フローリングの水底


 床に、水滴が水たまりを作っている。

 その中に白い手首が、力もなく浮かんでいるように見えた。

 それとも、水底に向かって沈んでいるんだろうか。

 色のない薄い池の中に、白い皮膚。

 表面は水滴をはじいていて、何となく拒絶しているように見えた。


 やめてよ。あんたまで、拒絶すんの?

 その肌すら、俺を拒絶するの?

 あんたに、捨てられるなんて考えたこともないのに。


 浅い水たまりの中に沈んでしまった白い手首は、少しだけ指を動かした。

 その指先は細くて、折れてしまいそうだけど、器用そうに動くことを俺は知っている。

 その実、不器用であんたが自分が放った言葉で傷ついてしまうのをよく見ていた。

 だったら俺に優しくすればいいのに、あんたは一向に優しくなんてしなかった。


 だから、俺は苛立っていた。日常的に、あんたに、自分に。

 あんたと対等に並んで立つことが出来ない自分に、

 あんたにそのまま頼ってもらえない不甲斐なさに、

 あんたと俺を取り囲む世界そのものに、すべてのものに。


 少しだけ動いた、細い指に触れる。ほとんど力は入れない。

 指先で、指の腹で、なぞるように触れた。

 また、あんたの指が震えるように動いて、そっと俺の指を挟んだ。

 手をつなぐでもなく、拒絶でもなく、遠慮がちに俺の指をその指は放すまいと、意思表示をした。


 フローリングの硬さなんて、とうにわからなくなってしまった。

 あんたの指に挟まれた自分の指は、あんたのものに比べると武骨で不格好で、酷く歪に見えた。

 自由な方の手を使って、あんたの顔にかかっていた髪をよけてやる。長い前髪は耳にかけて、髪を梳くように撫でてみる。

 彼が起きていれば、きっと避けられる。

 顔色が悪いあんたの唇がわずかに開いて、細い息を吐いた。

 それは、俺の耳に届く前に部屋の空気の中に溶けてしまった。


 あんたが俺の名前を呼ぶ。それだけで、みぞおちの少し上の方がむずむずしてしまう。

 ああ、苛立ちだって、これは。だから、呼ばないでどうか。

 閉じていた瞼が、ゆっくりと持ち上げられた。

 まつげが頬のあたりに薄い影を作る。

 その陰影からも、目を離せなくなってしまう。こんな自分が、どうしようもなく嫌いで。きっとあんたにはわからないだろうな。わからなくていい。

 だけど、どうか、どうか。

 その指はまだ、放さないでほしい。


 あんたの体に跨る。細い腰の両側にひざをついて、薄い胸の左側に耳をつける。

 心臓の音が、直接頭の中にあふれる。

 鼓動と一緒に、浅い呼吸音が聴こえる。

 あんたが生きている音。

 シャツ一枚の隔たりが、煩わしい。

 布越しに、あんたの匂いを肺いっぱいに嗅ぐ。

 いつものあんたの匂い。香水とわずかな汗のにおい。


 もう一度あんたの匂いに満たされようと、息を吐いたらくすぐったそうに息を詰まらせるあんたの呼吸がダイレクトに聴こえた。

 なんだ、もう起きちゃったのか。


 目を覚ましたあんたの色を失った唇の端は、切れていて鮮やかに色づいていた。

 ほかでもない、俺が手をあげたんだ。


 ふいに首の後ろに腕が回ってきた。片腕だけを引っ掻けて、体を起こす。

 その動作を間近で見ていた。けだるそうにゆっくりとした動作で、あんたはとても苦い顔をして「てめえ、このやろう」と、ひどく汚い言葉を落とした。

 彼の体は濡れていて触れられれば冷たく感じた。

 気化熱で冷えてしまった彼の体を、そっと気づかれないように支える。そっと、壊れないように。


「本当に、面倒臭いやつ」

 彼は体を引き上げて俺の肩口に顎を載せて、ため息をつくようにそう言って、

 少し体をずらしてから、一拍置いて俺の耳を噛んだ。


 がりっという皮膚が破れる音と、少し鋭い痛みが走る。

 背中からまっすぐ脳まで、痛みは貫いていった。


 気が付いたら、視界には見慣れた天井が広がっていて、その中心にはあんたがいた。

 逆光になっていて表情は見えない。

 俺より年上のあんたが、今どんな表情をしているのか、見当もつかない。

 濡れたフローリングに転がされて、背中から濡れていくのが分かった。

 ゆっくりと浸水していく。


 ああ、こうやって、あんたに沈んでいけたらいいのに。

 あんたの冷えた指先が、俺の頬を撫でた。何かを掬うように、愛おしそうに。

 彼は濡れた指先をぺろりと舐めた。甘い、そう言ってから

「なんでお前が泣いてんのよ」


 そんなこと、こっちが聞きたい。

 なんでこんなに苦しいの。あんたがそこにいるからじゃないの。俺を呼ぶからじゃないの。

 なあ、もう放してくんねえかな。

 そうしたらきっと、傷つかないままで、一生痛いままで、俺は。


 やわらかい髪の毛がふわりと揺れて、俺の胸の上にあんたは頭を載せた。

 力を抜いているのはすぐにわかった。

 ああ、さっきあんたの胸の上で同じことをしていたのは、俺だ。

「ああ、これは確かに、悪くない」


 静かに、本当に静かにそう言って、わずかに笑ったのが分かった。


 逃げようなんて、遅かったんだ。

 俺は、もうずっと前にあんたに囚われていた。

 捕まったのは、俺の方だった。

 あんたを手放せなくなって、離れたくないのは、俺の方だった。


「             」

 ああ、もうだったら、あんたの水底まで俺を沈めてくれよ。

 そのままぐちゃぐちゃに、してくんないかな。

 そうしたら、このままあんたも一緒に。

















俺のもんに、なってくれたら。

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