第86話 あの日の分の恩返し





 近所に住む70代のご夫婦は、ちいちゃんのことをとても可愛がってくれている。



「あら~、かわいいねぇ、新しい靴かな?」


「おっ、ここまで歩いてきたな~、すごいすごい」



 ちいちゃんはいつも立ち止まって、しばらく見つめたあと、お宅の前の花壇で遊ばせてもらう。



「すみません、お花もらっちゃって」


「いいのよぉ、こんなのでよければ!3本ばかでごめんねぇ」



 毎回のようにちいちゃんが気に入ったお花を切って持たせてくれる、明るくて素敵なご夫婦だ。



「お名前なんていうの?」



 奥さんは認知症認定はされないものの、知力の低下が見られ、新しいことが覚えられなくなっているらしい。



「ちいちゃんです」



 わたしは毎回、笑顔で答える。30分話せば、5回ほど聞かれる娘の名前。そのたび、笑顔で答える。連日顔を会わせようと、それはお互い変わらない。



 旦那さんは時折つっこむことはあるが、基本は奥さんのその様子になにも言わない。



 奥さんの事情を知っても、はじめは受け入れられなかった。


 幼い頃、お世話になった優しいご夫婦。わたしのことももちろん覚えていないし、娘のこともたくさん聞く。


 そのことにストレスを感じて、会わない時間を選んだこともあった。



 でも、夫婦ともにちいちゃんのことをとても可愛がってくれているのが紳士に伝わる。



 奥さんは現状、うまく嘘をついたり本音を隠すことは苦手らしい。ゆえに、娘への言葉が本心であると思うと、わたしは避けたことを猛烈に後悔した。




 ちいちゃんを見つめる夫婦ふたりは、待ち望んだ実の孫を見るようで…。



「お家、奥の家でしたっけ?」



 わたしはハッとした。


 今まで幾度となくされてきた質問の答えが、彼女さんの口から出たのだから。



「はい」


「これ、キャベツ、お昼に食べてくださいな!」



 家庭菜園で採れたてのキャベツを、自宅玄関まで走って持っていってくれた。



「すごいですね!運動神経抜群じゃないですか~!」


「なによぉ、田舎の土まみれのばばあはこんがなんだて!」



 それはまさに幼いあの日、おやつをくれていたあの奥さんそのものだった。


 ちいちゃんのおかげだろうか。



 そう思うと、感謝の気持ちでぎゅっとだきしめずにいられなかった。

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