奥様は変幻自在 王国物語3

合間 妹子

馴初め

第一条 上京

― 王国歴1028年夏


― サンレオナール王都



 うだるような暑さの中、質素な紺色のドレスに身を包んだアナ=ニコル・ボルデュックは乗合馬車に揺られながら王都に向かっていた。彼女が生まれ育ったボルデュック侯爵領から王都へは馬車で二時間ちょっと、あまり遠過ぎないので旅費がそうかからないのが幸いだった。


 ボルデュック家は侯爵家とは言え最近の内情は火の車だった。今年の夏は日照り続きで秋の収穫はほとんど望めそうにもない。昨年はイナゴの大群が押し寄せて来たためほぼ全滅、その前は……と考えるだけで気持ちが沈んだ。


 とりあえず王都の伯父宅に滞在させてもらい、貴族学院に通っている弟テオドールの来年度の学費をなんとかひねり出して……その後のことは、何も見通しが立ってなかった。




 アナもまだ母親が存命中は侯爵令嬢らしい暮らしが出来ていた。アナの七つ下の妹ルーシーを産んで以来、体調を崩した母親はアナがたった九つの時に亡くなってしまった。


 父親ジョエルは元々芸術家肌の人でいつも絵を描いたり彫刻を彫ったりで、領地はしっかり者の母親が仕切っていた。ジョエルは愛妻を亡くして以来ふさぎ込み、益々自分のアトリエに引きこもるようになってしまっていた。


 アナは初等科を出たばかりの頃から、昔からの使用人と共に領地の切り盛りをするようになっていた。彼女は幼い弟と妹の母親代わりも務めている。領地の状況は悪化する一方で上向くことはなかった。


 代々ボルデュック家は優秀な医師を輩出してきた家で、アナの弟テオドールも昨年から王都の貴族学院で学んでいる。家族の期待の星である弟には雑事に煩わされることなく、是非とも最終学年まで修めて欲しいアナだった。彼も出来れば王宮医師の職に就きたいと言っている。


 しかし来年度の彼の学費も捻出するのが難しい状況だ。侯爵令嬢としての誇りだけはまだわずかばかり残っているアナは、自分の身を売るまでは出来ないがそれ以外のことなら辞さないという覚悟はあった。頼りにならない父親の作品は売れる時にはポンと売れたりするが、全く当てにできない。




 馬車は夕暮れ時に王都内に入り、乗合馬車の終点に着いた。ここから伯父のリシャール・ゴダン伯爵宅までは歩くつもりだった。辻馬車の代金でも節約したいのである。大した荷物もなかったが、小柄なアナには結構な大きさだった。しかも美しい夕焼けとは裏腹に心の中はどんよりと曇っていたため、彼女の足取りは重かった。


 王都へは母が存命中、まだ貴族らしい暮らしをしていた頃に良く来ていた。アナも良く覚えている。買い物や観劇、音楽会など全て遠い昔の出来事だった。母の兄である伯父を訪ねるのも随分と久しぶりである。夕方になり少し涼しくなってはいたものの、アナは汗だくになりながらやっと伯父の屋敷に到着した。日はもう暮れてしまっていた。


 そこでは伯母のエヴァと弟のテオドールが暖かく迎えてくれた。


「まあ、アナ。知らせてくれれば迎えをやりましたのに」


「いえ、伯母さま。何時になるか予定が立たなかったものですから」


 既に世話になってばかりの伯母にあまり迷惑は掛けられない。


「姉上、また少し痩せられましたか? 無理しないで下さい」


 そう言うテオドールも新学年に備えて勉強のかたわら、夏休みの間ずっと働いていた。


「心配無用ですよ、テオ。貴方は益々背が高くなりましたね」


 しばらくすると伯父リシャールと従兄のフランシスも帰ってきて、皆で賑やかに夕食をとった。久しぶりにお腹いっぱいご馳走をよばれ、旅の疲れもあってアナはもうくたくただった。


 しかし、この後学費のことについてテオドールと話し合わなければならない。テオドールの配達や家庭教師の収入に、アナが実家から持ってきた金を合わせても少々来年の学費には届かない。伯父夫婦には数年前にもうかなりの借金をしていて、まだ返せていない。


 アナは彼女に与えられた部屋でテオドールとお金を数えていた。


「テオ、夏休み最終日まで働けますか? 新年度の準備は万端ですか?」


「姉上、勉強のことはご心配なく。お陰様で学問を修めるのは楽しいです」


 ああ、テオはやっぱり我が家の希望だわ、とアナは目を細めた。その時部屋の扉を叩く音がした。フランシスだった。


「アナ、ちょっといいかな。ああ、テオも居たのか」


「じゃあ僕はそろそろ。姉上、お疲れでしょう。ゆっくり休んでください。フランシスもお休みなさい」


 そしてテオドールは部屋を出て行った。


「アナ、仕事を探しているんだろ?  夜の仕事になるけど、俺たちの行きつけの飲み屋でピアノ弾きを募集しているよ」


「ピアノは少々弾けますが、飲み屋で演奏するような曲目は存じません……」


「飲み屋と言っても客は貴族も多いんだよ。王宮騎士の行きつけだからね。給金は結構良さそうだし、客層も裕福だから心付けも沢山もらえると思う。短期で入れるには良い仕事だよ」


「こんな世間知らずな私でも出来るでしょうか?」


「ピアノなら少し練習すればいいさ、アナなら楽勝だよ」


 幸か不幸かアナは父親の美術の才能は引き継いでいない。彼女は曽祖父の魔力を受け継いで生まれた。そして母方の祖母にピアノを教わったため、音楽の才能もそこそこあった。


 ボルデュック家の経済状態が悪化しなければ、アナも今頃は貴族学院を出て王宮魔術師として働いていたかもしれない。


 田舎のボルデュック領では魔術師など自分の周りにいないので、アナは自身の魔力がどの程度なのか見当もつかなかった。魔術師として使い物になるくらいの魔力が備わっているのだったら是非学院で学問を修めたかったが、今となってはそれも夢に過ぎない。


「紹介状ってほどでもないけど一筆書いておくから、明日にでも訪ねてみなよ? 女将の名前はイザベル。頼りになる女性だよ。いわゆる庶民ばかりの飲み屋ほどガラは悪くないけど、身分は伏せておいた方がいいだろうね」


 フランシスの言う通り、ピアノ弾きならアナの出来る他の仕事よりも割りは良いだろう。


「そうですね。あまり仕事も選んでいられませんし。フランシス、ありがとうございます」


「アナもその歳で苦労が絶えないね」




***ひとこと***

フランシス君、もっと他の仕事をアナに紹介してあげて! 侯爵令嬢が飲み屋だなんて絶対何か揉め事に巻き込まれちゃうヨ! と心配症な作者は思うのです……

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