだった。さらに、両側に並ぶ本棚には様々な書類がこれでもかと詰められている。羊皮紙や本もあれば、中には木の繊維を漉いて作った紙まで入っていた。シャムリは幼少期を南の沿岸部で過ごしたらしく、木を多用する建築をはじめ、その文化を好んで取り入れるらしい。

 そして、最も目を引くのは竜狩りギルドの旗だった。深紅に黒で染め抜かれた、槍に貫かれる竜の姿。それを背に、たったひとりでギルドを作り上げた人物が座っている。

 シャムリ=ルンバートは卓上に地図を広げながら、思索にふけっている様子だった。赤銅色の髪をかき上げ、その額には厳めしいしわが寄っている。指先で二度机を叩いてから漆黒の視線を二人に投げた。

「来たな。早速話すとしよう」

 シャムリは山となった紙束から無造作に一枚を引き抜くと、しかし、それを一切見ずに話し始めた。

「目撃地はかなり近い。西に向かう街道をいくらか逸れたところだ。二週間もあれば着くし、斥候の見立てが正しいならミルナシアに向かってきている。一週間ほどで遭遇してもおかしくない」

 イリスは驚いた。前の竜狩りから三ヶ月しか経っていないのに、そんな近くに竜が現れるとは思わなかった。クルムにとっても意外だったようで、厳しい顔つきをしている。

「竜種は?」

「獣竜だ。二足歩行で翼を持たず、小型の代わりに運動性能が高い個体だろう。扱う導術は不明、熱や冷気、風や稲妻を纏っている様子は見られなかったとの報告から、未知の導術を使ってくる可能性が高い」

「先に威力偵察を行った方がいいかもしれませんね」

「だが、気ままにさまよっているわけではなく、明確な意図を持って行動している節がある。目的がわからん限り、軽率な真似は避けた方がいいかもしれん」

 そんな調子で、シャムリとクルムは情報交換と議論を重ね始めた。竜狩りについて話すら聞いたことがないイリスは、ただ突っ立っているだけしかなかった。

「……して、ヒューペリアのことだが」

 白熱する話し合いの中、いきなり名前を呼ばれて顔を上げる。シャムリは迂遠な言い方をせず、まっすぐにイリスへ問うた。

「お前さん、竜狩りに参加する意思はあるか」

 意表を衝かれて、返す言葉もなかった。

「我々とともに来て、戦う意思はあるかと訊いている」

「わたしが、ですか?」

 訊き返すのが精一杯だった。シャムリはうなずいて、続ける。

「もちろんだ。クルムは怪我の治療にかけては天才的だが、充分な威力を持った攻撃的な導術を会得するには至らなかった。お前さんの導術は別だ。竜への新たな攻撃手段として実践投入するだけの価値がある。それに苦手とはいえ、治癒の導術を使えるなら連れて行って損はない」

 自分が、竜と、戦う。考えもしなかったことだった。当然、強くなろうとは誓った。竜の幻影を振り払うために。友人を二度と危険な目に遭わせないように。そのために導術を学び、その腕を磨こうと邁進してきた。しかし、その延長線上に竜と戦う道があるとは、一度も思いつかなかったのだ。竜狩りギルドという組織にいながら、なぜ考えが及ばなかったのか、自分でも不思議だった。

「わたしは、戦えますか。竜と」

 竜への恐怖を乗り越えるなら、これに勝る手段はない。ただし、不安は付きまとう。自分が竜へと対峙した時、それに耐えられるのか。何かが起こる確信があって、直感が行くなと告げていた。

「わからんが、試す価値はあると言っている。最後はお前さんの胸ひとつ、死地に赴くだけの覚悟があるかと問うているのだ」

 野を焼き尽くし、夜という名の地獄を運ぶ竜の影。

 夢の中の幻影が真実の姿であったなら、決して敵わないだろうと思った。しかし、あれが真実の竜ならば、自分どころか、人間がいくら束になろうと敵わない。竜狩りギルドは成り立たないはずだった。

「ここで答えを出せとは言わん。わしも忙しいからな。しかし、明日には聞かせてもらおうか。出立を遅らせるわけにはいかん」

「わかりました」

 答えて二人に目配せをする。自分の用事は済んだようで、そのまま部屋を辞した。

 廊下を歩きながら、竜狩りへ行くべきか考える。そもそも参加の可能性をまったく考慮していなかったので、うまく頭が回らなかった。

(わたしはどうして、思いつかなかったんだろう)

 竜が怖いからかと考えて、違うと思った。怖くて行きたくないならともかく、今は行くのを迷っている。そもそも選択肢として思いつかなかったのだ。むしろ、いずれ立ち向かうべき存在として竜を認知していたはずなのに。

(あの夢は、いったい……)

 どういう意味を持つのだろう。自分は竜をどう思っているのだろう。力を手に入れても謎は増えるばかりだった。



 ふと思案から覚めると、帰り道がわからなくなっていた。一度進路を見失うと、本棟は迷路そのものだった。イリスはひとりで出てきたことを酷く後悔した。行きと同じくクルムと一緒なら迷うこともなかったはずだ。

 気が付いたのは手近な階段を降りた時だった。三階から二階に降りたわけだが、そのまま一階に下りる階段はなく、廊下も少し進んだところで行き止まりになっていた。初めて来た人間を迷わすために作られているとしか思えない。どの廊下も似たような見た目をしていて、自分がどこにいるのかもわからなくなり始めていた。

 行き交う武人も少なかった。各々荷物をまとめたり、契りを交わした侍女と会いに行っているのかもしれない。いずれにせよ、声はかけにくい。誰もがいかつい体つきをしているうえに、イリスは砦内での関わりはほとんどないから、よそ者と思われても仕方ない。

 途方に暮れているイリスに、声をかけるものがあった。

「どうしてお前がここにいる」

 幼くも、心胆寒からしめる声音。それを聞き誤るはずがない。

 振り返ると、いつか助けてくれた少年、レアス=イスチェリーの姿があった。イリスは驚きのあまり、足がもつれて転びそうになった。

「それはこちらの台詞よ。どうしてあなたがここにいるの」

「先に訊いたのは俺なんだがな。まあ、金を無心しに来たんだよ」

 レアスは、前に見たのと同じぶかぶかの長衣を羽織っている。それがギルドの装束に似ていることに、イリスはたった今気が付いた。

「あなた、ギルドの武人だったの?」

「お前はギルドの武人だったのか?」

 言って、レアスは続けた。

「違えよ。あんなくだらない訓練に付き合わされるなんてまっぴらだからな。金だけもらって、街で適当に暮らしてるだけだ。お前はどうなんだ? 召使いとして来る年齢じゃねえだろう」

「……導術師として呼ばれたの。まだ修行中だけれど、才能があるかもしれないって」

 言うなり、レアスは胡乱げな表情で宙を仰ぐ。黒髪が揺れ、焼けた額が露わになった。

「導術ねえ。どうやら狸じじいは、いい歳してよほどお伽噺にご執心らしい」

 イリスは首をかしげた。狸じじいと言っているのは、頭領のシャムリのことだろうか。そんな呼び方をする人を見るのは、当然ながら初めてのことだった。

「お伽噺?」

「ああ、そこに出てくる女神の名を負うくらいだ、お前も知っているだろう?」

 レアスの言うことがまるで分らなかった。女神の名前? 自分の名前に対して、そんな反応をされるのは初めてだった。

「わたし、昔のことを覚えていないの。女神の名前ってどういうこと?」

 訊くと、レアスはきまり悪そうに顔をしかめた。

「……虹の女神イリス、黄金の翼と風の足を持つ、天からの遣いとされている。まあ、俺もそのくらいしか知らないんだがな」

 お伽噺というのは、古神話のことだろうか。クルムの手記は一通り読み終わったが、そんな記述は見たことがなかった。そもそも、手記の内容に精通しているクルムやシャムリも、イリスという名には興味を示さなかった。

「……偶然じゃないかしら」

「そうかもな。珍しい名前ではあるだろうが、俺はこの辺りの人間の名を知らねえ」

「あなたも流れ者なの?」

「訊きたいか?」

 目に残忍な光を灯して、レアスが訊き返した。猛獣も泣いて逃げ出すほどの殺気、詮索するなら殺すという合図だった。

「悪かったわ」

「それでいい」

 レアスの過去は気になったが、気軽に訊けるものではないらしい。話題を変えようと、イリスは口を開いた。

「ねえ、そういえば、どうしてわたしだとわかったの?」

 初めにクルムに言われた通り、イリスは自室にいる他は必ず髪を束ね、長衣を被って生活していた。正面からならともかく、背後から見てもそれとわからないはずだ。

 小馬鹿にするような様子で、レアスは目を細めた。

「お前、本気で言っているのか? 女の嗜みだか何だか知らんが、気を引くために付けているんだろう?」

 何のことかわからず、狐につままれた顔で突っ立っていると、がたがたと騒々しい足音が近づいてきた。

「来たか」

 レアスは舌打ちをする。足音だけでなく、会話の端々も聞こえてきた。探してないのはこっちだけだとか、ここは袋小路だとか。

「……あなた、いったい何をしたの?」

「金を無心しに来たと言っただろう。お前もさっさと逃げないと、人違いで捕まるぞ」

 何でもないことのように、レアスはしれっと答える。

「ちょっと! わたし出口がわからないんだけど」

「教えてくれと? お前、俺のことを道案内か何かと勘違いしてねえか」

 呆れるレアスに、イリスは言葉を呑み込んだ。確かに、こないだはレアスの後を追って助けを呼ぶことができたが、それとこれとは話が別だと思った。

「残念だが、俺は道を知らねえんだよ。この建物は無駄に複雑な造りをしていやがる」

「自慢げに言うことじゃないと思うけど……」

 話す間にも、足音は近づいてきた。レアスは手近な窓に近づいて、手早く引き開ける。

「窓から出入りすれば関係ねえのさ。ま、頑張れよ」

 イリスが止める間もなく、レアスは飛び降りた。急いで窓に駆け寄ると、三階の高さにも関わらず軽やかに着地して、そのまま駆け去っていった。



 武人たちの尋問から解放されたイリスは、その武人らの案内でようやく離れに辿り着いた。くたくたの体を引きずって自室に辿り着いた時、中から物音がするのに気が付いた。

「あら、遅かったわね」

 部屋にはリトが来ていた。散らばった資料をまとめ、積もった埃をぬぐっている。袖を絞った仕事着を纏っているものの、銀の髪留めはいつも通りにつけていた。手を止めずに顔だけ向けてきて、言った。

「毎度のことだけど、あなたは侍女舎で何を学んだのかしらね、イリス。自分の世話もできないようじゃ、他人の面倒なんて見られないわよ」

 呆れるリトはどこか楽しそうだった。イリスには返す言葉もなく、無言で手伝おうとするも、かわされてしまう。

「もうちょっとだから、そこに座って待ってなさい」

 そう言うので、仕方なく座って見ている。宣言通り、リトは手際よく片づけを終えた。

「ビートリッシュさんは戻って来たかしら」

「あら、さっき挨拶してきたけど、どうしたの?」

「何でもないわ」

 イリスは苦い顔をした。どうやら迷ったりしているうちに、先に戻っていたらしい。

「道に迷っていたのね」

 と、たちまち見透かされてしまう。イリスは言い訳がましく答えた。

「仕方ないじゃない。本棟に入るのは初めてだったんだもの」

「本棟に?」

 リトが探るような視線を向けてくる。それが、イリスには少し意外だった。

「……竜狩りが始まるのよ。ビートリッシュさんから聞かなかったの?」

 言ってから、あえて伝えなかったのだと気が付いた。これは、イリス自身の口から言うべきことだ。

「聞いていないわ。クルムさんはともかく、イリスが呼ばれたのはどういうことなの?」

 リトはただならぬ様子でイリスに尋ねる。リトのことだ、十中八九、その内容を察しているのだろう。うつむきながら、イリスは言った。

「わたしに同行の意思があるかと訊かれたわ。……迷っているの」

「駄目よ。行っちゃ駄目」

 はっとして、リトの方を見る。その表情は堅かった。

「イリスが行く必要なんてないわ。今までも竜を倒して帰ってきているのだもの。わざわざ危険な場所に首を突っ込むことなんてないのよ」

 イリスは黙るしかなかった。リトが明確に何かを拒んだのは、イリスが知る限り初めてのことだった。それだけ、重いのだ。竜狩りに行くということは。

「あなたは竜の恐ろしさを知らないわ。前回こそ犠牲者なしで済んだけれど、普段は馬鹿にならないくらいの死人が出るの。ほとんど竜と相討ちの形になって、死人を弔う間もなく潰走してきたこともあったそうよ」

「竜の恐ろしさなら、知っているつもり」

 唯一、そこだけは譲れなかった。毎夜のようにイリスを脅かす竜の幻影。それが幻であっても、イリスが抱く恐怖は本物だった。いかに真実の竜が強大であろうと、あの悪夢を越えることはないと思った。

「……なら、どうして迷うことがあるの」

 イリスの言葉に少しひるんでから、リトは問いかけた。

「強く、なりたいもの」

 つぶやくような言葉は、しかし、有無を言わさぬ響きがあった。

「強くなりたいの。竜の影に怯えないように。傷つく誰かを守れるように」

「あなたが目指すことじゃないわ。武人の御方がやることよ。それに……」

 リトは諭すように、懇願するように、イリスの手を取った。

「竜を怖がらずにいられるなんて、とんでもない馬鹿者か、人智を越えた化け物か、どちらかだわ」

 馬鹿者か、化け物か。リトの手を握りながら、イリスはその言葉を噛みしめた。自分はどちらになりたいのだろう。自分はどこへ行くのだろう。恐怖で凍り付いた湖を踏みしめた先は、まるで見えなかった。

「リト、お願いがあるの」

 水晶の色した目を、イリスはそっと覗き込んだ。リトの、長いまつ毛に縁どられた眼差しが、大きくひとつ瞬きをした。

「傷を見せて」

 繋いだ手に力がこもった。リトはぎこちない笑みを浮かべる。

「イリス、そういうことを言うのはこう、日がもう少し落ちてからの方が……」

 しどろもどろの冗談には耳を貸さずに、イリスは言い放った。

「わたしの罪を見せて」

 それを聞いては、リトも目を逸らすことはできなかった。ちょっと待ってと言って寝台に腰掛けると、帯を解いて服をはだけた。

 傷は治っていた。しかし、みみずが埋まったような無残な痕が残っていた。

 傷痕は、肩口から背中側に回って、胸の下くらいの高さまで続いていた。傷の線だけ磨いた大理石のようにつるつるになって、縫い目と交差したところが丸く膨らんでいた。斬り傷だけでなく、太刀が直撃したのか肩甲骨が少し歪んで、出っ張りが欠けているところがあった。

「……ごめんね」

 傷に触れないように指を近づけて、その線をゆっくりと辿る。

「ごめん」

 もう一度言うと、言葉に引っ張られて嗚咽がせり上がってきた。泣いてはいけない。そんな資格はない。そう思うにつけ、情けなさでいっぱいになった。

 この線が、自分の命を繋ぎとめた。シャムリは、導術に長けた自分ならこの傷を治せるかもしれない、と言った。しかし、それは無理なのだ。この傷には、命と同じだけの重みがある。だとすれば、命を贖ってさえ癒えぬ傷であるのは明らかだった。

「ごめん」

 ほとんど声にもならないような言葉を、イリスは吐いた。涙が落ちた。

「わたしは、強くならなくちゃいけない。ごめん」

 そう願うこと自体が罪であるかのように、イリスは謝るしかできなかった。リトは自分に生きていて欲しいと思っている。自身が守った命を散らして欲しくないと思っている。これは自分の我儘だ。それをはっきりと意識した。贖罪にすらならない、ただの向こう見ずだと。

 それでも、行かないとは言えなかった。

 リトの体を触るに触れず、宙ぶらりんになった手が、細い指に絡め取られた。

 リトは、イリスの手を自分の左肩に押し付けながら、銀の髪に白い指を差し込んで、いとおしそうに撫でた。

 二人して泣き続ける間、もう言葉は要らなかった。



 クルムと共に頭領の部屋を訪れたのは、翌朝のことだった。覚悟は決まっていた。部屋の扉を叩くと、クルムが一歩下がるので、イリスは苦笑しながら目礼をする。本当はひとりで来るつもりだったが、道がわからないので案内を頼んだのだ。けれど、部屋にはひとりで入る。クルムもその方がいいと言ってくれた。

「失礼します」

 シャムリの合図を聞いて、扉を開ける。丈夫な樫製の扉は、ずっしりと重かった。

「決めたのだな」

 扉を閉めるなり、シャムリはそう言った。こうして一対一で顔を合わせると、静かなたたずまいにも言いようのない迫力を感じる。武を極め、竜とも刃を交える英傑たる証左。まだうら若い自分が、とるに足らない存在に思えてくる。

 だが、イリスはひるまなかった。

「決めました。竜狩りに参加させていただきます。……ただ、条件が」

 シャムリの眉が動いた。他はぴくりともしなかった。

「言ってみろ」

 問い詰めるのでもなく、聞き出すのでもなく、いかにも無機質な声で訊いてくる。彫像を相手に話しているように感じて、うすら寒くなった。

「わたしは竜のことを何も知りません。その姿も、強さも、恐ろしさも。……だから、見極めるための時間をください。自分の導術が通用すると確証が得られた時にのみ、戦闘に参加します。それが条件です」

 我ながら身勝手な申し出だと、イリスは呆れるしかなかった。しかし、シャムリの威迫を前にして噛まずに言い切れたことだけは、自分を褒めてもいいだろうと思った。

「意志は固いようだな。その拠り所を聞こうか」

「……友人に救われた命を、無下にするわけにはいきません」

 むごい傷痕は、まぶたの裏にしっかりと焼き付いていた。弱いままではいけない。強くならなくちゃいけない。しかし、その身を滅ぼすことは弱さに勝る罪だった。リトの心にまで傷を負わせてはいけない。

「賢明だな」

 シャムリはようやく目を細めて、ゆっくりとうなずいた。

「いい返事だ。竜狩りへの同行を認めよう。そして、今回お前さんの役割は傍観者だ。竜の何たるかをその目で確かめるといい」

 イリスはあっけにとられて、しばらく声が出なかった。無理なお願いをしている自覚があった分、それがすんなり受け入れられて戸惑いを隠せなかった。

「お前さんは、自分の能力を過小評価しているようだな」

 やれやれと肩をすくめて、シャムリが言った。

「導術の使い手は貴重だ。わしが知っている限りクルムとお前さんの二人だけ、そんな人材を無闇に失うわけにはいかん。お前さんが経験もなしに竜と戦うつもりでいるなら、同行を認めるつもりはなかった。最初からな」

 そうは言っても、戦う意思があるかと問うたのはシャムリその人だ。死地に赴く覚悟があるかとも訊いてきた。だからこそ、全身全霊をもって竜に立ち向かうことを求められているのだと思った。

「わたしは試されていた、と?」

 わからなかった。本意ではなく自分を焚きつける理由が。

「試すとも。戦う意思と蛮勇は違う。死地に赴く覚悟と死ぬ覚悟は別のものだ。わかるだろう?」

 少し考えてから、イリスは慎重に口を開く。

「戦う意思とは勝つために最善を尽くす意思、死地に赴く覚悟とは死地で何としても生き残る覚悟、ということでしょうか」

「その通り。そこをはき違えた者は連れていくわけにはいかない。死は、それを受け入れた者のもとへいとも容易く滑り込む。竜狩りのような極限の環境では尚更だ」

 イリスはシャムリの表情に暗い影を垣間見ようとしたが、まるで読み取ることはできなかった。多くの戦いの中で、いくつもの死を見てきたことだろう。シャムリの心中は計れずとも、その言葉が経験に裏打ちされていることだけは確かだった。

「お前さんの師クルムも、優男ながら竜狩りに参加する意味を正しく理解している。あれでなかなか度胸のある男だ。武術の才能はからっきしだがな。……導術に限らず、彼から多く学ぶといい」

「冗談は教わりたいですね」

「いかにも奴の言いそうなことだ」

 シャムリはわずかに口角を持ち上げる。あらゆる反応を、必要な分だけ行う。それをあまりに徹底しているせいで、逆に自然な仕草にさえ見える。

「さて、差し当たっては竜狩りへの備え方を訊くんだな。まあ、ほとんどはクルム自らやってくれるだろうが。それと、友人には必ず連絡と挨拶をしておけ。竜狩りにおいて万が一という言葉は字義通りの意味を持たん。起こり得ることと覚悟して、身辺整理をやっておくといい」

 イリスは神妙にうなずいた。虚飾のないむき出しの忠告に、竜狩りへ行くのだという実感が胸に迫った。

「期待している。竜狩りの行軍でまた会おう」

 ぺこりとお辞儀をして、イリスは部屋を辞した。

「緊張しましたか?」

 部屋の外ではクルムが待っていた。疲れた笑みを浮かべて、返事の代わりにする。

「聞いてはいませんでしたが、だいたいの見当は付きます。……準備をしなければいけない。そうですね?」

 クルムにも、竜狩りに行く意思は伝えていなかった。しかし、言わなくてもお見通しだったらしい。イリスは頭を下げる。

「おかげさまで。……改めて、ありがとうございます」

「私はお手伝いをしただけですよ」

「それだけでも、充分ありがたいことです。頼りきりで、申し訳ありません」

「あなたの歳で何を言うのですか。そういう台詞は、せめて三年は経ってから使うべきでしょう」

 クルムは呆れたように笑う。それを見てなんだかほっとする自分に気が付いた。自覚していた以上に緊張していたらしい。

「あなたは生真面目に過ぎるんですよ。それが悪いこととは言いませんが、多少は無頼さやしたたかさも持ち合わせていた方が生きるには楽というものです」

 そうは言われても、どうすれば身に付くものか見当もつかなかった。

「わざわざ案内を頼むこととかは、したたかさに入るんでしょうか」

「入りませんよ。ひとりで行けと言う方が無茶ですからね」

 かわされて、イリスは二の矢を考える。

「……この間ひとりで帰されたせいで散々な目に遭ったことの、埋め合わせはしてもらえるんですよね」

「その意気です」

 クルムは不敵に笑って歩き出す。その少し後ろに付いて、イリスも歩を進めた。

 自分も少しは成長しているのかしらと、イリスは思った。



 久方ぶりの煉瓦通りはえもいわれぬ香りに満ちていた。香辛料の熱い匂い、竹細工の芳しさ、武具や農具の鉄臭さ、脂の焦げる匂い。ありとあらゆる地方から集まった物産が我も我もと名乗りを上げ、一度に主張することで市場独特の香りを醸成していた。

 匂いだけではない。あちらには反物が翻り、こちらには色とりどりの果実が並べられている。行き交う人々の装束も、肌の色も、髪の色も様々だ。少し視線を泳がすだけで色彩はめくるめく変わる。ひと時もそのままではいられない、街民の移り気な性を表しているようだった。さらには、耳に入る言葉でさえひとつではない。イリスが理解できるのは交易語と呼ばれる、各地の言葉を雑多にかいつまんでできた共通語だけだ。それも人によって訛りは違い、ろくに聞き取れはしなかった。

「そんなに見回して、迷子になっても知らないわよ」

 くすくす笑いながら、リトが言った。珍しく化粧をしたその面立ちは、はっとするほど綺麗だった。普段のリトも可愛らしいが、目鼻立ちがくっきりしたことでいっそう生来の妖しさが引き立つように見えた。大人の魅惑と、幼さゆえのとらえどころのなさを兼ね備えた、幻想的な風貌。いっそリトについていく方が、どことも知らぬ場所へ誘われ、迷子になってしまいそうな気がした。

「ちゃんと案内してくれるんでしょう? 大丈夫よ」

「任せなさい」

 リトは芝居がかった仕草で、片目をつぶってみせる。

 シャムリに同行の旨を伝えた後、旅の準備として買い出しに来ているイリスだった。どんな裏技かリトも二日目の休みを取ったらしく、案内を引き受けてくれた。

「その代わり、もし何かあったら守ってもらうんだから」

 イリスはうなずいて、服の下に吊り下げた指輪を確かめた。この間のようなことがあってはいけないので、クルムに頼んで持ち出しを許してもらった触媒だ。ただし、炎の導術は物騒に過ぎるうえ、火事を起こしては洒落にならないので、持ってきたのは藍の指輪だけだった。

「でも、あんまり思い詰めても駄目よ。今日くらい楽しんでもらわなきゃ。どこか行きたいところはあるかしら」

 訊かれて、イリスは首をひねる。改めて、街のことは何も知らないと気付かされた。侍女舎で一ヶ月、砦の離れで三ヶ月。引きこもってばかりで外の世界はまるで知らない。侍女舎を離れる時も同じことを考えたと思い出して、苦笑するしかなかった。

「任せてもいいかしら。何か思いつくほど街のことを知らないわ」

「もちろん」

 リトは上機嫌で言う。そのままイリスの手を取って、街へ繰り出していった。

 旅の準備とは言っても、糧食や飲み水、衣服といった必需品はまとめて管理するし、治療具や導術に必要な触媒もクルムや他の医術師が管轄しているから、イリス個人で用意すべきものは少なかった。今日の主な目的は遊ぶことだ。

 早速、リトは先輩に訊いたという焼き菓子の露店を見つけた。店構えが質素な割に売っている菓子は上等らしく、通りがかるだけで蜂蜜の香りが鼻をくすぐった。

「お金、どうする?」

 値段を見ながらイリスが訊いた。見習いながらも、クルムの他にはいない導術師として働き始めたイリスは、侍女がもらう小遣いの倍では済まない給金を受け取るようになっていた。もっとも使う気がまるでなく、今日初めて存在を知ったくらいだが。

「遠慮しときたいところだけど、それでイリスが我慢するのも違うわよねえ……」

 申し訳なさそうなリトに、イリスは言った。

「気にしないで。わたしも使いあぐねていたお金だもの。それに、ほとんどビートリッシュさんのおかげで受け取っているんだし、あの人のお金だと思ってくれていいわ」

「あら、そんなことを言うと死ぬまで使い倒すわよ?」

 あっけからんとした笑みのリトには、冗談で済まない凄味があった。

「……いったいどういう間柄なのよ、あなたたち」

 口端をひくつかせながら言って、イリスは代金を支払った。人のあしらい方ではクルムが上手のようだから、それくらい押さないと取り合ってくれないということだろうか。

 油紙に包まれた焼き菓子はほんのり蓮華の香りがした。かじりつくと折り重なった生地がぱりぱりと崩れ、水気の抜けた果実が顔を出す。蜂蜜に漬かったそれを噛んだ途端、上品で芳醇な甘みが口に広がった。

「……おいしい」

 それ以外に言うべきことが思いつかなかった。リトも顔をほころばせ、満足げにうなっている。並んで歩きながら、言葉も忘れて無心にほおばっていた。

 そうこうしているうちに、開けた場所に出た。煉瓦通りの中ほど、ミルナシアの中心に位置する大広場だ。そこには真っ白な塔がそびえ、ちょうど正午を知らせる鐘を鳴らしているところだった。塔を囲むように円形の花壇があって、街の名になっているミルナの花が咲き乱れている。真っ白で可憐な小ぶりの花はこの地に水脈を見出す手掛かりとなり、街が興るきっかけを作った。そのことから、街の民からは希望と始まりの象徴として愛されており、市章や街の名を飾っているそうだ。あまり思い出したくないが、自警団の印に使われていたのも、このミルナという花だった。

「この塔と花壇は街の象徴よ。市政に関わる会議はここで行われるし、お触れが出るのもここ。稀にお偉方の結婚式が挙がることもあって、街の人間として最高の栄誉だそうよ」

「会議が、ここで? そんなに広そうに見えないけど……」

 塔は小さな扉こそついているものの、長細くてとても部屋があるようには見えない。

「違うわ。外でやるのよ。市政を決める会議は必ず衆目の下でやると決められているの」

「それ、収集付くのかしら」

「商人の力が強いからでしょうね。野次の中で貴族の人はろくに主張もできないって。まだ見たことはないけれど、競りにも似た熱気があるらしいわ。最近は頭領も出席しているから、いくらか静かになったと言うけど」

 シャムリが話し合いの場に席を連ねている状況を思い浮かべて、イリスはもっともだと思った。あの肉体の放つ威圧感はどんな言葉にも勝るだろう。それでいて、シャムリはただ武術に長けるだけではなく、クルムの言によると相当な切れ者らしい。街の趨勢を左右していてもおかしくないと思った。

「まあ、あたしたちには無縁のことね。竜狩りギルドはかなり街から独立した営みを送っているし」

 話しながら、二人は塔を回り込むようにして広場を巡った。人通りは多く、小綺麗な商館の前にはいくつも荷馬車が止まっている。道の端には、祭りでもないのにずらりと露店が並んでいて、菓子や炙った肉の類を売っている。さっき寄った店もそうだが、気軽に立ち寄れる店でやたら上等なものを売っているあたり、この街がいかに富んでいるかがわかる。倹約を旨とする侍女舎でこそ肉は月に二度食べられればいい方だが、よその街ではそれが普通のことだとクルムは話していた。そのうえ、ミルナシアの周りには獣肉の採れる森はほとんどない。

 竜が売れるからだろうか。イリスは考えた。

「見て」

 リトの呼ぶ声で、イリスは我に返った。指さす方を見やると、花壇に近い場所で人だかりができているのがわかった。

「行ってみましょう」

 手を引かれるままについていくと、すぐにその理由がわかった。緩やかに響き渡る胡弓の音と、それに添うような歌声が聞こえてくる。

 ゆったりと落ち着いた旋律は気ままに宙を漂い、思い出したように耳へと滑り込んでくる。歌声もまた言葉にならないほど間延びしていたが、折に触れて心の弦を弾いていく奔放さが感じられた。

(これ、古神話の内容だわ)

 クルムの手記にあった物語。とりとめもない話が並ぶ中で、ひときわ異彩を放つもの。

 『落陽の刻』の逸話。描かれるのは壮絶な滅びだった。神々のおわします天と、人々の営む地の絆が失われる瞬間。天の象徴たる太陽が地に落ちて、あらゆる生を焼き尽くし、灰燼に帰した日のこと。当時は隆盛を誇った竜も虐殺の憂き目に遭い、伝説に生きる存在となってしまったという。古神話の語られるところ必ず登場するこの物語は、その派手さと悲愴さもあって、よく吟遊の題材になっているようだ。

 しかし楽人が歌い上げるそれは、まるで悲哀とは無縁だった。弦の赴くまま、声の向くままにただ訥々と紡がれる音色はどこまでも澄んでいて、森深くの清水に浮かんだまま流されていくような気持ちにさせられる。イリスは目を閉じて、さざめき交わす音の波に身をゆだねた。聞いたこともないはずなのに、どこか懐かしさを感じる。

 空気に溶け入りそうなか細い音を最後に演奏が途絶えても、歌が終わったと気が付くのにしばらくかかった。周りの人もそうだったようで、余韻に浸るように静かに立ち尽くしている者がほとんどだ。この静謐こそ、どんな賞賛よりも演奏の素晴らしさを物語っていると思った。

「吸い込まれそうな演奏だったわね。あんなに上手なのは初めて聞いたわ」

 リトも同じことを考えているのか、小さな声で耳打ちをした。イリスは心底同意して、聴衆がお金を渡しているのに気が付くと、それに倣った。物静かな楽人は柔和な笑みを浮かべて、ひとりひとりにお礼を言っている。こちらもリトと並んで礼を言って、その場を後にした。

 大広場を抜けながら、リトが言う。

「さて、いい加減買い物に行きましょうか」

「そうね。あんまり楽しいから忘れちゃうところだったわ」

「あら、そのまま竜狩りのことも忘れてくれると嬉しいんだけど」

 とびきりの愛嬌で、こういう皮肉を冗談にしてしまえるのがリトだった。イリスは微笑んで、リトの手を強く握った。

 楽しいのは本心だった。いつまでもこうしていたいとも思った。

(竜狩りに行かない選択をしていたなら、こういう日々が送れたのかしら)

 リトに手を引かれながら、そんなことを考えてしまうイリスだった。



 砦の門まで登って来た時には、ほとんど日も暮れかかっていた。買い物を済ませた後もさんざんに遊び倒して、それから延々と坂を登ったというのに不思議と疲れはなく、高揚感が体を支えているのを感じた。ここまでついて来たリトも元気そのもので、袖を揺らしてはしゃいでいる。侍女舎まで送ると言ったのを断ってここまで来たところをみると、今日はクルムのところへ泊っていくつもりなのだろう。

「今日はいっぱい遊んだわね」

 リトが夕映えを背にすると、とび色の髪が空に溶け込んで、硝子のように透き通って見えた。朱色と桃色を重ねた装いも黄昏の色彩によく合って、昼夜の境に現れる精霊ならこんな姿をしているだろうかと思った。

「ええ。楽しかったわ。ありがとう」

 言うと、微笑みが返ってきた。リトが街を見下ろすので、イリスも視線を下向ける。

「この、夕焼けに沈む街が好きなの」

「診療室に泊まれる日だから?」

 イリスも、リトの得意な冗談をいくらか覚えていた。リトはにやりと笑って、言った。

「ええ。この景色を見ながら、どうたぶらかすか考えるの。でも、それだけじゃないわ」

 その横顔には、普段は巧妙に隠されている無垢な少女らしさが覗いていた。夕焼けは人を感傷的にする。イリスはそれを初めて知った。

「真紅に色づいて、ミルナシア全体が燃え上がっているように見えるの。もちろん、本当に燃える街を見たいわけじゃないわ。あそこは何もかもが熱気を纏っていて、今を生きているの。炎に過去はなく、未来を気にすることもない。ただ手当たり次第に燃え広がるだけよ。でも、あの街の燃材、お金と人が尽きることはない。必ず燃え続ける。毎日のように夕日を浴びるのと同じくらい、それが当たり前のことなの」

 リトが何を言わんとしているのか、みなまではわからなかった。けれど、一日中街を巡ったことで、その片鱗はわかるようになった気がした。

「そして、炎はいつだって同じ炎のようでいて、ひとときも留まることがない」

 どこか毅然とした態度で、リトは言った。悲しそうだ。なぜかはわからないが、漠然とそう思った。

 リトは自身の髪に手をかけて、銀の髪留めを抜き取った。砂を巻き上げて吹き付けた風が、切りそろえた髪の端をさらった。

「預けておくわ」

 言って、こちらに差し出した。鳥の羽をかたどった銀の髪留めは、外でも部屋でもリトが決まって付けているものだ。改めて見ると、羽毛の一本まで丁寧に彫り込まれており、涙のように透明な輝きがよくよく手入れされていることを示していた。

「……お母さんの形見って聞いたけれど」

「だから返してもらうのよ。イリスには似合わないもの」

 イリスも同感だった。銀の髪に銀の飾りはふさわしくない。これはリトが付けているべきものだった。だからこそ、イリスは無下にせずに受け取った。

「大切に預かるわ。必ず返す。……必ず、帰って来るから」

 約束して、長衣の襟へ慎重につける。自分の髪へ付けるのはためらわれた。

「きっとよ」

 リトはうつむいて、倒れ掛かるように抱き着いてきた。袖に詰められた花々の甘い匂いがふっと香る。その儚さが切なかった。

 イリスは線の細い体を抱き返しながら、リトと過ごした日々のことを思った。少女の温もりに触れていると、それは今ここにあるかと思うほど鮮やかに蘇る。悪夢の他にもまっさらな心に刻まれた記憶があるとわかって、ささくれた心が鎮まっていくのを感じた。

「もうひとつだけ、お願いがあるの」

 耳のそばでリトがささやいた。耳朶をくすぐるそよ風のような、本当に小さな声。普段なら聞くことのない響きは少しもてらいがなくて、そのためにイリスはどきりとした。リトの顔は見えない。息づかいだけが肌にはっきりと感じられた。

「怪物には、ならないでね。何があっても。きっとあなたは苦しむはずだから」

 狐につままれた気分だった。イリスが戸惑っているのを察したようで、リトは静かに笑った。いつものリトに戻りつつあった。

「わからないでしょうね。でも、覚えておいて。忘れないでいて。お願い」

 イリスはゆっくりとうなずいた。それきりリトは何も言わず、腕をほどいた。

「行きましょうか」

 リトが手を差し伸べてくる。イリスはいつも手を引かれる側だった。意地になって前を歩くと、リトは悪戯っぽい笑みを浮かべて、従った。

 夕焼けの見られる時間は短い。燃えるような朱色はあっという間に鳴りを潜めて、灯りのない闇が二人を取り巻こうとしていた。華奢な手の温もりを確かめるように握り直し、巨大な門をくぐる。

「今のうちに、言っておくわ。行ってらっしゃい」

 平たい声でリトが言った。イリスも、つとめて平たい声で返した。

「行ってきます」

 泣きそうなことくらい、リトには見透かされているはずだった。



 出立の日はあっという間にやって来た。目的地が近い分、準備時間が短かったらしい。

 慌てて侍女舎に行って挨拶をし、改めてリトとも別れを済ませてきた。銀の髪留めを預かった分、なにかお返しをしようかとも思ったが、やめた。新たな形見を用意しているようで縁起が悪い。無事に帰ってくることが何にも勝るお返しになるはずだと思った。

 目を覚ますなり、ギルドの砦は大わらわだった。あちこちで牛馬の足音がし、それが尽きることなく続いている。幌付きの荷馬車には大量の糧食、薄めた酒、衣服や武具の類、医薬品、そして竜を運ぶための鎖やら金具やらが所狭しと積まれており、戦争に赴く軍隊と何ら遜色がないのではと思った。いや、事実、竜狩りは普通の狩りとはまるで違う。人間という種族が竜という伝説に挑戦する、まさしく戦争そのものだった。

 イリスは、クルムと共に荷馬車へ乗り込んだ。そこには治療具や折り畳み式の寝台が積み込まれ、竜狩りにおいては重傷者の手当を行う簡易診療所となる。もちろん、クルムの他にもたくさんの医術師がいて、合同で天幕を張り、怪我人を受け入れることになっている。しかしクルムは導術の心得を買われて、後方の支援部隊ではなく前線の主力部隊に配されていた。もちろん、竜の姿を見に参加するイリスも前線組だ。

「さて、イリスさんが来たことで私も危険を冒さねばならなくなったわけですが」

 笑顔でそんなことを言うあたり、リトによく似ていると思った。備品を点検しているクルムは冗談を言いながらも、目だけは異様に鋭い。ちょっとしたことが命に関わる。竜狩りギルドの医術師はそういう仕事なのだ。手伝う可能性のある身として、肝に銘じておこうと思った。

「もしもの時はかばってくれると?」

 リトならどう返すのだろうと考えて、言った。及第点も怪しいかしらと思った。

「まさか。そんなことをすればリトに殺されますよ。その前に死んでいるでしょうけど」

 竜の一撃は紛れもない死を意味している。クルムの使う導術は確かに傷の治癒を早めることができるが、人を死から引き戻す力はなかった。

「無理でしょうね。死人を生き返らせるのは」

 試しに訊いてみると、クルムの返答は予想通りのものだった。しかし、それにはまだ続きがあった。

「ただ、まったく可能性がないわけでもありません。……竜の心臓です。竜は驚異的な生命力、再生能力を持っていますが、その源は心臓にあることがわかっています。心臓を触媒として導術をうまく使えば、蘇生を試みることはできるかもしれませんね」

 まあ与太話ですが、と最後に付け加える。それでもイリスは面白い話だと思った。

「竜は、それほどしぶといんですか?」

「説明するのは難しいです。見ればわかりますよ」

 クルムは苦笑いをする。確かに夢に出る竜だって、うまく形容できる自信がない。実際、リトやクルムにもあまり詳しくは話していなかった。

 じきに点検は導術の品に移り、イリスも手伝うことになった。とはいっても触媒は貴重で数も少なく、確認することはほとんどなかった。

「終わりましたね。ありがとうございます。忘れ物はないようです」

 言って、クルムは報告のために出て、すぐに戻ってきた。ほどなくして荷馬車の隊列が動き始める。ぞろぞろと隊列を組んで、砦の建つ丘を下っていった。

 荷台の端へ腰かけ、幌をめくりながら外を眺める。連綿と続く牛馬の群れは壮観の一言に尽きた。砦へ続く煉瓦道の荒涼とした雰囲気はどこへやら、土と獣の匂いが立ち込め、荷馬車の車輪が絶え間なく鳴き声を上げている。イリスが乗る荷馬車も揺れが酷かった。クルムはここ数日というもの薬品類を丁寧に梱包していたが、そのわけがわかった。

「この辺りは煉瓦道ですからね。街道に出ればもう少しましになりますよ」

 苦笑しながら、クルムが言う。

「……未だにこの揺れは苦手でしてね」

 そうこぼすクルムはいくらか消沈しているように見えた。クルムにも弱みがあるのかと少し意外だったが、さすがに体力では武人に敵わないだろう思い直した。もちろん、自分も自信がないので、体調には気を付けようと考える。

「道中も大変なんでしょうか」

「今回は短いはずなのでたいしたことはないと思います。ただ、硬い寝台で寝ることは覚悟してください。あとは時々体を動かした方がいいでしょう」

 武人の方々は、道中でも無理のない範囲で鍛錬に励むという。その間にクルムも軽く体操をするそうだ。

「竜との遭遇まで二週間、と言っていましたっけ」

「斥候からの情報を聞く限り、一週間ほどでしょうね。我々が準備をしている間、少しずつこちらへ移動してきているようです。何か目的があるのでは、と目されていますが」

 竜が、目的を持って移動する。そもそも竜について知るところの少ないイリスには、雲をつかむような話だった。

「今までにもそんなことが?」

「ありません。これほどギルドの近くに現れること、竜狩りから一年も経たずに別の竜が見つかること、竜が何か意図を持って行動しているらしいこと。何もかもが初めてです。今回の竜狩りには、いつも以上に慎重に臨まねばならないでしょう。私にできることは限られていますが」

 クルムは表情を引き締める。イリスも自然と背筋を伸ばした。

「クルムさんから見て、竜はどんな生き物ですか」

 昨晩も見た竜の幻影を思い浮かべながら、イリスは訊いた。夢の輪郭はいつまでも揺らぐことはなく、むしろ日に日にはっきりしていくようにさえ感じた。きっと現実の竜に相対するその日まで、悪夢に囚われる日々は続くのだろうと思った。

「語り尽くすのは、難しいですが」

 考え込んでから、クルムは続けた。

「とかく強大で、謎に満ちた存在です。生き物と形容することすらおこがましいと感じるほどです。ある竜は嵐を呼び起こし、ある竜は木々を凍てつかせ、ある竜は原野を焼き払います。それだけの力を宿しながら、食事と睡眠の一切を必要とせず、特定の棲み処も持ちません。人間と遜色ない知性を有し、無益な戦いは好みませんが、自身に仇なす者には容赦の二文字を知りません」

 烈火のごとき憤怒を振りまく影。夢に現れる竜は、やはり幻影なのだろうと思った。その姿に欠片の思慮も感じたことはない。あるのは混沌とした激情の塊だけだ。闇に濁ったその瞳を思い出して、イリスは身震いをした。

「生まれ育つ環境、過程、存在している理由、超常的な力の由来、体の仕組み。竜についてはわからないことだらけです。姿かたちも様々で、翼の数、体色、導術と考えられる力の種類、角や毛の有無、牙や爪の形状など、ただ一組とて似た竜はいません。便宜的に飛龍や獣竜といった呼び分けをしますが、正確な分類とは言えないでしょう」

「似た竜は、いない……?」

 その言葉が強烈に引っ掛かった。竜はどれも似たような姿をしているものだと思っていた。そのわけを考えると、すぐに思い当たった。

「……わたしは、毎晩のように竜の悪夢を見るのですが」

 夢で見る竜の姿は、変わることがあっただろうか。同じだ。イリスは断言することができた。記憶の空白を過ぎてから、竜の死骸をこの目で見る前から、ずっと同じ竜に深夜の安寧を脅かされている。

「間違いありません。直前の竜狩りで持ち帰った竜の死骸は、わたしが夢に見ていた竜と瓜二つでした。死骸を見る前からうなされていた夢です」

 荷台の揺れが強くなってきた。腰掛けて宙ぶらりんになった足元が、急速に拠り所を失っていく気がした。驚愕に固まったクルムの顔が、同時に面のような無表情に見える。牛馬の汗がむうっと香り、騒音が覆い被さってくる。世界が自分を遠ざける圧力を感じた。

「わたしは、どうして同じ竜の姿を夢に見たのでしょうか」

 答える声はない。竜の幻影が、耳元でせせら笑うのが聞こえる気がした。

 竜狩りの旅は、始まったばかりだった。

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