最上階から、君へ。
この町で一等高い建造物、7階建てのビルの最上階から地上を見下ろす。
屋上のフェンスの向こう側。そのぎりぎり、一歩でも踏み出せばアスファルトへ一直線。落下していく自分を想像することはたやすい。
靴を脱いでそろえて、かけていたメガネも添えたら、視界は一気にかすんでしまった。そうだ、君からもらったストールも殊更丁寧に畳んで、靴の上に置く。今日は風も少ないから飛ばされることもないだろう。飛ばされてしまっても、何も困らないのだけれど。
君はここから、飛んだという。同じ場所から、飛び立ったと聞く。
この場所に来るのは、今日で何度目だろう。自宅からここまでの経路も、ここへ上る手段も慣れてしまった。
そういえば君は、寒くなかったんだろうか。この場所は平時は風が強く吹く。あの日はとても寒かった。雪こそ降っていなかったが、酷く冷え込んでいたのを覚えている。
僕が覚えている君は、いつも笑っていたように思う。だから、こんなことを君が選んでしまうなんて、僕は気が付くことができなかった。君がそれを選び取ってしまった最期まで、分からなかった。
君が死にたがっていたことも、生きるのが辛いと感じていたことも。
どうして、相談してくれなかったんだろう。そんなことを考えても無駄だ。僕たちは仲が良かった友人ではない。ただ、互いを認識して痛覚を共有していたに過ぎないのだから。
だとしても、こんなに「痛かった」はずなのに、それならば「それ」を選んでしまう前に、「何でもない僕」に相談してくれればよかったのに。
そう思うのが間違いだとしても、結果論だとしても、回りだした思考は止めることができなくなっていた。だんだんと加速していく思考は、僕自身を置いてけぼりにしていったいどこまで回って行ってしまうのか。僕自身も、分からない。
あの日の君の選択のように。
視界が、揺れた。本能的に体は後ろへ下がっていた。背中にフェンスが強く当たる。金網のぶつかって擦れあう音が辺りに響く。その音を聴いたら、息をするのも苦しいことに気が付いた。のどが絞まっていて苦しい。腕から背中にかけてが酷く寒い。寒気が背中を這い上がって、息を詰まらせる。
それが「悲しみ」だということを認識したのは、アスファルトに水玉模様がいくつか見えたからだ。瞬きするたびに、それは増えていく。ああ、僕は泣いているんだと理解してしまったら、一気に感情が堰を切ってしまった。
どうして、連れて行ってくれなかったの。涙が首を絞めて、息ができない。朝焼けが瞼を焼き切って、眼球に突き刺さるみたい。こんなに眩しいんだから涙も止まらないんだ。
また、夜が明けてしまった。
また、僕は飛べなかった。
君の後を、追うことなんてできなかったよ。
また、彼女が落下していくその姿が、うずくまった僕の目の前を通過していった。涙で震え悲しみに痛む僕の腕は、酷く緩慢としていて彼女のスピードに追い付くはずがなかった。
ああ、君はまた落ちていった。
うっすらと、笑んだまま。
僕が君の後を追えないことを、君は知っていた。知っていて、僕に何度も何度もこの光景を見せるんだ。どうしたら、なんて何度も考えたけど、答えなんて出なかった。
ただ、ここに来れば彼女の幻を見ることができる。彼女がここに居たことを、理解できる。彼女がここで僕をずっと待っていて、僕が来たのを見つけるとフェンスを越える。裸足のつま先が屋上のコンクリートの上に立っているのが見える。冷たくないのか、今から落下していく君にはそれはもう関係のないことなんだろうけど。
ねえ、君はずっと僕を、
僕を、ずっと見ている。
それでも、君が僕を見ていてくれるなら、それでいい。君がそこにいてくれるなら、こわくない。
きみが、こわれながら、
ぼくを、みおろ、して、ねえ、ぼくも
きっときみとおなじ、はなを、さかせるんだ。
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