エーデムリング物語 =番外編=
わたなべ りえ
フロルの宿敵
フロルの宿敵・1
フロル・セルディン・ド・ウーレン……彼女には、宿敵がいた。
ウーレンに嫁いで、早一年、赤い砂の大地にもなれた。異国の姫を見るきつい民衆の目も、だいぶ和らいだ。かつてのウーレン王妃候補・リナ姫のいじめにも、三回に一回はやりかえすようになった。
しかし、どうしても『アヤツラ』だけは、なじめない。宿敵であった。
フロル妃の宿敵……それは、馬である。
「フロル様! 馬が眠っています。鞭です! 鞭、鞭! あぁ、だめです! そんな軽く叩いては!」
乗馬指導のウィードが、いくら叫んでも、フロルの鞭は、ペチペチ音を立てるだけで、馬の眠気を覚ますことができない。
「
ウィードが我慢しきれず、馬に近づくと、フロルの馬は、ウィードの手の届かぬところまで、トコトコ逃げる。それは、まったくフロルの意思とは違う方向だ。
「だめです! 手綱を引いてください。あぁ……まったくばかにされています 」
フロルだって、ばかにされたいわけではない。早く上達して、王族パレードにも参加したいし、ウーレン王と遠乗りにだって行きたい。
愛する夫は、乗馬練習をいやがる妻に、いつも笑ってこう語った。
「赤沙地海岸は、馬で走ると気持ちがいい。もう少しおまえが馬に乗れるようになったら、一緒に行こう」
そうよ……。ギルティと二人で、海岸を走るのよ。
フロルは、うっとりと夫の横顔を思い出した。二人乗りで馬に乗ったら、さっそうと走る彼を見ることはできない。一人で馬に乗ったら、彼はあっという間に見えなくなる。二人で馬を並べて走れたら……。
なのに、どうして『コヤツラ』にこんなになめられなければならないの? いいかげんにして!!
突然、馬は思いっきり尻っぱねし、フロルはあっけなく落馬した。
エーデム族であるフロルは、つい数年前まで、「馬」という動物をよく知らなかった。
エーデム族は、心話を使える生き物を使う。ムンク鳥や鈍竜は、心を交わせる生き物であり、エーデム族に心から忠誠を誓って働いてくれる。
それに比べると、馬は交わす言葉を持たない。多分、交わせる心など持ち合わせていないのだ。
近寄ると、いきなり噛みつこうとするし、何度も蹴っ飛ばされそうにもなった。
野蛮で、冷酷で、人をばかにして、それでいて強い人には媚を売る。
人に対する態度の変わり身は、あまりに見事で顎が落ちそうになる。フロルに噛みつこうとしていた馬は、ギルティには鼻面をすりよせて甘えるのだから。
それはまるで「恋人は私よ」と、主張しているようなものだ。
いけ好かない! かわいくない!
ま・さ・に・宿敵!!!
ウーレン族やリューマ族は、どうしてこんな動物を扱えるのかしら? フロルは不思議でたまらない。
特にウーレン族にとって、馬は切っても切り離せない。
ウーレンの軍隊は、ほとんどが騎馬で占められている。オアシス間の移動も、馬なしでは考えられない。娯楽も、競馬・乗馬・狩と、まさに馬中心。つまり、フロルにとっては、宿敵だらけである。
さらに追い討ちをかけて、愛する夫も猛烈な馬好きなのだ。
ギルティの態度を見ていると、ついつい聞きたくなってしまう。
「愛馬・クリムゾンと、私。……どっちが大事?」
でも、聞けない。
「クリムゾン」
といわれそうで……。
今朝のフロルは最悪の気分だ。
ギルティが、乗馬の上達具合を見ると言い出したのだ。
「ひえぇぇぇ……止めてよぉ……」
フロルは天を仰いだ。彼女の気持ちとは裏腹に、雲一つないいい天気だった。
ところが、厩舎に行ってみると、ウィードが情けない顔をして言うではないか。
「ギルトラント様、せっかくお越しいただきましたのに、申し訳ありません。フロル様の馬が、
フロルにとって、今日ほど自分の馬がかわいく見えたことはない。ギルティの影で、やった! と、ポーズをとった。
しかし、せっかく口元で握り締められた両手も、ギルティの一言で、力なく緩められ、顎とともに落ちてしまった。
「では、クリムゾンを出そう。今日は使う予定もない」
黒髪が多いウーレン族の中で、王族の濃い血を引く者のみが真っ赤な髪を持つように、黒馬達の中で、クリムゾンだけが赤毛だった。
燃える炎のような鬣は、先に行くほど色が抜け、プラチナ色に輝いている。さらに利発そうな額には、くっきりと流星が浮かび、赤褐色の瞳がキラキラと輝いている。足は四本とも球節から下が白く、ウーレンの黒馬の中で、まったく派手な存在だった。
しかし、クリムゾンは、その容姿が飛びぬけているだけではない。速さ・持久力・力強さ・飛躍力・賢さすべてにおいて、他の馬を圧倒していた。
そしてこの馬は、ウーレン王・ギルトラント・ウーレンその人の愛馬であり、幾多の戦いで王と運命をともにしてきた友でもあった。
と同時に、並みいる馬の中で、最もフロルが苦手としている馬でもあった。
フロルが近寄ると、クリムゾンは「ブヒブヒ…」と鼻を鳴らし、白目を見せた。明らかに敵意丸出しの態度に、フロルはおびえた。
こいつに乗って、ギルティに練習の成果を見せなければならないのかと思うと、フロルは生きた心地がしなかった。エーデムリングの力にでも、すがりつきたい気分に陥った。
だが、乗ってみると驚きだった。クリムゾンは大人しくフロルの命令に従った。
クリムゾンの歩様は大きいが、ゆったりとしていて、フロルはしっかりと座っていることができた。安定して乗れることで、体からむだな力も抜けて、リラックスできた。
スムーズな
「すっかり上手くなったね、フロル。もうすぐ一緒に遠乗りにも行けそうだ」
ギルティの笑顔と誉め言葉に、フロルは目じりが熱くなった。
馬に乗っていて、こんなに気持ちがよかったのは、初めてだった。
なんという一体感! 自分の思い通りに馬が動いてくれる喜び! 馬から伝わってくる体温がいとしく思えて、フロルはクリムゾンの首に愛撫した。何だか、こいつがとってもかわいく思えた。
その時、衛兵が一人やってきて、ギルティに何かを伝えた。
「フロル、どうやらお客様らしい。そのまま練習を続けていなさい」
ギルティはそういうと、衛兵とともに馬場を去った。
フロルにとって、ウーレンにきて今日ほどいい日はなかった。……はずだった。
ギルティが見えなくなるその瞬間まで……。
「驚きました! フロル様、こんなに上達しているとは……」
興奮しているウィードの周りを、クリムゾンは輪乗りで駆歩した。
「……もうよろしいでしょう。フロル様、
「ウィード! 止まらないの!」
クリムゾンは、ますますスピードを上げていく。
「キャアア!」
「……!!! フロル様! 叫んではだめです。馬がますます暴れます。おーら、おーら…」
落ち着かせようとするウィードの声さえもばかにするように、クリムゾンは輪乗りをやめて暴走した。
「フロル様!!!!」
クリムゾンは、鬣にしがみついているフロルをそのままに、ポーンと埒(らち)を飛び越えた。
そしてそのまま、疾走し、砂漠の彼方へ消えていった。
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