失敗
大幅に予定を越えて帰ってきたことも手伝い、山賊討伐はすでに終えられていた。
リュークの元には要請要件処理済みを示す報告書があった。
「礼を言わなければな」
領民の不安は拭われた。
畑も一部追い立ての関係上で荒らすに至ってしまったところもあるそうだが、あっけらかんと復興に取りかかっているとのことだから心配はないだろうが、
「様子を見に今日、は無理だな」
どのくらいかは見ておいてもよいだろう。意外と大きな損失かもしれない。
片手に束ねられた書類を持ち廊下を歩き目を通しながら思案する。
「持ち出せる書類はあっちで片付けたが、こっちには溜まっているだろうならな。今日は書類漬けだ」
「リューク様」
「ん?」
「リューク様」
「なん、」
止まれということかと解釈して、名前を呼ぶしかしない従者を何事かと振り向く。
「だ――」
後ろ目測四メートル。
窓からわずかに差し込む太陽の光で髪が柔らかな色味となっていて、軽く結われて深い緑色の絹のつやつやとしたリボンが垂れている。
昨夜は閉じられていた翡翠の目と一瞬合ったが、逸らされる。
だが、そんなことは気にならなかった。おそらく不意打ちなこともあって、そのままであればさりげなくそうしていたのはリュークだったかもしれないからだ。
ドレスは今朝届いたばかりというあれだろうか。若草色のどちらかといえば可愛らしいデザインだ。少しばかり緩い箇所がある。
ドレスもそうだが、装飾品の類も揃えたいなとその姿を見て考える。足元を見て、ああ靴もだ、とも。
すっと身を引いた従者につつかれる。
何だ。と見やると目線だけで示される。言わずもがな、妻になったばかりの少女だ。
「リューク様からお声をかけになられた方がいいかと」
なるほど。よくよく様子を窺うと、身体の前で握り合わせられた手が所在なげに少し動きがあり、目も落ち着かない。
彼女が慣れ親しんだ邸ではないのだから、仕方ないか。
リュークが促された通り何か言おうと、声を出す直前ではた、とした。どういう面をするべきか、どう接するべきか。どの距離感で。
その結果、声も顔もおそらく無になった。
「昨晩は、よく眠れたか?」
「は、はぃ」
語尾が消えそうな声に顔をしかめそうになった。もちろん、彼女の返答に問題があるはずなく自身が失敗したと思ったからだ。
「それはよかった」
軌道修正しようにも応じることにいっぱいで考える暇がない。これが社交界であれば余裕であるというのに。白々しい話題やくだらない話題も適度に繋げることは可能であるはずなのに。
会話が途切れ、沈黙が流れる。
チュピピピ、と何の鳥かは知らないが窓を隔てて鳴き声がはっきりと聞こえてくるくらいだった。
(話題話題話題)
聞くべきこと触れる話題などそこらに転がっている、はずだ。
しかし何から。
今日は今度
「りゅ、リューク様」
ディアナが、リュークの名前を呼んだ。
表情筋を掌握する術を覚えていて正解だった。瞬時にリュークは表情筋を引き締めた。緩ませないために。
「あの、……昨夜は運んでくださったとお聞きして……それに、このドレスや靴も、」
ありがとうございます……と一生懸命さが窺える様子で、頬を赤らめてちら、とこちらを見上げた妻の威力といえばすさまじいものだった。
(まずい、)
「あの、だ、旦那様、とお呼びした方がよろしいのでしょうか?」
わたし、分からなくて……とリュークが黙っていることに不安になったのかやっと合ったばかりの目が逸れる。
「た、」
(助けろおおお)
リュークは、少し離れたところに壁の一部という顔をして控えている従者を顔を動かさずに見る。
(俺の前に可愛すぎて眩しい生き物がいる!)
(まともに喋れん!)
(どうにかしろ!)
おそらく視線に込める思いが強ければ相手に伝わるという摩訶不思議な能力が存在すれば手にしていたであろうほどに、リュークは強く従者に視線を飛ばした。
従者は視線を気がつき瞬きを一度二度。やれやれという仕草を最小限に行った。
「――恐れながら奥様、本邸では呼び方が自由となっております」
「じ、自由ですか?」
「はい。何しろ私含め使用人にも名前を呼ぶことを許してくださるお方なので」
すごく立派そうに言っているが、リュークがかしづかれるとかいう堅苦しいのが嫌なだけだったりする。
マーサが旦那様と呼んでいるのは、三男坊である意味奔放だったリュークがまさか家督を継いで立派になりましたねという感極まりが表れているだけだ。
しかしそんなこと露ほどにも知るはずない彼女は。
「では、わたしもリューク様とお呼びしてもいいのですか?」
「もちろんです。ねえリューク様」
様、にかなり力を入れて呼ばれてリュークははっとする。従者は間を持たせてくれたのである。
「ああ」
言葉少なに肯定すると、それだけ言うのにも淡々とした感情が表れない声になった。のどを疑う。
「あの、ではり、リューク様」
ディアナが大きな瞳でリュークを見上げたり視線をちらちらと微妙にずらしてしまったりと小動物的行動を見せているが、リュークにはそれを注視している余裕がない。
このままでは言葉数少ない=最低限のことしか話さない男。
無駄話をしないと言えば聞こえはいいが、夫婦間でこの省きようは阿呆で冷徹の領域だ。
せめて、声だけでも――と次に自分が返答すべきときに備えることに集中している。
幸いにもディアナは言うことに迷っている様子だ。
「えっと、」
「ディアナ様、言いたいことをどれからでもどうぞおっしゃられませ」
妖精に気を取られていて認識しそびれていた、彼女が伴っている
姉のように女主人を優しく促すそれで、ディアナは落ち着いたようだ。
「わたしは、お邸でなにをすればいいのでしょう」
まさに所在に困っている言葉そのもの。
なにを?
リュークは質問は違えず聞き取った。考えたのは一秒にも満たない時間。不自然な間をあける必要なく、口を開く。
「ただ、あなたはただ健やかにゆったりと過ごしてくれればいい」
慣れない土地だろうから、なおさらに。
こればかりは心の底から自然にすっと出て、ディアナを真っ直ぐ見ることも出来ていた。
直後、彼女もまたリュークに視線を定める。
「はい……」
「普通にいってくださいよ普通に」
「普通ってなんだ! 突然でどんな面するか迷ったんだ! 声も思うように出なかった!」
「どうどうまずは落ち着いてくださいリューク様」
「あああぁしくじった俺はしくじっただろ!?」
あのあと妻とお付きの侍女との場を颯爽と後にした主従の姿はリュークの執務室にあった。
唯一、壁にかけられた剣も隅に刺さっている槍も立てかけてあるそれらが片されていない部屋だ。
「緊張したんだ悪いか!」
リュークは荒れていた。
「リューク様慎重すぎですよあれは」
「慎重でなにが悪い! やり過ぎたら取り返しがつかないんだぞ!」
「わりとやり過ぎていることの方が多いですが」
手にあった書類は部屋に入った瞬間ぐしゃぐしゃになりそうだったので従者に取り上げられた。
現在、机をダンッと一度だけ叩いて我慢する。外に響いてひょんなタイミングで聞かれないとも分からない。
「だいたいですね、声が思うように出ないとは社交界に出立ての――いえ、それはいいのですがそれにしても冷たすぎます声が」
「どれくらい」
「リューク様のご友人の所領、ドゥライト領の冬くらいですかね」
ドゥライト領は北部の土地で、ウィンドリー領が秋だというときにはあちらはすでに雪が降り、積もっている。冬になると肌を直接出し続けると凍るとか凍らないとか。
リュークは凍りついた。
「……」
「とは冗談で、状況に当てはめてみますと、義務でとりあえず結婚しましたあなたに興味はありません。くらいには冷たかったです」
「……一緒だろ……」
両手で顔を覆った。くそ、従者こちらを見るな、だ。
穴があったら入りたい。
可能ならば時間を戻したい。挨拶くらいから入る余裕はできる、はずだ。
「本音は文通からいきたいくらいだ」
「同じ邸内なのにですか、という前にご夫婦ですよ」
「夫婦っていう響きいいな」
「それはよかったですね」
そう、あの妖精のように可憐な彼女はリュークの妻なのである。自分の邸にその彼女がいて歩いて、話しているというのは随分と不思議な心地だ。
「俺は、結婚したんだな……」
「今実感してしみじみ言うところですかそれ。あなたの指にあるものは何ですか」
結婚の証。はめられた宝石は最高の技術でカットの施され、透明。さっき会ったディアナの小さな手にも同じデザインのものが光っていた。
「リューク様、奥様に結婚したことを後悔させたいのですか?」
「いや、させない」
「どうぞそのご覚悟があるのであれば会話くらい普通になさってください。ほら、今くらいでもいいと思いますよ」
従者は大層な無理を言った。
ふざけるな、今はおまえが相手だろう。彼女相手に――
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