ぬけがらにすがって。





その時、彼女の時が止まったのだ。






彼女はふわりと笑った。こちらに気がついてすぐ、美しく整った美しさが吹き飛んだ。瞬間、少女のように笑んでこちらを向いた。


風に遊ばせたままの髪の毛はふわふわと肩や背中に流れている。


「あら、また来たの」

何でもないようにそういうと、困ったように笑った。


(来ちゃ悪いのかよ)

そう言おうとして、声がでないことに気がついた。

困惑していると彼女は気が付いて、人差し指を縦にして、いたずらを考える子供のように笑った。

「いいのよ、たまには会いに来てくれても。でも、内緒よ。他の人には」

話しながら立ち上がって、隣に並んだ。


彼女の差し出した手のひらに、遠慮がちに触れる。

指先が触れた頃、我慢できないとばかりに彼女はその手を掴んで、思いの外強い力で引き寄せた。


「あはは! つかまえたわ!」

彼女は無邪気にそう言うと、僕の頭を胸に掻き抱いた。優しく頭を撫でて、頬から耳にかけて包むように、抱いた。

「あなたは頑張りすぎなのよ。たまには頼って甘えていいのよ」

力強く、とても優しい声が降ってきた。彼女の顔は見えない。

しかし、どういう顔をしているのか、手に取るようにわかるようだ。


きっと泣きそうなほど優しい顔をしている。

いとおしいと頭を撫でているのも、わかっている。



彼女の背中にすがるように、手を回す。壊さないように、ゆっくりと。

彼女の細い背中に。




その時、世界が明滅した。

彼女のシルエットがぼんやりと一瞬溶ける。今度こそ力強く、その背を抱いた。



はずだった。



柔らかな彼女のワンピースの布地を、指が撫でたのを知っている。

布越しの彼女の肌の滑らかさを、僕の指は忘れない。

それなのに、僕の両手の内に彼女はいない。



もう一度、世界が明滅する。

今度ははっきりと、暗転した。次に輪郭を持った世界は、僕のよく知っている世界だった。


翳りだした世界。

遮光性の低いカーテンが中途半端に開いている。

窓のガラスを通したオレンジ色の柔らかい陽の光が部屋に満ちていた。

しっかりとしたスプリングのベッドマットレスの上で、体を丸めて眠っていたらしかった。

守るように、すがり付くように、両手を抱いていた。その中には、彼女のワンピースがしわくちゃになって「在った」。




ーーあの日、彼女の時が止まったのだ。

彼女をあの日に遺したまま、僕は今どうして生きているんだろう。




声を殺して、慟哭を枕に込める。

殺しきれない熱は、力ずくで抑え込んで。

それでも、きっと声は漏れている。

息を詰めて叫ぶように泣く。

きっととても見せられたものではない。とてもひどい顔をしている。

ぐちゃぐちゃの顔をして、何度でも泣いた。


彼女を、忘れないために。

彼女を望んで、彼女を想って、ぼくだけは、ぼくだけは。


彼女の名前は、呼ばないで。ただ渇望し声を殺して泣く。

とんでもなく迷惑な話だ。


きっとあの日に、ぼくの時間も止まってしまった。

彼女と一緒に、置いてきてしまった。

だから今のぼくはぬけがらだ。




だから、どうか、ねえどうか、ぼくもいっしょに、つれてってよ。

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