ヘタレの覚悟
ノックされる音が響いたのは、リューク・ウィンドリー侯爵の静かな執務室。
リュークは短く返事する。
「旦那様」
「マーサどうした」
従者の母で邸の古参の使用人であるマーサがひょいと入ってきて、お辞儀もそこそこにおおらかな笑顔で用件を話しはじめる。
「これから私は町に行きます」
「気をつけて行けよ」
もう歳である。
けれど、それを言いに? とリュークはペンで紙にメモをしつつ紙を捲ったタイミングで顔を上げる。
「奥様が一度も町にいらしていないということで、ご一緒したいのですがよろしいでしょうか?」
マーサの後ろにディアナがちょこんと立っており、ばっちり目が合った。
ペン先が紙を突き抜けて机に刺さった感触がしたが、それどころではない。
ガタガタとリュークは慌てて立ち上がった。机で足を打った。
「奥様に一目でもお会いしたいと皆言っておりまして」
「そ、そうか」
「リューク様、落ち着いてください」
不意打ちはまだよくない。
従者に囁かれてちょっと落ち着く。無様な姿を見せられるか。
「行っても、いいですか……?」
しかし、許可の言葉を出さなかったためかおずおずといった感じで当のディアナが尋ねてくる。
許可などいらないのに。
「うふふふふお可愛らしい」
「母さん」
「ごめんよティム、ついねぇ」
従者がそんな様子のディアナに感想をもらした母親を嗜めているが、意識の端でリュークは同意する。
「もちろん、行くといい。馬車の用意を」
「承知いたしました」
「いいよ、ティム。私がやるからうふふふふ」
「あ、ありがとうございます」
「いや、――気をつけて」
「は、はい」
「うふふふふ」
「母さん笑いを止めて」
なぜか笑いが止まらないままのマーサと共に、彼女は去っていった。
ぱたん、と軽い音を立ててドアが閉まる。静寂に包まれる室内。足音が遠ざかる。ゆっくりとリュークは椅子に腰かけ、背もたれは使わず机に肘をつき手を組む。
「――温かくしてとか言ったほうが良かったか? 今日は寒くないか? もう時間が遅くないか?」
「温かくなされてましたよ。気温は昨日ほどでは。雨が降るかもしれませんがあと数時間は後でしょう、降ったとしても馬車ですから。時間はまだ夕方にさしかかるかさしかからないくらいです。母が一緒ですから暗くなる前にはお帰りになるでしょう」
湧いて出た疑問が全部従者によって答えが返ってきた。
「そうか」
「そうです。それより、ですね」
「なんだ?」
一転して安心して背もたれにもたれ手を離した書類を引き寄せていると、
「部屋、見られましたね」
「え?」
「剣ですよ」
こちらに戻ってくる従者が言ったことに一拍置いてリュークは部屋を見渡した。
邸内の壁に取りつけ飾っていた武器類はその数の多さから、嫁いでくるディアナのことを考慮して取り外した。
そうではあるが、この執務室だけは未だ片付けられることなく剣が飾られ槍が飾られ剣が飾られている。
他のものが片付けられた関係で、この部屋だけは最近になって増量されもした。
壁一面が交差されたりした剣だらけだ。執務机の横にも実は三本かけられているのだが、それは見えない位置。
しかし、ドアから覗いただけでまず、向かいに剣がみえるはず。それもかなり、デカい部類の存在感ありすぎる剣。
おまけに応接間なんかではないので装飾剣ではなく、おもいっきり実用的なやつ。
(やってしまった……!)
普段の光景すぎて、ディアナにばかり気をとられて完全に気がついていなかった。絶対見られた。絶対見過ごされていない。
「それほど驚かれていませんでしたね」
いや、今思い出すと翡翠の目は真ん丸になっていた気がする。
それもまた可愛……ではなく。
「引かれた、か」
「考えすぎですよ。でもそれほど奥様が抵抗ないということですと、多少邸内のものが復活できるのではありませんか?」
「あ」
その言葉で思い出した。
「そういえばだな」
「はい」
「この邸に武器類が飾られていたことをミアから聞いていたらしい」
「ミアに、ですか」
「ああ」
「すでに」
「うん」
従者が何度も確認してきてから黙った。
リュークは書類をばさりと処理済みの他の紙の束の上に重ねたときに横目で見てみた。そうしたら、
「ミア……っ」
従者が妹に怨嗟の声をあげた。
邸内に飾られていた武器はもしものことを考えて特殊な構造で取り付けられていたわけで、その外し方を知っている者は少ない。
で、その取り外しを先導して奔走していたはずの従者は偶然バレることはよくても、自分の努力が無駄になっただろうそのバレ方は許せなかったようだ。
「俺はとっさに数年前の模様替えのときだとごまかしてしまった」
「なぜ中途半端にごまかしたのですか」
「思わず」
思わず。とっさに。不意打ち。
最近そんなことばかり言っているような気がする。とふいに気がつく。
メモの紙はインクがこれでもかというほど滲み、やはり突き破れていてペンが自立していた。ペンを引き抜く。ペン先が駄目になっている。
横から従者が代わりを差し出してくれていた。
「なあ、ティム」
「何でしょう」
「俺はこんなに自分が情けない男だとは思っていなかった」
「え?」
「彼女が笑っていると嬉しい、それさえあればいいような気さえする。だからといって、直視はできない。目がろくに合わせられない」
「……それさえあれば……現状に満足しすぎていませんか」
「表面はな」
本気で満足しているか、となれば違うと迷いなく首を横に振る。
彼女に会ったときの歓喜は欲はこんなものではない。彼女が欲しい。視線も笑顔も気持ちも、全て。
しかし、気持ちが逸った。
「俺って即行結婚するの向いてないよな」
阿呆か、とぶっ叩いてやりたいくらいだ。
「今さら気がついたのですか、あんた」
「今さら?」
傍らに立つ従者を見ると声と同じくして呆れた顔をしている。
「そうですけどね、そういうことは言ってはいけませんよ。まさか後悔とかはなされてはいないと思いますが」
「後悔? 歓喜してるくらいだ。ただなあ、距離を一気に詰めすぎたよな」
「ええおっしゃる通りです」
「でも、俺はあのときに何度戻っても同じことをするだろうな。馬鹿みたいに。焦って、同じことをする」
彼女を誰かに渡すことなどあり得ないと。同じことをする。
「で、悩む」
こうして執務室で、自分の行動を悔やむ。結婚したことではない。それはあり得ない。どうせそれは目指すべきゴールだ。
結婚してからの行動を悔やむ。
どうしてあそこでこうしなかったと。
いつの間にか手は止まっていた。仕事が手につかない。
「リューク様がご自分がヘタレだと思われる一番の要因は何ですか」
「ヘタレなんて言ってない」
「いいから」
おい敬語。と思ったが、昔に戻ったようで懐かしい。乳兄弟である従者とはまさに兄弟のように領地を駆けずり回り遊んだ。
どっちかと言えばリュークがいつでも引っ張って、もとい引きずり回していたのだが、このときばかりは有無を言わせぬ強気な促しに抵抗せずに思考を巡らせる。
「彼女が好きだと伝えられないことだ」
「ですね。根幹です」
一秒も置かずに肯定された。当たり前だ、今頃か、阿呆か。というような目だ。
こんな目を向けられたことがあったろうか。なかった。
それほどなのだと、苦笑したくなった。
「なあティムよ」
「はい。今度はどんな弱音ですか?」
「おまえ今日は辛辣だな」
「私はリューク様の
新鮮さはありましたけどね、良い新鮮さと良い変化というものではありませんよ、弱気は。とのこと。
「ああ、だから俺はやめる」
背もたれにもたれきって椅子を回し、従者に正面を向ける。
「身体なんて動かそうと思えば動く。口だって動く。声も出る。顔を合わせられないはずがない。彼女と目が合うことは何にも増して幸運なことだからな。そうだろ?」
「……いえ、あの最後はリューク様の感覚なので知りませんが。そうです。どこまでも強気で行動的なリューク様は、どこに行ってしまったのでしょうかね」
とぼけたように、従者はあらぬ方を向いた。
リュークは口角をあげ、笑った。
「俺はやるぞティム。俺はこんな男じゃあないからな」
「……遅いですよ、リューク様」
従者も少し笑った。
宣言し、意を完全に固めたリュークは似合わないと自覚している弱音を聞いてくれた従者。彼が突如頭を下げた。
「使用人一同リューク様とディアナ様のお幸せを願っております」
「ティム、」
「そしてリューク様ならば奥様をお幸せにできる方であると知っております」
そうして、顔をあげた。
その真剣そのものの顔に、ディアナと出会ってから彼に相談し見せてきた姿が甦る。
おもむろに口が動いたのは、ほぼ無意識だった。
「ティム、一回俺を殴れ」
当然、従者はぽかんとした。
「……はい?」
「俺を殴れ」
「なぜ、いえ、急になぜですか?」
「おまえに情けない姿を見せ続けた今までの俺を殴れ」
「そういう解決方法やめた方がいいと思います。どういう思考回路ですか、私の役目ですからこれからのことが期待できるのであればお気になさらず」
「いいから殴れ」
「嫌ですよ。そもそも反射的にやり返してくるでしょうリューク様」
「どんな野蛮人だ俺は」
中々承諾しない従者。
こちらも譲れない。
「俺のけじめだ」
「そういうところは男前ですねと普段なら言いたいのですがね、それなら奥様にしてもらうことが一番の筋……分かりましたよ、散々ヘタレなレアな姿を見せられて胸焼けしたお詫びとして殴って差し上げます」
「よし来い」
立ち上がって目力で押せば、従者はとうとう観念した。
「……いいですか? さっさとやらせて頂きますよ」
「ああ」
リュークが返事して十秒。ひとつ息を吐いた従者が右腕を振りかぶりゴッという鈍い音が響いた。リュークの頬には痛み。
静けさが、満ちる。
従者が使った手をぷらぷらと振って、こちらを窺っている。顔が少しばかり横にずれたリュークは顔の位置を戻して頬を一擦り。
「ティム、おまえ」
「やり返さないでくださいよ」
「おまえパンチ弱くないか?」
「何発か行きましょうかー?」
「十分だ」
「……冷やすものを、持ってきます」
「いやいい」
「そういうわけにはいきませんよ。取ってきます」
さっと従者は部屋を出ていった。
一方じんじんとする左頬を持つリュークは仕事を進めるために椅子に座り直す。
「ヘタレか……二度と言われないようにしないとな」
独りごち、固めたばかりの決意を確認。
「――だが、彼女の気持ちが分からないのは怖いな」
こんな男をどう思っているのか。
初めて領地にディアナと繰り出したとき、彼女は言った。
――「わたしは、ここに来てよかったと思います」
あれは……。
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