痕跡と追憶

亀虫

第1話

 誰も訪れない森の中、黄緑色の蔦に覆われた石の城。あちらこちら崩れてきてはいるが、まだ生きていたときの面影を残す遺跡。その静謐な空間は、神秘的とも不気味とも言え、まるでこの世とあの世を結び付けているような異質な雰囲気を醸し出している。

 そこで私はひとり目を覚ました。


 私はこの城の一室にひとり佇んでいる。何故私がここにいるのか、わからない。私が何者なのかもわからない。気付いたときにはここに立っていた。

 部屋には大きなベッドがある。その上には何十年分とも思われる埃が積み上げられており、元々別の色をしていたであろう掛け布団は灰色に染まっている。かつて使われていた調度品は割れたり朽ちたりしている。窓も割れ、そこから流れ込んでくる風の音だけがこの場所の音楽だ。私はこの部屋に見覚えがある。ここに残る痕跡がそう言っている。私は記憶に残るわずかな断片を繋ぎ合わせ、ひとつの像を結んだ。

 ああ、思い出した。ここであった出来事を。

 私はこの城に仕えていた。

 思い浮かぶのは、領主たる旦那様の奥様がそこのベッドに腰かけて、乳児を抱えてお乳をやっている映像。生まれてきたばかりの子供を優しく包む彼女の様子に、私も優しい気分になったものだ。その子供は男の子で、小さくて、可愛くて、それはもう天使のようだった。彼の笑顔はいつでも周囲を癒し、その泣き顔はいつでも周囲をおろおろさせた。彼は愛されていた。奥様たちから世界一の愛を受けていた。だから、そのときの彼は間違いなく世界一の幸せ者だった。

 私は彼のお世話も担当した。私は男であるためお乳をやることはできなかったが、身の回りの諸事を任された。私ではなくメイドに任せた方がよろしいのでは、と言ったが、奥様は「信頼できる貴方にこそ頼みたい」とおっしゃり、直々に私を任命してくださった。

 奥様は子供との愛情をとても大事にされていた。だから世話を私に任せっきりにはせず、可能な限り奥様が御自ら子供にかまってやっていた。子供もその愛情に応えるかのように健康に育っていった。奥様は誰よりも優先して子供のことを考えていた。彼が喃語を話せばその成長を喜び、彼が熱を出せば付きっ切りで看病した。そのような愛情深い奥様のことを、私は尊敬していた。

 子供の世話というのは大変なもので、やれお腹が空いた、やれおむつだ、やれ遊べと休まる暇もないほど忙しかった。いくら奥様がいらっしゃると言っても、私の世話係としての仕事を手抜きすることはできない。私は全力でその職務を行ったと自負している。

 いくら忙しくても子供というのは可愛いもので、天使の笑顔を見せるたびに、私の疲れは吹き飛んだ。世話の甲斐あってか、彼は私にとても懐いた。私には子供はいなかったが、実の息子のように愛情を注いだ。私は彼を「お坊ちゃま」と呼んで可愛がった。

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