第6話 衝撃の夜

 呆れ果てた人生計画を聞かされた後、俺は二階の自室に引き上げ、偶には夜風に当たりたいと二箇所の窓を網戸にし、ベッドに寝ころびながら溜め息を吐いた。


「全く……。俺の父親ながら、相変わらずぶっ飛んだ親父だな。猫の為に早期リタイアして移住って……。六十や七十過ぎても真面目に働いている人が聞いたら、タコ殴りされるぞ」

 無意識に口にしていると、忌々しさが増幅してくる。

 大体、ここも売り払うとなると、もう休みになってもここに戻ってはこれないという事で……。生まれてこの方、大学進学の為に引っ越しした他は、別な場所で過ごした事のない俺は、もうその事実だけで感傷的になってしまった。


 駄目だ、やっぱりあの馬鹿親父に、きつく言ってやらないと。

 そう決意して上半身を起こした俺の耳に、窓の外から猫の声が微かに聞こえてきた。


「……みゃあぁ~」

「え? 今の声、どこから聞こえてきた? 廊下の方じゃなくて、窓から聞こえてきたような……」

 だが聞き間違いで無ければ、聞こえてきたのは西側の窓からだった。南側の窓にはベランダがあるが、西側の窓の外にそれは無い。外は既に暗くなっており、西日を避けるように植えられた木の枝しか見えず、俺は首を傾げた。

 そのまま西側の窓に歩み寄ると、先程よりもはっきりと声が聞こえる。


「にゃっ、にゅあっ」

「やっぱりこっちから、だよなぁ……。窓の下にいるのか? それにしては、妙にはっきり聞こえる気がするんだが……」

 ぶつぶつと独り言を口にしながら、俺は網戸を開けて下を覗き込もうとしたが、ここで予期せぬ異音と衝撃が襲った。


「にぎゃあぁぁ~っ!」

「う、うわぁああっ! なっ、何だ、って、ハナ!?」

 何かが網戸越しに俺にぶつかってきたと思った次の瞬間、盛大に音を立てて網戸が破れ、気が付くとその破壊者であるハナが、網戸の縁を前脚で掴んで外にぶら下がっていた。


「ぎゃあぁっ! なーっ!」

「ちょ、ちょっと待て、ハナ! 落ち着け! 今助けるから!」

 まさか猫が飛び込んでくるとは思わず、すっかり狼狽した俺は、網戸の破れた所からハナを持ち上げれば済むものを、殆ど何も考えず、勢い良く網戸を開けた。


「にぎゃあぁぁ~っ!」

 結果、閉めてあった窓の縁にハナは右前足を盛大にぶつけ、ぶつかった衝撃とハナの重みでフレームが歪んでいたのか、網戸諸共地面に落ちて行った。


「うわ! すまん、ハナ!! 大丈夫か!?」

 慌てて窓から身を乗り出し、地面を見下ろしていると、母さんがドアを開けて部屋に入ってきた。


「太郎、さっきから何を騒いでいるの? 五月蠅いわよ?」

「母さん、ハナが地面に落ちた!」

「はぁ!? 落ちたって、どうして?」

「とにかく下!」

「え、ええ」

 慌てて二人で玄関に行き、靴を履いて家の外壁を回り込む。すると俺の部屋の窓の下に、猫が二匹佇んでいた。


「ハナ! 大丈夫か!?」

「なぅ~ん」

 さすが猫。あの高さから落ちても、ちゃんと着地したらしい。ちゃんと立っているハナを見て、母さんも酷い怪我をしていない事が分かり、安堵の表情になる。


「取り敢えず、大丈夫みたいね」

「腐っても、猫は猫って事だな」

「なんて言い草よ。反省しなさい」

 軽口を叩いていると、母さんに睨まれた。その向こうで、何やら二匹が顔を寄せて鳴き合っている。


「にゃっ、みゃぁ~う」

「なぁ~、ぐるぁ~」

「二人で、何を話しているのかしら」

「さあ……、明日の朝飯の話とか? とにかく、中に入ろう。ミミ! ハナ! 夜だからお前達もさっさと中に入れよ?」

 すっかり安心してそう声をかけたが、何故かミミがすたすたと俺に歩み寄り、俺の左足の靴を前脚でペシペシ叩きながら声を上げた。


「にゃっ! にゃうっ! きしゃ~っ!」

「……何か、怒ってる?」

「怒られているわね。太郎が」

「何でだよ!?」

「太郎のせいで、ハナが落ちたと思っているんじゃない?」

 何て理不尽な言い草だと、俺は本気で腹を立てた。


「冗談じゃない、濡れ衣だ! 網戸に突っ込んで来たのは、ハナなんだぞ!? 見事に網戸も壊れたし!」

「そもそもどうして、網戸にしていたのよ。エアコンを付けて窓を閉めておけば、ぶつかると痛いと分かっているハナは、突っ込んで来ないのに」

「向こうじゃエアコン無しだと夏は蒸し暑いから、偶には夜風に当たろうと思ったんだよ! こっちは涼しいし、今夜はエアコンを付ける程でもない……。ちょっと待て、母さん。ハナは以前、窓にぶち当たった事でもあるのか?」

 あまりにもサラッと言われてうっかり聞き流しかけたが、明らかに前科一犯以上はあるって事だよな?

 その俺の推測を、母さんが肯定した。


「ええ、ハナの最近のマイブームは木登りなの。その時に私達の寝室に、窓から飛び込もうとしてね。幸い向こう側にはベランダがあるから、まずそこの手すりに飛び移って窓に飛び込もうとしたから、頭をぶつけてベランダに落ちただけで済んだけど」

 それを聞いた俺は、額を抑えながら呻いた。


「馬鹿だ……。やっぱり獣だ……」

「あら、それからは、窓が閉まっている時は飛び込まなくなったわよ?」

「当たり前だろ!」

「だから網戸だと大丈夫だと思って、つい飛び込んじゃったのよ」

「……もういい」

 駄目だ。話にならん。

 うんざりしながら家の中に戻り、奥に進むと、風呂上がりらしい父さんと遭遇した。


「上がったぞ。ちょっと騒がしかったが、何かあったのか?」

「ハナが、二階から落ちたのよ」

「夜はあまり、出歩かない方が良いんだがな。お茶を淹れてくれ」

「分かりました」

 そんな平常運転の両親を見て、俺は心底うんざりし、父さんの背中に声をかけた。


「父さん、移住の話だけど」

「何だ? お前、まだグダグダ言う気か?」

「もう、父さんの好きなようにしろ。ミミとハナを、好きなだけ木登りさせて、走り回らせておけ」

 色々諦め、色々達観した。

 猫達が住む所はここじゃない。そういう事だ。


「当然だ。新居が決まったら教えるからな」

 もうこの家は、猫を中心に回っている。

 そう実感した、ある夏の夜の出来事だった。


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