第56話 母になる2





 ちいちゃんに初めての風邪を引かせてしまったわたしは、洗礼のように朝までだっこし続ける日々を過ごしていました。



「みんな仕事…少しでも眠れる時間があったらなぁ」



 お昼寝も含めて3時間ほどの睡眠時間。寝不足と自身の風邪でストレスがたまる。それが6日ほど続いたその日、わたしはついにそのストレスの矛先を、大切な娘に向けてしまったのです。



「あー、うー、うっ、あー」


「だめだって、ねぇ、それやめて」



 何度注意しても赤ちゃんにわかるはずはなく。



「やめてってば!!」



 バシッ




 遊びたくてわたしに手を伸ばしてきた娘の、その小さくて弱い手をはねのけて。


 娘は驚いた顔をしたあと、その驚きに押されたようにしりもちをつき、おしりのしたにあった絵本でバランスを崩して、なだれ倒れたのです。



 何が起きたのかわからないような表情。その後、思い出したように泣き出したのです。



「…う、うーー…あっ、あっ、アー!!!!」




「…………」




 わたしは数秒、思考が停止していました。




『頼ってね』




 かかりつけの小児科で、おじいちゃん先生に言われたひとことが脳内を反芻して。



「…でも、どうしたらいいかわからないんです」




 わたしは呟いたあと、すぐに娘を抱き上げました。




「ごめんね、ごめんねちいちゃん。ごめんね、ごめんね」



 泣き止んだあとも、延々と謝り続けました。




「『おかあさん』になれてなくてごめんね…、上手にできなくてごめんね…、当たってごめんね…、ちいちゃんのこと大好きなんだよ、いやなことしてごめんね、遊びたいだけだもんね……」









 ────それからわたしは、どこか吹っ切れたように帰宅した妹に娘を頼んで30分程一人の時間を作りました。



 寝るでも食べるでもなく、ただひとり泣きながらぼーっとした30分。




 その後、ちいちゃんをだっこしてお散歩へ。風邪だからと避けていた外の世界は、鮮やかで澄んでいる気がして。



 だんだん冷静になる自分がいて。



「あとでおとうさんに報告しよっか。かあさんちょっと叱られなきゃね」










「───…という感じでして…」


『…………』



 沈黙が怖い……。



『帰る』


「え?」


『家族が一大事っていって、帰る!』


「仕事しろ!!!!!」



 夫は怒らずに、ただ一言、負担かけすぎてごめん、と謝りました。



 男は単純、なんていうけど、わたしも結構単純で、その一言でなんだかすこし荷が下りたような気がしたのです。



『本当にダメなときはいってね、すぐ帰るから』



 夫はせめてと気を利かせたのか、仕事から戻った母が「なにかあったら言ってもいいんだからね」と大好きなプリンをくれました。



 …ああ、これですこし『母』になれただろうか。



 プリンの甘さがまたストレスを溶かして、娘の愛しさへと変換していく。



「あー」

「ちいちゃんはまだ食べられないよ~、かわいいなぁ」

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