汗ばんだ手が、イリス=ヒューペリアを夢から連れ戻した。

 自分の髪が、何か別の生き物のように額に張り付いていた。浅い呼気、鈍い頭痛を感じて、それに遅れることしばし、朝餉の香りが鼻をくすぐった。

「落ち着いた?」

 我に返って、炉端に座っていると気が付いた。歪んで見えた木枠が四角に収まるまでずっと、リトの体温が染みてくるようだった。

「……うん、ありがとう」

 傍らの少女、リト=カッシュは水晶の色した目を細くして、優しい笑みを返した。短く切りそろえたとび色の髪に、鳥の羽をかたどった銀の髪飾りをつけている。友が寄り添う日常へ帰ってきたことに安堵して、イリスはそっと手を握り返した。

 囲炉裏に集う他の侍女たちも心配そうではあるものの、朗らかな朝に似つかわしい穏やかな表情をしている。詮索することなく、ただ優しく包み込む。見えない傷の癒し方を彼女らは心得ていて、今のイリスにはそれがありがたい。

 ほぼ全員が孤児として生まれ、貧民街から拾われた身であるこの侍女舎では、忌まわしい過去に心を痛める者は少なくない。

 しかし、イリスはいささか事情が違った。街の往来で行き倒れていたイリスは、拾われてからというもの、名前の他は一切の記憶を失くしてしまっている。そして時折、ふとしたきっかけで竜の悪夢にうなされた。照り返す金属、たなびく煙、あるいは石畳の隙間に根ざした若草さえも竜の幻を呼び起こし、イリスを前後不覚に陥れる。イリスに過去はなく、忌むべきは臆病な自分自身だった。

 今しがた自分を幻へといざなった、囲炉裏の火影を見やる。ちろちろと鍋の底をなめる橙の炎は可愛げすらあって、灼熱の業火とは似ても似つかない。もちろん、火を見ればいつでも幻覚に襲われるわけではないし、そこに地獄の幻影を見出すわけは、イリス自身にもわからない。

 と、鍋でゆだっている物に気が付いて、イリスは目を見張った。

「どうしたの、朝からこんな豪華な」

 侍女舎での朝餉と言えば、干し飯と菜っ葉を浮かべた汁物がせいぜいだった。それが、今日の鍋には根菜がごろごろしていて、はじける泡からは甘い脂の匂いが漂ってくる。さらには香草で落し蓋をして、今まさに塩の効いた味噌を溶かしているところだ。

 先輩の侍女が、得意げに笑った。

「鹿肉の香り鍋よ。侍女舎では一番の贅沢だけれど、これ以上の祝い事はないもの。……竜狩りの武人たちが、ひとりも欠かさず帰ってくるの!」

 おおっ、とどよめきが上がった。イリスも流石に目が覚めた。竜狩りギルドの侍女たちにとって、確かにもっとも喜ばしいことに違いない。

 竜。数々の伝承に現れ、火を吐き雷を降らす超常的な存在として描かれるそれを、現実のものと思っている人間は少ない。ただ、それはこの街、ミルナシアの外でのことだ。

 強大な竜を探し、打ち倒し、その素材を商う組織。天下に二つとない竜専門の狩人集団は、武人はもちろん侍女や医術師、鍛冶をも擁する巨大さから、本来は職工や商人の寄合であるところのギルドの名を冠している。ミルナシアで竜狩りギルドの名を知らない者はなく、彼らが持ち帰る竜の死骸は、すべからく住人の語り草になる。

「本当に、どなたも亡くならなかったの?」

「うわさならともかく、先遣隊の言だそうよ」

「街が誇る偉丈夫たちだもの」

「あらあら、旦那の自慢かしらね」

 そんな調子で、普段はしとやかな先輩方も上へ下への大騒ぎだった。妹背の契りを結んだ相手が帰ってくる人もいて、感激はひとしおとみえる。もっとも、二十代の先輩方に比べて、未だ十四のイリスにはぴんとこない話だが。

「はいはい、静粛に。お出迎えは明日に迫っているわ。葬儀が飛ばされる分、宴の準備時間は少ないわよ。忙しくなることを覚悟なさい。そのためにも、今は……」

 言葉を切って、頼もしい笑みを浮かべる。

「英気を養わないとね」

 その言葉を皮切りに、侍女たちは我先にと木椀に具をよそっていく。武人たちが凱旋する前、ささやかな前祝いの始まりだった。

「はい、イリス」

「それくらい自分で……熱っ!」

 押し付けられた木椀で火傷しそうになって、慌てて足元に置く。とび色の髪を揺らして、リトがくっくと笑った。

「熱いのは苦手じゃない。よく冷ましてから食べるのよ」

「……言われなくてもわかってるわよ」

 頬をふくらしてから、そっと木椀を持ち上げる。ふうふう吹くと、えも言われぬ味噌の香りが満ちていくのを感じた。ギルドに侍女として拾われてから一ヶ月、間違いなく一番のごちそうだ。

 イリスがまどろむ間にじっくり煮込んでいたようで、根菜はほろろと崩れ、舌にほのかな甘みを残していく。あらかじめ灰にうずめておいたという鹿肉は旨味が濃く、味噌の塩気や辛みと相まって、体を芯から温めるおいしさだった。しばし皆が言葉を忘れ、奇妙な静寂が訪れるも、それに気づく者もまたいない、不思議な空白だった。

 食べ終わると一転、途端に皆が饒舌になる。

「どなたにお声をかけるか、決めた人はいるの?」

「そんな聞き方ってないわ。先にお近づきになろうったって、そうはいかないわよ」

「違うってば。私だって諍いは嫌だもの」

「どうだか」

 イリスの周り、同年代の少女たちは武人の話で持ちきりだ。いずれ彼女らと添い遂げるであろう武人たちは、侍女の間で最大の関心事だった。特に、十七を超えて武人舎で働く一人前の侍女たちはともかく、侍女舎で先輩に家事や勉強を教わる幼い侍女たちは、武人を目にする機会が少なかった。

「さぞかし格好いいんでしょうね」

「私なんかが目を向けてもらえるのかな」

「頭領のお顔も見てみたいわ」

「でも、もう五十過ぎと聞いたけど」

「単なる興味よ! わかるでしょう」

 侍女舎にはいくつかの棟に分かれていて、イリスの同僚は二十人ほど、そのうち七人が同年代の少女だった。ぴったり同い年は同室のリトだけで、他はみんな年上だ。弾む恋の話題にわずかな歳の差を感じながら、イリスは聞き手に回っていた。

「……殿方にも興味はあるけど、まず気にするべきはイリスのことじゃなくて?」

 いきなり話題が移って、イリスは目をしばたいた。わたし? と呆けた顔で問う。

「下手な謙遜はやめなさいよ? 私たちの中で一番の美人はあなただもの」

「そうだ、いくら私たちが言い寄ったって、隣にイリスがいたんじゃ敵わないわ」

「え、ええっと?」

 おどけた風ではあるものの、あながち冗談でもなさそうだ。イリスはすっかり困ってしまう。

「ねえ、イリスはどんな御方に興味があるの? 私たち、あなたの好みは避けなきゃ分が悪いわ」

「そんなこと言われても……わたし、恋愛なんて考えたこともないわ。自分のことで精いっぱいだもの」

 正直に話すと、胡乱げな視線をいっせいに浴びることになった。

「そうは言っても年頃の娘でしょう」

「一番乗りは譲ってあげるってことよ。物は試しでいいから、言ってごらんなさい」

 そう促されても、イリスは口を開くことができなかった。普段考えることといったら、竜の悪夢、侍女舎での雑務、何かと面倒を見てくれるリトへの感謝くらいなもので、話を振られた今でさえ、誰かと添う未来など想像だにできない。

 だが、それでは仲間が納得しない。途方にくれるイリスの横で、リトが口を挟んだ。

「あまりいじめちゃ駄目よ。イリスったら恥ずかしがり屋なんだもの」

 恥じらっているわけではないが、助け舟には素直に乗っておく。すると、矛先は代わってリトに向いた。

「そう言うリトはどうなのよ。リトから恋の話を聞いたことがないわ」

「え? みんな、とっくに承知していると思ったのに」

 言って、リトはにやりと笑う。侍女たちは色めき立って、口々に武人の名や、殿方の風貌、性格を言い合った。日がな一日一緒にいるイリスとしても、想い人がいる素振りなぞ見たことがなかったので、驚きを隠せなかった。

 同輩の推測全てに首を振って、リトは鷹揚に微笑んでいる。イリスと同じ年少ながら、時に誰よりも大人びた余裕を醸すのがこの少女だった。

「大はずれ。どうしてわからないのかしらね」

 唐突に首元を引っ張られて、イリスはたまらず倒れ込んだ。わけもわからず、頭上から降る声を聞く。

「こんなに可愛いイリスが近くにいるのに、他の人を想うことがあると思う?」

 とびきりの茶目っ気をこめて、リトはイリスの髪を撫でる。リトの悪戯っぽい笑みが、たちまち皆にも伝染した。

「ちょっと、リト!」

 助け舟なんてとんでもない。とんだ見世物だ。膝の上でもがくも、リトは逆に面白がって離してくれない。

「イリスはあたしが貰ってあげるんだから。皆は気にしなくていいのよ」

「リトったら!」

 そんなやりとりに仲間がひとしきり笑ってから、ようやくリトは放してくれた。イリスは顔を真っ赤にして、いよいよ黙り込む他になかった。いつも髪を梳いてくれる朝方に、今の手つきを思い出したらどうしようかと思った。

「かしましいとはこのことねえ」

 笑いながら、先輩が鍋を片付けに来た。手伝おうとするリトを手で制して、こちらに近づいてくる。

「いいこと、イリス」

 優しい声で諭すように、先輩は話し始めた。

「まだ新入りだもの、慌ただしいのはわかるわ。でも、私たちは未来に目を向けなくちゃいけないの。過去から目を背けろとは言わない。けれど、あなたが生きていくのは紛れもなく、ここ竜狩りギルドでの未来なのよ」

 顔を上げると、かがんだ先輩と目が合う。慈しむような表情だった。

「恋愛なんて、したいと思ってするものじゃないわ。でも人の情はきっと、あなたの傷を癒し、心を支えてくれるはずよ。それを覚えておきなさい」

 先輩はそう言うと、ぽんぽんと頭に手を置いて鍋を持っていった。イリスはほうっと息をついて、隣をちょっとにらむと、リトが片目をつむって応じた。

 自分の過去も未来も、イリスには皆目わからない。それでいて、助けてもらってばかりの現状も駄目だと思う。

(竜の幻に怯えるままでは、未来も何もあったものじゃないわ)

 片付けを始める間、銀の長髪を揺らしながら、イリスはそんなことを思った。



 ミルナシアの街並みを二分する煉瓦通りは、目にまぶしい赤茶色を延々と連ねていて、高くなりつつある日差しの下で燃え立つ炎のようだった。人いきれの中、汗や香の匂いにまかれた侍女たちは、めいめいに着飾って祭り情緒を楽しんでいた。

「あっちで餅菓子を売っているそうよ。行ってみる?」

 そう言うリトもまた、袖の大きく開いたよそ行きの衣を、茜の紐で締めている。母の形見だと言う銀の髪飾りが、この日はさらに華やいで見えた。

 イリスはうなずいて、手を引かれるまま付いていく。売り子の周りに侍女が何人かたむろって、菓子をほおばっていた。それなりに値が張ったのでイリスは買わず、リトもそれに倣った。

「部隊の到着までどれくらいか、知ってるかしら」

「もう少しだそうよ。これから見やすい場所まで移動しようと思って」

「見やすい場所?」

 聞いて、イリスはあたりを見渡す。遠方の物産を扱う商店が立ち並び、見物客でごった返す煉瓦通りは、とても見通しが悪かった。

「ギルドをひいきにしている商店が、屋上に上がらせてくれるそうなの。上からなら見やすいし、騒ぎになっても安心よ。よかったら一緒に行きましょう」

 断る理由のあるはずもなく、五人ほどの仲間に付いてぞろぞろと移動を始める。商店の主人に会釈をして、おっかなびっくり梯子を上った。

「いい眺めね」

 リトが言った。その通りだとイリスも思った。

 方々から文化が入ってくる貿易都市だけあって、建物の造りは様々だ。煉瓦の赤茶、漆喰の眩しい白、石造りの灰色。屋根の形も三角だったり、平らだったり、緩やかに弧を描いていたりする。椀を伏せたような形をしているものも見えた。

 雑多な寄せ集めのようでいて不思議と調和を感じるのは、乾いた風が人々の熱気を孕んでいるからだろうか。道を吹き抜けていくそれは血潮のようで、街全体に命の息吹を注ぎ込んでいるのがわかる。その血は、東西を行き交うあらゆる人々の血が混ざり合ってできていた。

「イリスは、まだちゃんと街を見たことがなかったわね」

「そうね、侍女舎にこもりっきりだったから。……綺麗、って言葉は似合わないけれど、力強くて暖かい感じがするわ。見ているこっちまで元気になってくるような」

「それはいいわ。イリスには元気になってもらわなきゃいけないもの」

 リトに聞き返そうとした時、喧噪の向こうから鐘の音が聞こえた。年季を感じさせるしわがれた響きは重々しく地を揺るがし、石の街を鳴動させた。

 侍女たちが、いっせいに音の方へ目を向ける。

「凱旋よ!」

「帰って来たんだわ!」

 イリスにも合点がいった。武人たちの到着を知らせる合図だ。そのまま鐘の鳴る方、街道へ至る大門を見やった。

 三階建ての商店からでも、街の向かいにある大門は見通せなかった。しかし、見物客の興奮が波となって街を駆け抜け、たちまちイリスらを包み込む。鐘の音に歓声が覆い被さり、熱気の塊となって押し寄せてきた。

 もちろん、武人を待ち望む侍女たちも平静ではいられない。身を乗り出して押し合いへし合いしながら、口々に騒いでいる。

「見える?」

「そんなわけないでしょう。慌てすぎよ」

「でも、あれはギルドの旗じゃない?」

 目を凝らすと、確かに旗印が見えた。描かれた模様まではわからないが、おそらく槍に貫かれる竜をかたどった、竜狩りギルドの紋章だろう。

 ほどなくして、騎馬の行列が現れた。

 一糸乱れぬ歩調の武人らは短槍を携え、背を覆う若草色の長衣には、旗と同じ紋章が染め抜かれている。むき出しの腕は誰彼も隆々としていて、重い槍を振るうための鍛錬がうかがえた。リトによると、『竜槍』と呼ばれるその武器は、どんな金属より硬くて重いという、竜鱗を穂先にしているらしい。

「お疲れさま!」

「お帰りなさーい!」

「おめでとう!」

 手を振りながら黄色い声を上げる仲間の中で、イリスは自分でも不思議なほど冷静でいた。確かに狩人の行軍は壮観そのものだし、齢二十から三十ほどの彼らは誰もが精悍な顔つきをして、威風堂々、誇り高い英傑としての覇気を漂わせている。ギルドのうら若い乙女が胸を躍らせるのはもちろん、野次馬さえも熱狂ぶりはすさまじい。

 しかし、イリスはその熱気に混ざれないでいる。格好いいとは思うが、武人の姿にまったく興味をそそられなかったのだ。

「どうしたの、イリス」

 自分の感覚に戸惑っていると、リトが声をかけてきた。イリスは小声で言った。

「……なんだか、冷めちゃって。こんなこと言ったら怒られるかしら」

「大きな声で言うことじゃないわね」

 リトはにやりと笑った。それで冷めている側の人間だとわかった。

「リトも? どうして?」

「あたしには心に決めた人がいるもの。イリスこそどうなのよ」

 冗談めかした口調に昨日のやり取りを思い出して、苦笑する。

「逆よ。自分でもびっくりするくらい興味が湧かなくて……まだ子供なのかしら。お祭りみたいな雰囲気は楽しいんだけど、ぼんやり行進を見ていても退屈で」

「まあ、儀式めいているわよね。ある意味、ギルドの宣伝の場であることに違いはないもの。竜をも倒す狩人たちの雄姿、とくと照覧あれ、って。真面目で実直な印象を持ってもらいたいんでしょう」

 と、宣伝という言葉を聞いて思い当たることがあった。

「そういえば、倒した竜はどうしているの? 宣伝をするなら見せない手はないと思うのだけれど」

「そうね、引き連れて凱旋するはずだけれど……見えないわ。それに、武人の御方も数が少ないような気がする」

 見回すリトも不思議がっている様子だ。もっとも、他の侍女や野次馬たちはそんなことお構いなしに声援を張り上げているのだが。

「うーん、竜が大きすぎて煉瓦通りを通れないのかしらね。迂回しているのかも」

「通れないって、ここを?」

 イリスはいぶかしむ。人でごった返しているとはいえ、貿易都市ミルナシアの名は伊達ではなく、一番の大通りである煉瓦通りは、荷馬車が四、五台はゆうにすれ違えるだけの広さがある。そこを通り抜けられないとなると、尋常な体躯ではないはずだ。

「過去に一度だけ、そんなことがあったと聞いたわ。……その時は、かなり大勢の人死にが出て、竜の遺骸を持ち帰ってくるだけで精いっぱいだったそうよ」

 目の前に紅蓮の翼がよぎって見えた。固く目をつぶると幸いに幻影は薄らいで、早鐘のようになった鼓動だけが残された。

「今回の犠牲者なしって話は本当なんでしょう? 心配することはないわ」

「それもそうね。大きいから強いというものでもないらしいし」

「でも、本当にこの道を通れないくらいに大きいなら、迫力がありそうね」

 イリスの言葉に、リトもうなずいた。

「そうよ。あたしもまだ見たことがないけれど、生き物とは思えないくらい巨大で、壮麗な姿だって評判よ。それに、鱗の輝きは宝石と比べても遜色ないほど美しいと言うし。ねえ、イリスさえ良ければ見にいかない?」

「竜を、見に?」

 その誘いは、イリスには思いもよらぬことだった。竜は恐怖の権化に他ならず、見にいこうとは微塵も考えなかった。

(でも、わたしが怖がっているのはただの幻だわ)

 本物が同じ姿とは限らない。リトは美しい姿だと言っているし、楽しみにしているようだから、勇気を出して行ってみる価値はあると思った。

「そうね。でも、どこへ行けば見られるの?」

 思案気なリトは自分の頬を指でなぞって、言った。

「ギルドの砦は大門と反対側、市壁を出た裏手の丘にあるの。煉瓦通りが駄目なら街中を通るのは無理だわ。市壁に沿って街を迂回して、砦に直行すると思う。街の裏門で待てば間違いないでしょうね。ここからも近いことだし」

(怖いけど、リトがそう言うなら見てみようかしら)

 あわよくば、悪夢への恐怖が薄らぐかもしれない。イリスは答える。

「わかった。行きましょう」

「ありがとう。助かったわ。一人で出歩くなって言われているし……」

 武人にお熱な同僚たちを流し見て、リトは肩をすくめた。

「梃でも動かなさそうだものね。二人で行きましょうか」

 先に戻っていると念のため仲間に伝えてから、イリスとリトは連れだって街の裏手へ歩き出す。往来にもまれながら、イリスは詰めていた息をそっと手に落とした。



 イリスとリトは守衛の立たない裏門を通り抜けて、ギルドの砦へと続く坂道を臨んでいた。丘の黒々しい岩肌を縫うように続く煉瓦道はさながら溶岩のごとく、その頂点に位置する砦が街を睥睨している。いずれ凱旋部隊が通るはずのここも、街中ほどではないが野次馬が集まって騒々しかった。

「本当に、街からは離れて建っているのね」

 鉄と木を組んだ砦を見て、イリスが言った。

「街中には場所が取れなかったんでしょうね。武人の御方が訓練をしたり、竜の解体をしたりするには広くないと」

「武人の御方はあそこに住んでいるの?」

「そうよ。頭領をはじめとした武人と、あたしたちの先輩が住んでいるの。買い出しは侍女の仕事だから、男の人が街まで降りてくることは滅多にない……」

 瞬間、遠雷のような音が言葉尻をかき消した。

「……何、この音」

 イリスが訊く。断続的に聞こえる重低音は次第に大きくなり、道の白い砂粒がせわしく揺れ始めた。

「竜が来たのよ、きっと」

 リトが市壁の向こうを見やる。ちょうど、そこから砂煙が昇るのが見えた。

 地響きのように重い金属音は、鋼の鳴き声と呼ぶにふさわしい。頭に響くけたたましい慟哭は石壁さえ噛み千切ってしまいそうで、たちまち野次馬の喧噪を遠ざける。ただ運ぶだけで、これだけの轟音。荷である竜の巨大さは想像もつかなかった。

 砂煙に紛れて、うごめく牛馬の群れに繋がれた、丸太のように太い鎖が無数に宙を舞うのが見えた。しなり、こすれ、打ち合う鎖から雷鳴が飛び、イリスは耳を覆う。傍らのリトの声さえ届かず、呑んだ息からは音が伝って胸の内で暴れまわった。全てが音に支配されて、天地の別がなくなっていく感覚。

(……竜だ)

 心臓が跳ねるのを感じた。血が一瞬だけ流れを止めた。脂汗がにじみ、寒気が背中をぞろりと這い上がった。ただの死骸だと自分に言い聞かせて、そうしなければならない自分の恐怖がすこぶる恨めしかった。

 毒々しい紅蓮の輝きがあった。それに魅入られたイリスは、辺りに漂う火の粉さえ幻視した。人の温もりだけ抜け落ちた熱風が汗ばんだ肌を乾かしていく。悪夢が現実にとって代わるのではない。今ここにある現実が、すべからくあの悪夢に近づいていく気がした。

 山のような巨躯、しなやかな尾、薄手の翼、隆々とした後脚。幾台もの鉄車に乗せられて、鎖でがんじがらめに縛られた竜は、まるっきり悪夢から抜き出してきたそのままの姿でイリスの眼前にあった。極めつけは、片側が融けて歪んだ相貌。頭は鳥のくちばしにも似た流線型をして、そこから突き出た牙は白銀にきらめき、他のどの生き物にも似つかわしくない神々しさを秘めていた。死してなおその威迫は甚だしく、他を圧倒する火炎のごとき気配は、イリスだけが感じるものではないはずだった。

 そして、近づいてくる竜の遺骸に、イリスは混沌を見た。

 その眼窩は、まさしく夢幻の中と同じに闇を宿していた。この世全ての邪を集めたゆえに、この世ならぬ尊さを醸すその虚無へ、イリスは一息に飲み込まれる。

 頭の中が真っ白に焼き付いていた。もはや何も目に映るものはなく、ただ逃げなければ、とだけ思った。大地のずっとずっと深くで、何かがぴしりと音を立てる。

 それから先は覚えていない。



「待ってったら、イリス」

 我に返ってリトの声を聞いた時には、見知らぬ路地へと踏み込んでいた。どっと疲れが湧いてきて、イリスは倒れるように建物に寄り掛かった。

 よほどがむしゃらに走ってきたらしい。リトも息を切らして膝を折り、にじむ汗をぬぐっている。はっとなって、イリスは辺りを見回した。

 うらぶれた路地に石畳のあるはずもなく、地面は土がむき出しになっていた。建物も粗雑な造りがほとんどで、壁に穴の開いた掘立小屋ばかりだ。日を遮るものがないのに不思議と辺りは薄暗く、生活のすえた匂いが滞ってよどんでいる。水と夜闇の色をした影が、足元に伸びた。

「ごめんね、リト。わたしどうかしちゃったみたい。ここはどこなの?」

「わからない。貧民街のどこかだと思うけど。それより大丈夫なの? ひどく取り乱していたわ」

「大、丈……」

 反射的に言いかけて、目の前に暗い霧が降りた。何かに、色のない目に見られている。それはまさしく、さっき覗き見た竜の瞳そのものだった。

 ふらつくイリスの体を支えて、リトが言った。

「ともかく、侍女舎に戻って休みましょう。迷ってしまったけれど、さほど遠くはないはずだし」

 リトに肩を借りながら、二人で歩き出す。もちろんイリスも道はわからず、リトへの迷惑を申し訳なく思うばかりだった。

 背中に汗が張り付く感触があった。体がずんずんと重くなって、気を張らなければそのまま倒れてしまいそうだ。暗く、深いもやが誘うように自分を包み込んでいる。竜の幻は見ても、こんな幻覚は今までにないことだった。

「ごめん、リト……わたし、このまま歩けそうにないわ」

 ため息とともにイリスが言った。続けようとして、リトに遮られた。

「置いていけなんて言わないでよ? 戻ってこられるかもわからないんだから」

「……ごめんね」

「少し、休みましょうか。あまり長居したい場所じゃないけれど」

 廃墟の入り口に石段を見つけたリトは、軽く砂を払ってから腰掛けさせてくれた。イリスの背中を支えながら、リトも隣に座る。

「人が通りがかるといいのだけれど、望み薄ね。もともと人通りが少ない上に、今日はお祭り騒ぎで閑散としているし」

 リトが言ったが、イリスは目の前が霞んでよくわからなかった。でも、できればこれ以上リトに迷惑はかけたくない。道行く人影を見逃さないように目を凝らした。

「怖かったのよね。付き合わせてごめんなさい」

 リトが頭を撫でてくる。その声は少し震えていた。イリスは驚いて顔を上げる。

「そんな、謝るのはわたしよ。勝手に怖がって、リトをこんなところに連れてきて、挙句の果てに腰が抜けて動けないのだもの」

 言って、自分で自分が惨めだった。とはいえ泣けばリトを困らせて余計に惨めなので、涙だけはこらえた。

「そんなことない、って言いたいところだけど、お互い様にしましょうか。このまま謝り合っても体力を使うだけだわ。……今は休みましょう」

 小さくうなずいて、うつむいた。頬を打つ風は湿っぽく、生臭い。寄り掛かるリトの体だけが暖かかった。

 いつの間にかまどろんでいたらしい。しばらくして、呼ぶ声に目を覚ました。

「お嬢さん方。こんなところでどうしたね」

 眠いが、だいぶ気分はよくなっていた。目をこすって見上げると、若い男が三人立っている。貧民街には似つかわしくない壮麗な身なりをして、腰に細身の剣を差していた。

「迷子かな? ここらに関わりがあるような身なりではないが」

「えっと、あなたたちは?」

 男たちは顔を合わせた。最初に話しかけてきた男が口を開く。

「この印に覚えはないか。……俺たちは街の自警団をやっている」

 そう言って、男は胸の記章を見せた。一輪の花をかたどったそれは豪奢な造りで、日を浴びて金色にきらめいている。

「すいません。この街に来て日が浅いものですから」

「……まあいい。ともかく、ここらをうろつくのは危ない。道がわからないのなら送っていこう」

「どうか、お構いなく」

 うつむいたままリトが言った。怪訝そうな表情を浮かべる男たちの前で、リトは立ち上がる。

「行くわよ、イリス」

「ちょ、ちょっと……?」

 イリスも驚いていた。親切で案内してくれるのだから素直に付いていけばいいだろう。自警団の男たちを怪しむ理由も無さそうなのに、どうして。

「いいから、離れるわよ」

 押し殺した声でリトが言った。その声の緊迫感に、イリスは何も言い返すことができなかった。繋ぐ手が汗ばみ、震えている。何か事情があるのだ。

「……わかりましたよ、先輩。こいつらギルドの連中だ」

 背中に男の声を聞いた。リトは険しい顔をして、足早に歩き去ろうとする。

「待ちな、お前ら」

 少女の足で逃げ切れるはずもなかった。一人がイリスたちの前に回り込み、立ちはだかる。足を止めて振り返ると、後ろの二人が剣に手をかけた。

「ここらに関わりがなさそうだなんて言って、悪かったよ。お前たちの故郷だもんなあ。……成り上がりどもが」

「どういうつもりですか」

 気丈を装って訊くと、男たちはにやりと笑う。およそ自警団という名にはふさわしくない、下卑た笑みだった。

「我々としては少々面白くないということさ。……お前はまだ日が浅いと言ったな。隣の奴はよく承知しているようだが」

 逃げられぬとさとったリトは、見たこともない怖い顔で男たちを睨みつけている。イリスが問いかけるような視線を向けると、口を開いた。

「自警団には、貴族や地主の縁者が多いの。……出自の悪い人が集まりながらも街で名声をほしいままにする竜狩りギルドを、毛嫌いしている人たちよ」

「そういうことさね。運が悪かったと諦めるんだな」

 剣の鞘走る澄んだ音。抜き放たれた鋼の輝きにイリスは息を呑む。竜の牙に宿る白光が蘇り、イリスの目を貫いた。

(まずい……)

 幻覚が戻り始めていた。湿った空気に、腐臭が混ざって感じられる。

「あなたたち! こんなことしてただで済むと思っているわけ?」

 激昂するリトの叫び声は、男たちの嗜虐心をそそっただけだった。

「凱旋の日に裏路地に来るのは、ギルドの連中を見たくもない我々くらいなものだ。それに、ギルドの娘に不親切を働いたとして、咎める上司には覚えがないんでね」

 男の言葉を理解する余裕もなくなってきていた。薄暗がりに点いた幻燈はじわじわと視界を埋め尽くし、夢の匂いを、乾きを、痛みを呼び起こす。

「逃げるわよ、イリス!」

 鋭い声とともに肩を抱かれる。足がもつれ、心臓が弾かれたように一度、強く震えた。

 現実の刃と、夢幻の牙とが重なり、迫る。

 いきなり突き飛ばされて、イリスは半身をしたたかに打ち付けた。悲鳴の残響に夢から連れ戻され、痛みも忘れて跳ね起きる。

「リトっ!」

 イリスをかばった少女が、血に濡れて伏していた。駆け寄ると、手にはべっとりと血糊が張り付いて、鉄臭い血の香りが這い上がった。鮮やかな緋色に頭の芯がちりちりと焦げていくのを感じる。

(わたしの、せいだ)

 イリスはさとった。自分が幻覚に怯えたばかりに、リトの機転に対してほんの一瞬出遅れたばかりに、刃は二人に迫り、リトはイリスをかばって倒れた。

 そして立ち止まってしまったばかりに、倒れたリトの覚悟さえ踏みにじって。

「大人しくするんだな」

 既に回り込まれていた。男は勝ち誇ったように笑みを浮かべた。二度目の隙は、ない。

 イリスは、黙ってリトを見下ろすしかなかった。服の裂けた肩口からは、今も血が溢れ出ている。まだ息はあったが、顔が青白くなっていて、放置すれば危ないのはイリスにだってわかった。

(……駄目。絶対に、駄目!)

 自分のせいで誰かが死ぬ。その言葉は呪いとなって頭の中を巡り、イリスを苛んだ。あってはならない。自分がどうにかしなければいけない。意志は固くとも、この手は無力。

 ただ幸いに、運にだけは恵まれているらしかった。

 りぃん、と金属音が鳴る。続けて、イリスの眼前で折れた刀身が赤土に突き刺さった。顔を上げると、見覚えのない人影がある。自警団の男が身構えていた。

「どうした」

「見世物じゃないぞ、と脅かしたらこの通りで」

 男の一人が折れた剣を見せた。その断面は脂でも削ったようになめらかで、とても金属の折れた痕には見えなかった。

「俺に、剣を振ったな」

 その声はあどけなさを感じるほど幼かったが、同時に闇より暗い深淵から響くような、鳥肌の立つ恐ろしさを秘めていた。

「貴様、誰だ」

「誰でもいいさ。俺は退屈を紛らしたいだけだ」

 覗き見たその姿は、年端もいかない少年のものだった。ぶかぶかの長衣を羽織り、はみ出した腕には厚布が巻かれている。夜闇を紡いだように黒い髪の奥で、鏡の色をした瞳が光っていた。

 そして、何より目を引くのは手に握る刃だった。刀身は短いが、およそ金属とは思えない、群青の光を纏っている。

「竜鱗の剣だと? まさか!」

「お前らには勿体無い武器だな。素手で充分だろ」

 何より硬く、何をも切り裂き、それゆえに研ぎ上げること敵わない竜鱗の武具。常人には縁のないそれを素早く鞘に収めて、少年は上背に勝る男三人へと相対する。

「馬鹿にしやがって!」

 イリスはこの隙に逃げようと、リトの体に手を伸ばす。しかし抱き寄せた拍子にリトがうめき、血糊が手に張り付いた。下手に動かさない方が良さそうだ。とはいえ、自分だけ離れるわけにもいかない。

 少年の方を見やる。自警団の男らは剣呑な表情をして、一触即発の様相を呈していた。長剣を構えたまま、棒立ちの少年へじりじりと近づいていく。

 迎え撃つ少年の顔に、笑みはなかった。



 二筋の剣閃が宙を駆け、薄墨を流したような暗がりを払った。剣を携える自警団の二人は貧民街にあってなお、凛とした居住まいを崩さずにいる。少年へと踏み込むたび、金糸で彩られた制服がたなびいた。

 しかしその流麗な剣筋は、一度とて少年の体をとらえることはない。

 少年は鏡の目を不敵にぎらつかせながら立っていた。イリスには、男たちの繰り出す斬撃が勝手にそれていくように見えていた。光の軌跡は少年の胴をかすめ、長衣の裾をあおり、耳のそばを抜けていく。少年は直立不動のようでいて、よく見れば、わずかに足を運んでいるのがわかった。隙だらけに見えて、その実、最大限の余力を残しているのだ。

「……手を使うのも勿体ねえな、これは」

 少年はすこぶる不機嫌そうにつぶやいた。風切り音と足さばきの振動の中で、肌を蝕むような低い声が不思議とよく通った。

 挑発めいた言葉は大いに不興を買ったらしい。顔を歪めた男は大きく踏み込み、大上段から剣を叩き込む。

 瞬間、少年の影が揺らいだ。

 再び金属音がこだまする。思わずつぶった目をおそるおそる開くと、少年は片足を大きく振り上げていた。頑丈そうな長靴の鋲が、しかと刃を受け止めている。

 驚愕する剣の主は、後ずさる暇さえ与えられなかった。少年は靴底でとらえた剣先を叩き落とし、踏みつけざまに、腰をひねって反対の足を踵から蹴り込んだ。鈍く光る革と鉄の塊が、男の顔に吸い込まれる。

 それから、蹂躙が始まった。

 組みつこうと迫る男を吹き飛ばし、鋭く突き込まれた刃を苦もなく弾いて、少年は返しの蹴りを見舞っていく。あらゆる動きがひと連なりで無駄がなく、回避と攻撃とを見分けることさえ敵わない。素人目にも、その脚技の冴えが並々ならぬことは明らかだった。

 さほどもないうちに、打ちひしがれる自警団の三人は、ぼろ雑巾のように横たわっていた。服の裾は千切れて土と血にまみれ、体のあちこちがあざになって腫れている。一方の少年はばさりと広がる長衣にすら汚れのひとつもなく、せいぜい靴に血が飛んでいるくらいだった。

「……雑魚が」

 動かなくなった男たちを、少年は憤怒の形相で見下ろしていた。闇に濡れた髪がぬらぬらと揺れ、小柄な体躯を何倍もの大きさに見せている。イリスには、少年の居姿が幽鬼のそれにしか見えなかった。

 我に返り、助かったと気が付くと、イリスは礼を言おうと立ち上がる。その時、誰に言うでもなく吐き捨てる声が聞こえた。

「虫唾が走るんだよ」

 致命的な、鈍い音がした。イリスは思わず顔を覆った。まぶたの裏に、人間の頭へ長靴の突き刺さる光景が焼き付いた。

「やめて!」

 目を塞いだまま悲鳴を上げるも、殴打音は止まなかった。

「覚悟もない癖に、一丁前に剣なんざ握りやがって! それでこの体たらくか? 情けねえ奴らだ!」

「やめてよ!」

 たまらずイリスは目を開けて、少年の肩をつかむ。後先のことなど考えもせず、少年の体を引き寄せた。

 瞬間、息の詰まりそうな静寂に呑み込まれる。

 身の毛がよだつのを感じた。少年の体に、激昂が熱となってくすぶっているのがわかった。それは触れれば火傷しそうなほどで、しかし、安易に拒絶してはいけないと思わせる血の通った熱さだった。イリスは手を離せなかった。

「まだいたのか」

 少年が振り返った。意外なことに鏡の色をした瞳は凪いでいて、何の感情も映ってはいなかった。まるで鉛を眼窩に埋め込んだような目には、しかし、かつてあらゆる激情が宿っただろうとイリスは直感した。

(わたしは、この目を知っている)

 いつ、どこで見た、誰の目かは思い出せなかった。その色も、込められた心も。それでも、どこまでも無機質ゆえに、どこまでも心の混沌を宿す目を、見たことだけは確かだった。

「何か用か。……じゃれ合うには腕っぷしが足りねえようだが」

 しばし呆然としていたイリスは、向けられた殺気に慌てて手を引いた。少年は苛立たしそうに鼻を鳴らす。

「ごめんなさい。でも、これ以上傷つけることはないでしょう」

「命のやり取りを制した俺の勝手だろう。これくらいしか道楽がないんでな」

 その言葉を聞いて、はっきり同情が湧いてきた。

「それは違うわ」

「……自分を襲った下衆の命がそんなに惜しいか?」

 少年は目を細めた。責めるような視線に、イリスは首を振る。

「違う。楽しいだなんて嘘でしょう。戦いの最中も、今だって、今日が人生で最悪の日だって顔をしているもの。あなたは」

 一瞬だけ、少年は狼狽を見せた。それを恥じるように舌打ちして、背を向ける。ただ、もはや男らを蹴り飛ばす気はないようだった。

「助けてくれてありがとう。でも、友達が危ないの。運ぶのを……いえ、せめて大通りへの道を教えてくれないかしら」

 藁にもすがる思いで訊くも、少年は失笑で応じた。

「は、感謝するくらいの礼儀は知っているらしいな。なら、そこまでする義理がないこともわかるだろう?」

 イリスは黙る他ない。少年は背を向けたまま、言った。

「……案内するつもりはないが、帰り道だ。勝手に追ってこい」

「ありがとう、本当に。……わたしはイリス=ヒューペリア。あなたは?」

 その名を聞いて、少年は振り返った。しばらくイリスをまじまじと眺めてから、それきり興味を失くしたように目を背けた。

「髪色といい匂いといい、変わった奴だ。……俺は、レアス=イスチェリー」

 それだけ言って、唐突に屋根の上まで跳び上がった。確かに案内する気はないらしい。振り返らずに、ぼろぼろの建物を跳び移りながら駆け去っていく。

 レアスの姿を目で追いながら、イリスはリトに駆け寄った。

「すぐ助けを呼んでくるから、待ってて」

 リトの返事はなかった。事は一刻を争う。迷わず戻るために、目印が必要だった。

 レアスの健脚ぶりはめざましく、悩む間にも風のように遠ざかっていく。翻る長衣を頼りに方向の検討をつけてから、イリスは素早く辺りを見回した。

 目当てのものはすぐ見つかった。自警団の男たちが持っていた細身の剣。イリスはそれを持ち上げると、歯を食いしばって、掌を切り裂いた。

 激痛が走った。たまらず剣を取り落とし、うめき声を上げる。よろめきつつも何とか意識を繋ぎとめ、滴る血が充分なことを確かめた。

(絶対に、死なせないから)

 山吹色の瞳に決意を宿し、イリスは血を握りしめて顔を上げる。

 空は硝子の輝きを宿し、その下には朽ち果てた陋屋が臭気とともに沈殿していた。少年の姿はその境目、清純と混沌のせめぎ合う場所にある。

 鮮血を垂らしながら、イリスは少年の背を追いかけた。



 どろどろに融けた鉄を流し込まれたような、猛烈な不快感があった。夢かうつつか、横たわる躰が自分のものかも判然としなかった。手足が、粘っこい熱の奔流に捕らわれ、溶け出していく。視界は暗く歪み、得体の知れないまだら模様が妖しく踊っている。空間そのものがねじ曲がっていく感覚に、平衡がすっかり狂ってしまっていた。

 しかしその中に一滴、胸のすく清涼な香を漂わせる水が、すっと染み込んだ。

 その清水は血潮となって体を巡り、ゆっくりと肢体を正しい形に戻していった。それがどす黒い熱を浄化し洗い流すうち、次第に呼吸が楽になり、涼やかな匂いに抱かれたまま深く眠りに落ちていった。

 それからいくら経ったかはわからない。心安らかな眠りから覚めて、イリスはまぶたを持ち上げた。

「気が付きましたか」

 悪夢のない平穏な寝覚めは、覚えがないほど久しぶりのことだった。まどろみながら目をこすって、ぼんやりと辺りを眺める。

 見たことのない部屋だった。侍女舎の二人部屋よりいくらか広いが、イリスが横たわる寝台の他、書き物机と椅子がいくつかあるだけで質素なものだ。しかし調度のどれにもほこりひとつなく、いたって清潔だった。扉の反対側には青い垂れ幕がかかっていて、その奥から澄んだ酒の匂いとほろ苦い薬の香が漂ってきた。

 そして、声の主がこちらを見下ろしているのに気が付く。

 若い男だ。二十くらいだろうか。細面に筋の通った鼻梁、木肌のような薄茶色の顔に、これまた褐色の整った髪。こざっぱりとして若者らしい容姿だが、深い藍を宿す瞳のせいもあって、齢を重ねた賢者のようにも見える。思慮深い人物だろうかと思った。

 不意に何があったかを思い出して、イリスは飛び起きた。

「……リトは?」

「落ち着いてください。無事です。隣で寝ていますよ」

 男はイリスをなだめて寝かせてから、さっき見た垂れ幕を持ち上げた。その向こうには寝台がもう一つあって、静かに寝息を立てているリトの姿があった。

「自分の血を目印にするなんて無茶を叱りたいところですが、応急処置が間に合わなければ危ないところでした。今回ばかりはお手柄ですよ」

「大丈夫、なんですね?」

「まず大丈夫です。手当の後もしばらく発熱していましたが、もう熱も引いて体力も戻ってきたようです。安静にしていればいずれ目を覚ますでしょう」

 イリスは安堵して、再び寝台に横たわった。

「何があったか、教えて頂いてもいいでしょうか」

 イリスは訊く。無我夢中で、助けを呼んだいきさつはよく覚えていなかった。

「もちろん。ただ、その前に診察をさせてもらいますよ。あなたも怪我人ですから」

 うなずくと、男は垂れ幕の向こうから湯気の立つ湯呑を持ってきた。どうやら奥には寝台の他に、薬の類がまとめてあるようだ。男はイリスの喉を見たり、脈をとったりしてから、湯呑を差し出した。

「薬湯です。ゆっくりと、含むように飲んでください。熱いので気を付けて」

 受け取ると、涼やかでかんばしい草の香りがした。どこかで嗅いだことがあると考えて、まどろんでいる間に感じた匂いだとわかった。ただ、口に含むと思いのほか苦くて、眠気が吹き飛んだ。

「……ちゃんと最後まで飲んでくださいよ?」

 呆れながら、男は話し始めた。

「だいたいご存知の通りだと思います。大通りであなたを保護した侍女たちがギルドの部隊に連絡し、医術師である私と武人らであなたの血痕を追って、裏路地に倒れているリト=カッシュさんと自警団の面々を見つけました。全員ギルドの砦に担ぎ込んで、手当をしたわけです。自警団の男たちも目を覚ましています。頭領が自警団のお偉方と協議した結果、事情がわかるまで身柄を預かることになったそうです」

「……あれから何日経ちましたか」

「二日です。あなたの傷は命にかかわるものではありませんでしたが、だいぶ気が滅入ってしまったようですね」

 そう言って、いったん診療器具を片付ける。特に悪いところはなかったらしい。ただ妙に体が重く、男の言う通り憔悴しているのかもしれなかった。

「さて、私はクルム=ビートリッシュ、竜狩りギルドの医術師です。落ち着いたら、あなたからも話を聞かせてもらいますよ。少しすれば頭領も戻ってくるので」

 クルムが名乗るのを聞き、真っ先に言うべきことを失念していたと気が付いて、イリスは慌てた。

「えっと、本当にありがとうございました。イリス=ヒューペリアと申します。わたしは大丈夫なので、いつでも聞いてください」

 起き上がって頭を下げるイリスに、クルムは苦笑する。

「怪我人なんですから、大人しくしてください。私も仕事ですし、遠慮することはありませんよ。ほら、包帯を替えますから、手を出して」

 恥じ入りながら、言われたとおりに腕を差し出す。クルムは慣れた手つきで包帯を解いて、傷の様子を確かめた。

 クルムの顔が、明らかに曇った。

 それを見て、不安が込み上げてきた。クルムを知っているわけではないが、多少のことで動揺する人間には思えない。

「ヒューペリアさん、手に痛みはありますか?」

 当惑した表情のまま、クルムは尋ねた。イリスは首を横に振る。思い返せば、目覚めてから傷の痛みはまったく意識しなかった。

「指先にしびれはありませんか?」

 立て続けの質問に、イリスはおっかなびっくりだった。ないと答えると、クルムはますます困ったような顔をする。

「……治って、います」

「え?」

 思わず聞き返した。二回ほど目をしばたいて、ようやく何を言っているか理解した。

「ゆっくりと、手を握って開いてください。ゆっくりです」

 慎重に指を曲げ、伸ばす。その間も、特に痛みは感じなかった。

 目の前にかざすと、白い肌にはかさぶたの一つもなく、包帯を巻いていたせいで少し蒸れているだけだった。色素の薄い大理石のような肌は、まるで千年の昔から変わっていないように見える。

「……案外浅かったんですね」

 あんなに痛かったのに、あんなに血が出ていたのに。いぶかりながらも自分をごまかして言うと、クルムは静かに首を振った。

「ヒューペリアさん。ちょっとした怪我でも、たった二日で元通りに治ることがあると思いますか? そんなわけはありません。それに、私はあなたの傷口を縫い合わせたんですよ。その糸はどこへいったんですか」

 イリスは反対側の掌を見る。当たり前だが、こちらにも傷はない。鏡写しなだけで、そっくり同じ形をしている。

 何かが、自分のあずかり知らぬところで動き始めている。悪夢の中、竜の影法師に覆い隠された自分の過去が、静かにその手を伸ばして迫っている。言いようのない不吉な暗示を感じ取って、イリスは知れず身震いをした。



 クルムは頭領を呼んでくると言って出ていった。頭領のシャムリ=ルンバートは、自警団に対して抗議の用意があるらしく、当事者であるイリスの証言を聞いておきたいらしい。少なからず政治的な意味合いもあるだろうと、クルムはばつの悪い顔で言っていた。民衆からの人気が高く、また街の経済に大きく貢献している竜狩りギルドは、市政において発言力を持つまでになり、だからこそ貴族や地主から毛嫌いされているという。今回の件は、ギルドが彼らを攻撃する材料になるのだとか。

 とはいえ、それはイリスが頓着することではなかった。それよりもクルムが出払っていることの方がずっと大事だ。

(リトは大丈夫かしら)

 寝ていなさいと言われたが、気になるのは仕方ない。立ち上がるときにめまいがして、体が鉛のように重く感じた。二日も寝ていたせいで、体がなまっているらしい。しかし傷が完治しているのは確かなようだ。念のため包帯を巻き直してもらったが、必要なかったかもしれない。

 垂れ幕を引き開けると、リトはすぐ近くで寝ていた。少しやつれてはいるものの、とび色の髪も、小さく丸っこい鼻も、わずかにあどけなさを残すあごの線も、イリスの知った通りだった。首から下に布団が掛けられ、それがゆっくりと上下している。改めて無事を確かめて、思わず涙がにじんだ。

 リトの横たわる寝台の他にも、空のものがいくつかあった。さらに奥にはまた垂れ幕がある。診療室と、寝台と、薬品庫に分けられているのだろうか。寝台や薬品庫の側に灯りはなく、垂れ幕が分厚いせいもあって暗かった。

 好奇心は湧いたが、さすがに許可もなく薬棚に近づくつもりはない。少しリトを眺めてから、自分の寝床に戻ろうとする。

 その時、リトのうなじを覆う包帯が覗き見えた。

 見るべきではない、と耳元で誰かがつぶやいた気がする。それはすなわち、見ずにはいられないということだった。イリスは慎重に布団の端をつまみ上げる。

 華奢な肩に、びっしりと包帯が巻かれていた。首から左わき腹に至るまで丁寧に巻かれたそれは、傷の大きさをはっきり物語っている。

(わたしの傷を縫ったと言っていたわ。なら、リトの傷も……)

 リトを抱き上げた時の、ぬめる血の感覚が蘇った。ぱっくりと裂けた肩口が生々しい肉の色をさらして、生気を吸い取ろうと迫ってくる。それを強引に閉じ、戒めるように縫い合わせていくさま、蛇が這うような糸の動きがありありと脳裏をよぎった。

 ぶるぶる震える手で、イリスは何とか布団を戻した。自分の寝台に寝転んで、膝を抱える。震えているのは手だけではない。死霊に抱きつかれたかのように、全身がじっとりと湿っていた。

(わたしは、なんてことをしてしまったの)

 なんてことを。イリスは心中で繰り返した。あんな傷が元通りに治るはずはなく、縫い痕は一生残ることだろう。それは最初から最後まで自分のせいだった。竜の幻影に怯える臆病のせいでリトを巻き込み、自分の身一つ守れない弱さのせいでリトを傷つけた。すんでのところで命は助かったが、そのままはかなく消えてしまってもおかしくはなかった。

 涙はなかった。泣くことも許されないと思った。ただ薄く引き伸ばされた広大な恐怖だけがあって、その上を延々と歩かされている気分だ。いつ薄氷を踏み抜いて、取り返しのつかないことになるかわからない。しかし歩くことは生きることで、やめるわけにはいかなかった。

(わたしが、強くなれば)

 戸のきしむ音がした。イリスは息を大きく吸い込んだ。

「……どうしたのですか」

 クルムが入ってきた。一目でわかるほど動揺していたらしく、心配そうに見下ろしている。イリスはもう一度深呼吸をして、ゆっくり体を起こした。

「……大丈夫です。話を聞きにいらしたんですよね」

 クルムの後ろに立つ男に声をかける。戸をくぐった男はそうだ、と応じた。

 竜狩りギルドの頭領シャムリ=ルンバートは、その武勲に違わぬ堂々とした威厳を漂わせていた。頭領の証である緋色の長衣はことのほか質素だったが、その上からでもわかる強靭な体つきが装束に風格を与えている。赤銅色の硬い髪、しわと傷が深く刻まれた精悍な顔立ちにもまた、質実剛健な人となりがありありとしている。それでいて、物腰は緊迫感さえ覚えるほど静かで、ただの荒くれ者でないことは明らかだった。

「初めまして、だな。名を何と言う」

 はっきりとよく通る声だった。イリスは緊張を隠せないまま、答える。

「イリス=ヒューペリアです。ひと月ほど前からお世話になっております」

「楽にしていていい。堅苦しいのは好かん」

 礼を尽くそうとするイリスを手で制して、シャムリは続ける。

「詳しく聞かせてくれ。交渉でぼろが出てはまずいのでな」

 問われて、イリスは話し始める。裏路地に迷い込んだこと、自警団に行き合って襲われたこと、通りすがりの人に助けられたこと、自分の血を目印にして助けを求めたこと。

 思いつく限り詳細に話したが、助けてくれたのが少年だったことは、信じてもらえそうもないので伏せておいた。その時は永遠のようだった出来事も話してみれば一瞬で、少し拍子抜けしていた。

「なるほど、お前さんの言うことが正しければ、あやつらが全面的に悪いわけだな。まったく、これは本腰を入れて『話し合い』をしなければならんか」

 関節を鳴らしながらシャムリが言う。話し合いがどういう意味なのか、あえて尋ねることはしなかった。

 代わりに訊かねばならないことがあるからだ。

「……あの、お忙しいところ申し訳ないのですが」

 いくつか質問を交わした後で、イリスはこわごわ切り出した。シャムリは特に嫌な顔をすることもなく、先を促す。

 決意を固めて、まっすぐに見上げる。

「お願いがあります。わたしに武術を学ばせて下さい」

 脇に立っていたクルムが怪訝な顔をして、口を開こうとする。シャムリは微塵も表情を変えずに、それを遮った。

「わけを聞こうか」

「わたしの臆病でリトを、友達を危険な目に遭わせました。そして、わたしは自分を守れなかった。代わりにリトが傷ついた。死ぬところだった。……そんなのはもう、嫌です」

 シャムリはとことん無表情だった。クルムが気遣わし気な視線をこちらに向けている。

「ここで武術を学ぶのがどういう意味か、心得ているのか?」

「竜は怖いです」

 イリスは正直に答える。ただし、目は逸らさなかった。

「でも、だからこそです。わたしは竜の幻に怯えています。それがわたしの弱さ、克服しなければいけないことなんです」

「一割だけ正解、だな。しかし覚悟はわかった。……立つがいい、イリスとやら」

 シャムリの言葉に、クルムが口を挟む。

「待ってください。怪我人ですよ?」

「もう治っているだろう。わしにはわかる」

 こともなげに言って、割り込んだクルムを下がらせた。イリスはうなずくと、寝台から降りて立ち上がった。

「何をすれば?」

「簡単だ」

 シャムリの無表情が何を意味しているのか見当もつかなかった。口調も仕草も淡々としていて、まるで一挙一動を全て面倒くさがっているようにも見える。しかし、この男がただの物臭なはずがないのだった。

「怪我をするな。それだけだ。……構えろ」

 言って、シャムリは長衣を脱ぎ捨てた。平時でありながら、その下に革鎧が着こまれているのは武人の嗜みだろうか。巌のように堅牢で頑強な肉体は、それだけでイリスをたじろがせるのに充分だった。

「頭領、何を……」

 クルムの動揺は完全に無視された。イリスも気にしている余裕はなかった。シャムリはただ立っているだけのように見えて、臨戦態勢に入っているのがひしひしと伝ってくる。素人にもわかる、充実した気迫が感じられた。

 風を切る音。手刀が飛んできたとわかったのは、それが耳元をかすめてからだった。イリスは慌てて引いた。いきなり叩きのめさないあたり、手加減はしてくれるようだ。

 狭い部屋の中で逃げ場はなかった。シャムリの手の動きに集中して、その速度についていこうとする。だが、受け止めたと思った手は一瞬で腕に絡みつき、ねじり上げた。

「足元がお留守だぞ」

 その声が頭に入るより先に、部屋がぐるりと回転した。浮遊感の直後、目の前で火花が散った。白んだ視界に覆いかぶさる偉丈夫の姿。振り上げられる手刀。

(……ここは!)

 一瞬の迷いが仇となった。左腕に稲妻が落ちた。しびれが肩まで広がって、自分の腕が人形のそれに感じられた。

「……駄目だな」

 シャムリがひとりごちた。その顔は悲しみとも怒りともとれない無表情だった。

「ここで武術を学ぶ理由、そのひとつは生き残るためだ。お前さんは、心のどこかで自分自身は傷ついてもいいと思っている。自分の身一つさえ守る心構えがないのなら、武術を学ばせるわけにはいかん」

 明滅する思考の中でも、頭上から降る声は確かに響いた。反論する気は微塵も起こらない。正鵠を衝かれて、やるせなさだけが募った。

「まったく、頭領は無茶をなさる。治った矢先に怪我を作ってどうするのです」

 クルムは呆れて、治療具を持って駆け寄ってくる。その指に、さっきまではなかった翡翠の指輪が光った。

「戯れが過ぎたのは認める。だが、覚悟を問わねばならん理由はお前にもわかるだろう」

 長衣を拾い上げ、肩に引っ掛ける。心臓が喉から出そうなイリスに対して、シャムリは息ひとつ乱していなかった。後は任せたぞ、と言って部屋から出ていく。クルムは声だけで応じて、腕の具合を確かめるためにこちらへ手を伸ばした。

 その時だった。

 翡翠の指輪がきらめいた。宝石と同じ色の光が帯となって溢れ出し、イリスの腕を優しく締め付けた。胸いっぱいにかんばしい草の香が満ちる。体の中で歯車がぴったりと噛み合ったような、細い線が正しく繋がれたような、不思議な感覚があった。

「なっ……」

 クルムが息を呑むのがわかった。引っ込められた指輪からは急速に光が消えていく。しかし光の残滓は星のように澄んだ光を散らしながら、ゆっくりとイリスの体へ降り積もっていった。

「なるほど」

 シャムリが初めて表情を見せた。得心したような笑み。一方で、イリスは左腕に血が通うのを感じた。ゆっくりとこぶしを開閉し、大事ないことを確かめる。そのまま手をついて立ち上がった。

「向こうには怪我をした友人が寝ていたのだな。それに気が付いて、避けるのをためらった。勢い余って彼女の寝台にぶつからないように。……他者を救うという覚悟は本物のようだ。なれば、武人という枠にこだわる必要もあるまいて」

「……イリスさん、いったい何を?」

 クルムはひどく驚いていた。理知的な彼の第一印象からは想像もつかないほどだ。

「はっきりしているだろう、クルム。お前が一番よく知っているはずだ」

 わけもわからないイリスに代わって、シャムリが答えた。絶句するクルムをよそに、シャムリがこちらを見る。

「お前さんは武人には向かん。だが、お前さんにしかできないことがある」

 自分にしかできないこと。その言葉に、指の先が震えた。

「導術だ。導術師として身を立てる気があるなら、迎え入れよう。……お前さんなら、あるいは友人の傷を癒せるかもしれんな」


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