銀の香

八枝ひいろ

 すがすがしい朝空に紅蓮の光明を認めた時、未だ十四の少女は自らの死が今ここにおとずれるのをさとった。

 一面に若草が絨毯を作って、そよ風にさやさやとうねっている。時折すみれの花が春の香を散らし、羽音かしましい蜜蜂たちが歓喜に唄い交わすのどかな草原で、少女は蒼白になって、山吹色の目を絶望に見開いた。

 視線の先で、火炎のごとき凶星がその輪郭を露わにする。熟れ過ぎた果実を搾った時のように、あるいは魚のはらわたを潰した時のように、虚空の一点からねっとりと紅い色彩がしたたったかと思うと、空はいっぺんに燃え上がって茜に染まり、少女をせせら笑うかのように火の雨を降らす。その間に天を統べる紅蓮の光明はあかあかと輝く双翼を広げ、少女めがけてまっすぐに飛翔した。

 悲鳴を上げて、きびすを返して、逃げ出そうにももう遅い。

 天地を等しく焼きつくす、竜が迫っていた。

 叩きつけるような熱風が駆け抜けて、たまらずつんのめる。かんばしい新緑はあっという間に煙へと変じ、火の渦となって少女を取り巻いた。辺りにはいがらっぽい煙の匂いと粘つく血の匂いとが一緒になって満ち満ち、炎とともに命をねたむ呪詛を口ずさんでいる。少女はむき出しになった地面に手をついて体を起こし、頭からかぶった灰をしゃにむに振り払う。ぼろの服は焼け焦げ、破れ、白磁のようになめらかな肌がさらされていた。土の混じったつばを吐いて咳き込み、口元に垂れる血をぬぐうのも忘れて立ち上がった瞬間、名状しがたい影法師が大地を夜に塗りつぶした。

 見上げると、少女にとって死そのものの姿がそこにあった。

 竜の肌を覆いつくす、槍の穂先にも似た鱗は赤熱してこうこうと輝き、尋常でない熱を宿しているのだろう、一枚一枚が陽炎をまとって金属質の光をにじませていた。裏地が真っ黒な両翼は疾風を呼び、およそ生あるものの営みと外れた妖艶な腐臭を運んでくる。きれいに牙の並んだあぎとの中で舌が蛇のようにくねって、少女を品定めしているように見えた。天を覆う巨躯、地を震わせるうなり声。しかし、何より恐ろしいのはその目だった。木の洞のように、そこだけ何かがぽっかりと抜け落ちたような虚無、どろどろに凝り固まった闇が少女を見つめていた。そこには憤怒、怨嗟、寂寥といった、ありとあらゆる負の感情がないまぜになっていたが、同時にどこか蠱惑的な、人を惹きつけてやまない高貴さも併せ持っているのだった。

 火の化身、生ける災厄、天と地のはざまに棲まうもの。

 数え切れないほどの異名を冠し、到底人智のおよばない領域であるところの存在、竜が、立ちつくす少女の頭上で高らかにほえ声をあげ、翼を縮こまらせ、真っ逆さまに襲いかかる。

 ――どうして。

 絶体絶命の窮地に、少女は自分のさだめを呪わずにはいられなかった。

 振り仰いで膝を折ると、背に届く少女の長髪が扇のように広がった。その髪はまばゆいばかりの銀色で、その一本に至るまで透き通った星の光を蓄えてさえざえと輝き、本物の銀線よりもなお華美なこの世ならぬものの風格を備えていた。涙は地に触れる前に乾いて消え、はだけた肌はぶすぶすと音立てて焦げていくというのに、髪だけは業火を寄せつけず、獣のたてがみのようにりりしく逆立っていた。

 しかしそれとて、陽の光を許さぬ影、天を衝いて立つ火柱、岩をも削る嵐に飲まれて、何の気休めになるだろうか。

 竜の爪、それだけで少女の丈ほどもある鋭い凶器が、殺意をほとばしらせて迫る。

 その刹那、身の毛のよだつ恐怖に引き伸ばされた緩慢な時間の中で、少女は強く思った。

 ――いやよ! 死にたくなんかない!

 石くれが頬を削って飛ぶ。激しい地鳴りは地面と空気の境を曖昧にし、灼熱の風が春の残り香を薙ぎ払い、誰も顧みることのない地獄へと少女を誘う。轟く竜の咆哮と、それが近づくにつれて高鳴る鼓動。顔をくしゃくしゃにして歯を食いしばり、少女は固く目をつむった。

 無明の闇、炎に融けゆく躰、頭の中で何かが焼き切れるような痛み。

 どこか遠いところに甲高い笑い声を聞きながら、少女の意識は闇へと漕ぎ出した。


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