朝
猫之 ひたい
朝
雨の日曜日はどこかうだつが上がらない。
せっかくの休日ではしゃぎたいのに、外はそれを良しとしてくれない。どんよりとしたねずみ色の雲と幾重にも重なりながら落ちていく雨水が、まるで強大な壁のように立ちふさがっている様な感覚を受けてしまう。雪じゃない分まだマシかもしれないけれど、今は十二月。寒いことには変わりはないし、雨の方が雪よりもじめじめしたイメージがあってあたしは嫌いだった。
「もう起きてたのね」
そんなわけで外に出て行く気分にもならず、パソコンの中の五線譜に気ままに音符を乗せていたら、雨音に混じってそんな声が後ろのベッドからから聞こえてきた。
「だいぶ前にねー」
キーボードは打ち続けながらあたしは声だけで返事を返した。
狭いワンルーム。床に散らばった缶チューハイの空き缶とパソコンデスクに、二年前に買ったパソコン。そしてセミダブルのベッドと小さなストーブを無理矢理に詰め込んだ、築四十年のおんぼろアパート。
彼女に言わせるとまともな人間が住むような部屋じゃないと言うけれど、都心にあって駅チカで、ついでにコンビニが近いのに家賃は激安というわけであたしは気に入っていたりする。
彼女というのは今声をかけてきた、まだベッドにいる人のことだ。ちなみにその声の主はようやく冬の寒さに気がついたのか、あたしが目を向けた時には一旦起こしたであろう上半身を追われる様にベッドに引き返した後だった。
「……今日、寒くない?」
「寒いよー。外は雨が降ってるし、天気予報は今月で一番の冷え込みって言ってた。だから、あたしは今こんな格好してる」
ベッドから、まるで巣穴に入っているプレイリードッグのように頭だけ出して聞いてくる彼女にあたしは両腕を広げて見せた。ランニングシャツに普通のT-シャツを重ね、その上に厚手のセーターを着込み、トドメといわんばかりに昨年買ったフード付きのコート。もちろん首周りが寒くないようにマフラーだって巻いている。本当は手袋もつけたいのだけれど、キーボードを操作する関係上それは諦めた。
「……貴女が変人なのは知っているつもりだけど、今日はまた一段と変わった格好してるのね」
「残念ながら昨日でストーブの灯油が切れちゃってたみたいでさ。昨日の内に買って置けばよかったんだけど」
あたしの言葉に彼女は「うっそ」とストーブに目をやった。もちろん、灯油なしで運転するわけが無いソレはうんともすんとも音を上げてない。それをまるでこの世の終わりかとでも言いそうな目で見やっている。
普段はしっかり者の癖して、寒さにはべらぼうに弱い。今だって布団を三枚背負ってはいるけれど、寒さは完全には遮断されてはいないだろう。何を隠そう、たぶん彼女はまだ下着すら身に着けていない。
「寒いなら何か着たら?」
あたしは楽譜を保存してパソコンをスリープにすると、改めてベッドの方向へと体を向けた。
「それより先に貴女が引っ越しなさいよ。ここ、お風呂どころかシャワーすらないじゃない。現代社会へのアンチテーゼの化身よ」
「でも、それが良いと思う時もあるでしょう?」
「例えば?」
「シテる時とシタ後。ぐちょぐちょに溶け合って、女同士なのに一つになれてる気が――」
言い終わる前に枕が私の顔面に飛んできた。ついでに「バカ」と小さな声が追いかけてくる。
まぁ、実際トイレが付いているだけで感謝出来るほどの安さなのだ。暮らし始めた時はお風呂やシャワーがないことがやっぱり何かと、そりゃ色々と不便だと感じていたけれど、今ではすっかりと慣れてしまっている。ここから百メートルほど住宅街に入ったところにある銭湯があるから、日常生活ではさほど苦労しない。
「とにかく、何か着なよ」
「……ベッドの外、寒いから嫌だ」
「そう言ってたら何も始まらないでしょ」
言うが、彼女は駄々をこねる様にして頭からすっぽりと布団をかぶってしまった。
たぶん、彼女の大学の学友たちがこんな姿をみたら愕然として、もしかしたらひっくり返ってしまうかもしれない。普段の彼女からは想像しろという方が無理な話だ。
厳しい家に育って、中学高校は当たり前のように風紀委員とクラス委員を兼任。おまけに大真面目に取締りを行なったという天然記念物にも認定されそうな程のクソ真面目ちゃんなのだ。あたしと出会ったのだって、あたしが服装検査で引っ掛かったところが最初である。最初の頃は彼女はあたしを目の敵にしていたのに、なにがどうなったか今はこんな関係になっているのだから世の中は不思議なものだ。
閑話休題。とにかく、彼女のその堅物な性格は大学でもそれは変わらないようで、前に偶然街で会った彼女の友人なんかはあたしのことを
『あんな不良と知り合いなんだ』
とまで言ってくれたらしい。
このご時世で不良なんて言葉が出てくるなんて友人も相当なアンティークモノである。
とにかく、そんな真面目に絵を描いたような彼女だけれど、それは彼女の多くある顔のひとつというだけで、それが全てでないことは言うまでもない。
寒いのがあのカサカサ動く黒い虫と同じくらい嫌いということ。
実は結構寂しがりやで甘えん坊なこと。
耳たぶを軽くかんであげると嫌がる素振りを見せながらも内心では喜んでいること。
あたしがギターをやってるインディーズバンドのライブには必ず来てくれてること。
ライブのあった夜は、彼女の方から燃えるようにあたしを求めてくること。
そのどれ一つも彼女の学友達は知らないのだ。
だから、そんな彼女の色々な顔を知っていて……つまるところベタ惚れなあたしは、ついつい多少のわがままも聞いてしまう。
一瞥した時計はすでに正午を回っている。朝に炊飯器に残っていたごはんでおにぎりを作って食べたからそんなにお腹は減っていないけれど、口実に使うくらいなら丁度良い。
「お昼過ぎたし、気分転換ついでに何か食べ物買って来ってこようかなぁ」
少しわざとらしく伸びをして言うと、案の定彼女はすっぽりともぐった布団から再び顔だけを出した。その姿はゲームセンターによくあるもぐら叩きに少しだけ似ている。
「なにかリクエストある?」
「灯油」
「灯油? 飲むの?」
からかうように言ったのに、彼女は至極真面目な顔で「そんなわけないでしょう」と返してきた。
寒さのおかげで少しだけ不機嫌になりかかっているのかもしれない。ただ、さっきまでおでこにだらしなく垂れていたはずの前髪がいつの間にかヘアバンドで後ろに纏められているところは、それはそれで彼女らしいと言える。
「わかった、まずコンビニに行く前にガソリンスタンド行ってきてあげる」
そう言うと彼女はパッとその表情を明るくした。
元はと言うと昨日灯油を買えなかったのはあたしの責任だ。久しぶりに二人ともバイトがなくて一日オフの日だからといって朝から晩までくっ付いて甘えていたのは、どちらかと言うとあたしの方。そうなるとこの雨の降る寒空の中、重くなった灯油缶をキャリーでガラガラ持って帰らなければいけないのは当然のことだろう。
椅子から腰を上げて窓に歩を進める。彼女はあたしのしようとしてることがわかったのか、三度布団に身体全体を押し入れて丸まった。あたしはそれを確認してから窓を開けると、申し訳程度にもなっていないベランダからすっからかんになっている赤い灯油缶を取り出した。
「灯油買ってきたらいつもの銭湯にいこ?」
あたしは窓を閉めて彼女に言った。
『うん、そうする』
布団の中からくぐもった声が聞こえてくる。
昨日も季節とは正反対の熱くたぎるような夜を過ごしたから、身体からはお互いのにおいがこびりついている。それ自体はそう嫌じゃないんだけど、髪が少しべたついているのはちょっとだけ気に入らない。
「それじゃあ、その後駅前に出ない? 何か食べに」
彼女が布団から顔を出して言葉を付け足した。
「食べたいものとかあるの?」
「温かいお蕎麦」
「駅前って、安いのしかないよ? 安くて美味しくないって前に文句言ってなかった?」
「それでもお蕎麦が良いの」
そう駄々っ子のように主張する彼女に「じゃあそうしようか」と答えを返すと、玄関へと足を向けた。ちなみに彼女が関西風の温かい蕎麦が好きなことも学友たちは知らない。
玄関のドアノブに手をかける。部屋の中も随分と寒いけれど金属の冷え込みはそんなものとは比較にはならない。そこへ来て、あたしはようやく手袋をつけていこうということに気付いて部屋へと踵を返した。
「どうかしたの?」
「手袋忘れちった。流石に手袋なしで行くのはつらい」
「でも手袋で灯油買いに行ったら手袋灯油臭くなっちゃうわよ? 軍手にしたら?」
「軍手だったら穴だらけで寒さ対策にならないでしょ」
高校時代から使い続けている黒い毛糸で編まれた手袋を部屋の片隅に積まれた服の山から掘り出して手を通す。前に付き合っていた彼女の手編みのプレゼントなんて彼女に知られる前に早々と捨ててしまえばいいのだろうけれど、貧乏性のおかげでまだ使えるものを捨てるなんてことはあたしには到底出来ない。出来るだけ使い込んで、出来るだけ早くボロボロにしてしまうのが唯一の方法だ。
「そう言えば、昨日までだって言ってたレポートはもう出してあるの?」
彼女がそのレポートを一昨日の昼にすでに提出していることは知っていながらあたしは彼女に聞いた。初めて編み物をしたらしい前の前の彼女のプレゼントは、よくよく見ると荒が多くて手編みだと勘付いてもおかしくなくて、じっと見つめては欲しくなかった。
「当然でしょう? 『不良』の貴女とは違って、私は優等生の烙印押されてるんだから。提出遅れなんて出来ないわよ」
あたしの意図に気が付かなかったのか――もっとも、気付かれたらそれはそれで大変だけれど――彼女はそう胸を張った。寒がりなりに寒さに対応してきたのか、段々と普段の彼女の態度に戻っていく。
彼女が普段見せている姿と、あたしにだけ見せてくれる姿。一番ギャップがあるのは朝の甘える姿かもしれない。もちろんどちらの彼女も好きだけど、甘えてくる姿の方があたしとしては心地良いのも事実だ。
「何おかしな顔して笑ってるのよ?」
「あぁ、ゴメンゴメン」
知らず知らずの内に頬が緩んでいたらしい。彼女の指摘に慌てて頬を引き締め、ベッドの中の彼女に顔を近づける。
小さくキス。
「……ありがと」
「うん」
そのお礼が灯油の買い出しについてなのは言わずもがな。真面目な彼女は、お礼の一つもなしに使い走りをさせられるような人でもない。
改めて玄関に向かい、外に出る。雨はさっきより小降りになっているようで、少し無理をすれば傘を差さないでもガソリンスタンドまでいけそうな具合だった。傘を片手に、満タンになった灯油缶を引っ張って帰るというのはちょっときつい。
結局、あたしは外に置かれている傘を一瞥しただけでそれを手に取ることはしなかった。
強い風が吹く。切り刻まれるような寒さが身を襲うけれど、この風は雨雲もどんどん流してくれていってる良いヤツでもあるのだろう。空を見ると、あたりにはまだねずみ色の雲がはびこっているが、それでも西の方向はぼんやりと明るくなっているように思えた。
たぶん、明日は晴れるに違いない。
朝 猫之 ひたい @m_yumibakama
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます