3. 希望の悪魔

 テレビの画面では、逆さに映ったレポーターが、昨日あった医療ミスについて説明している。三島重工での事件は、まだ特番を組まれるような大きな話題にはなっていないようだった。

 リモコンのボタンを押してテレビを消した。ベッドの上でごろんと回り、じゅうたんの床に投げ捨てられたスマホから、ビジネスホテル特有のうす暗い天井に視線を移す。部屋の様相は昨日とまるで同じだ。しかし、別の世界に入り込んでしまったかのように感じ、何もやる気が出てこない。


 石島に送ってもらい三島駅に到着した私は、ホームで京都に帰る電車を待ちながら、社長に状況を報告していた。現場の状況や、警察の対応についての私の説明を真剣に聞いていたようだった。これから帰る旨を伝えたところ、事件が解決するまで静岡に留まって調査を続けるようにと、あっさりと言われてしまった。

 事件を解決するのは警察の仕事であり、参考人はせいぜい工場やロボットの用語を説明することしかできない。二、三日は聞き込みに同行させてもらったりと、私にできる行動もあるだろうが、それを過ぎれば所在なく警察署に出入りすることになるなんて容易に想像できる。いくら日本の殺人の検挙率が百パーセントだとはいえ、昨日の今日で解決するようなものでもないだろう。それまで会社に帰れないなんて、絶望でしかない。

 そして私は切符を払い戻して駅を後にし、昨日泊まったビジネスホテルに戻ってきてしまった。


 床の上のスマホが振動し、メロディーを流し始めた。ディスプレイには名前は無く、電話番号だけが表示されていた。識別番号から判断すると携帯電話からかかってきているようだった。

 社長の携帯電話、あるいは、どこからか聞きつけたマスコミかもしれない。無視を決め込んでテレビをつける。ニュースの続きを見ていたら、メロディーが途切れた。

 落ちていたスマホを拾い、着信履歴を確認する。登録されている番号なら名前が表示されるはずなので、やはり知らない人間からの電話のようだ。非通知ではないので、やましいような内容ではないと思う。

 スマホが振動し、思わず落としそうになった。再び同じ番号から電話がかかってきた。観念して、恐る恐る通話ボタンを押した。

「――もしもし」

 返事は無い。スピーカーの向こうから、がやがやと声が聞こえる。内容は聞き取れないが、さまざまな年齢層の人間が話しているようだ。人ごみの中でかけているのだろうか。

 いたずら電話だと判断し、通話終了ボタンに指をかけたそのとき、スピーカーから女の声が聞こえてきた。

「生駒です。中川さんの携帯電話ですか」

 レモンの写真を見て口の中に唾液が溢れるように、今日の悪夢を引き起こした一端である、変な女の顔が脳裏に浮かんだ。

「そうですけど、なんで番号を知ってるんですか」

「イシさんの手帳を盗み見たんで」

 生駒は隠す素振りも見せずに、とんでもないことをさらっと言った。

「それって、警察的にアウトなんじゃ」

「小さいことは気にしないの。鼻息の荒いオジサンからかかってきた訳じゃあるまいし。それに、相手が望んでいるならセーフじゃない?」

 すぐに電話を切ろうと思っていたが、生駒の言葉が引っかかり、聞き返さざるを得なかった。

「私が電話を望んでいるって、どういうことですか」

「思い当たる節があるなら、今から南口に来て。どうせ駅前のホテルにいるんでしょ」

 返事をする前に、スピーカーからはツーツーと不通音が鳴っていた。電話は一方的に切られていた。

 ベッドに寝転がり、掲げたスマホを眺める。そこには生駒の電話番号が表示されている。

 私はこの事件が解決するまで、会社に戻ることはできない。早く解決するには、警察に努力してもらうしかないが、石島は慣れない現場での事件に苦労しているようだった。もちろん私も参考人として協力するが、理系の知識以外にこれといった役立つ力は無い。

 『私が電話を望んでいる』と、彼女はそう言った。生駒累。科学警察研究所、捜査支援研究室所属。犯罪心理と法医学のエキスパート。鑑識については石島も文句のつけようがない腕前の持ち主。解決には生駒の力を借りる必要があるのかもしれない。


 城のような三角屋根の外観の駅舎に入り、南口の切符売り場に着いたとき、腕時計の時刻は二十一時半を指していた。電話がかかってきてから、既に十五分が経過している。ホテルから駅までの距離は大したことないのだが、突然のことで準備に時間がかかってしまった。来ないと思って、既に帰ってしまった可能性もある。

 構内の飲食店は閉まっており、人もまばらだったため、生駒がどこにいるかはすぐに分かった。事件現場で着ていたパンツスーツ姿のままで、足元にドラムバッグを置いて、柱に寄り掛かっていた。お腹の前に持ったスマホの画面を見下ろしている。

「夕飯、食べた?」

 歩み寄る私に気づき、生駒は笑顔を見せた。


 生駒の先導で連れて行かれたのは、駅前にある小さな焼肉屋だった。店の外から肉の匂いが分かる。ガムテープで補強されたガラスの引き戸を開けると、目に見える濃度で漂う煙が吹き出した。店内には、色あせて年季が入って見える机と荒々しい丸太の椅子が乱雑に並べられており、仕事帰りだと思われるワイシャツ姿の男がちらほら座っている。

 私達はカウンター席に腰掛けた。すぐに生ビールのジョッキと七輪が用意され、網の上に並べられたカルビが焼けた音を鳴らした。煙に乗って肉の匂いが広がる。脂肪が網目状に入った、厚みのある真っ赤な肉。あぶられて灰色に変わった下部から、赤い汁が垂れ落ち、一層煙と匂いを増す。

 思い起こされるのは、ロボットの白いカバーに貼り付いたピンク色の脂肪。頭部の亀裂から覗く赤い筋の集まり。地面に溜まった凝固しきっておらず怪しく光る血。鼻の奥に残る鉄とアンモニアの匂い。いつもなら食欲が湧くのだろうが、脳裏に現場の景色がちらつき、それどころか気持ちが悪くなった。

「遠慮しなくていいよ、経費だから」

 生駒は私が遠慮して手を伸ばしていないのだと勘違いしているようで、涼しい顔をしてトングで次々に肉を並べていた。

「生駒さんって」

「生駒でいいよ。イコとか、イコさんでもいいけど。でも、サイコ様はあんまり好きじゃないからやめてね」

 初対面の警察関係者をあだ名で呼ぶのは、だいぶハードルが高い。必然的に、相手の希望を叶えつつ敬語の入った『イコさん』が最適解となる。ところで、サイコ様も彼女のあだ名なのだろうか。苗字と精神異常をかけているのだろうが、悪意が見え隠れしている。

「イコさんって、心理学のプロなんですよね」

「うん。肉焼けた」

 生駒が網の上の肉を皿に移す。私の皿にも一つだけ肉が置かれた。

「それなのに、あの事件の後で焼肉を選びますか」

 生駒は質問に対して答えず、箸で肉をつまんで口に運んだ。数回噛んで呑み込んだ後、皿を見つめたままで口角を上げた。私は理解した。現場を連想することを知っていて、彼女はこの店を選んだのだ。

「帰ります」

 私は立ち上がって、財布を取り出した。事件の解決につながるかと思い、期待して来てしまった私がバカだった。昼間の一件から気付くべきだった。鑑識の腕は良いのかもしれないが、彼女は人の苦悶の表情を見て楽しむ精神異常者だ。

「ごめんなさい、ごめんなさい、こればっかりは性分だから、勘弁して」

 生駒が手を合わせて軽く頭を下げる。周りのサラリーマン達が生ビール片手に興味深そうに私達を見つめていた。

 人を平気で傷つけるような人間は、相手にしない方が良いに決まっている。彼女と一緒にいたら、またひどい目に遭うことは明白だ。このまま机の上に五千円を置いて帰れば、安穏で暖かいホテルの部屋が待っている。財布を開いてお札を探す。

「だからお願い、座って。ほら、肉もたくさんあげるから」

 生駒は焼けた肉を私の皿に移している。

 この場から立ち去りたいと思っていたはずが、気付けば私は財布を閉じていた。立っていることに居心地の悪さを感じている。ため息をついて丸太の椅子に腰を下ろした。

「心理学って言ってもいろんな種類があって、あたしの専門は犯罪心理学だから」

「犯罪心理学で何ができるんですか」

 生駒が何事も無かったかのように会話を再開したので、私も仕方なく合わせることにした。

「プロファイリングで犯人像を推定することかな」

「今回の事件の犯人像は分かったんですか」

「そもそもまだ犯人がいるのか分からないけどね。おっと、これは中川さんには禁句だった」

 これまたわざとらしい。生駒の口角は上がりっぱなしになっている。

「ロボットを使用した間接的な殺害、それも一件だけとなると、材料として厳しいものがあるんだよね。プロファイリング通りに分類するなら、計画性があり、証拠らしきものを残さない秩序型。被害者には頭部の致命傷以外に大きな傷はないから、犯人に誘導された可能性が高い。顔見知りか、魅力的な外見で、口が達者で社会性がある人間。被害者の顔を判別不能なまでに破壊し、非人格化してモノにおとしめる程、被害者に対するかなりの憎悪を抱いていたのか。それにしては偽装が巧妙で、解せないところはあるけど。まぁ動機による分類にあてはめるなら、契約殺人、偽装家庭内殺人、報復殺人の可能性が高いかな。メッセージ性すら感じる、おかしな殺害方法をどう考えるのか、これが肝になると思うんだけど。ロボットの操作をできるからには、二十歳から五十歳くらいの年齢だと思う」

 生駒は矢継ぎ早に喋り終えると、肉を口に運んだ。難しそうなことを言い並べていたが、結局のところ犯人は『そこそこの知性がある二十歳から五十歳の男女』ということらしい。果たして一億人の内の何十パーセントが該当するのだろうか。どうやら犯罪心理学という、いかにも捜査のための学問といった感じの名前に期待しすぎていたらしい。

「あ、今役に立たないと思ったでしょ」

 図星を指されたので、私はごまかすように冷たくなったカルビを口に入れた。心理学とは専門が違うと話していたが、よっぽど人の心を読む方が上手なようだ。ところで肉は、食べてしまえばおいしかった。

「今回の事件は、既に初日で困り果てててさ。工場に置いてあるものが何なのか、どうやって動くのかも分からないし、聞き込みをしても何を言ってるのか分からないし。イシさんもあたしも、工場とかロボットとか、まるで駄目なのよ。だからさ、中川さん。あたしに協力して」

 生駒はビールジョッキを掲げて、乾杯を要求してきた。

「石島さんには、協力すると伝えていますけど」

「参考人の立場じゃ意味がないの。今日だって、あたしが見せなかったら現場を見ることもなかったんだよ」

 彼女は現場を見たことが良いことみたいに話しているが、お陰でとんでもない思いをした。ありがた迷惑というやつだ。

「今以上に捜査に首を突っ込めってことですか。嫌ですよ」

 私は視線を逸らし、キッチンの中を見た。店員が鉄板で焼きソバを焼いており、ソースの香ばしい匂いが漂っている。横から、ジョッキの置かれた音が聞こえた。

 確かに、事件が解決するまで会社に戻ることができなくなり、焦っているのは事実だ。しかし聞き込みに同席するだけでなく、辛い思いをして彼女と一緒に死体の前に立っても解決に繋がるとは思えない。

 焼きソバが皿に盛られたため、私は見るものを無くした。横を振り向くと、生駒が顎に指を当てて、私の全身をじろじろと見回していた。

「なんですか」

「――帰れないんでしょう」

 彼女の口から突然発せられた言葉に、どきりとした。駅のホームで交わした社長との電話の内容は、誰にも伝えていないはずである。

 生駒は私の足元を指差した。

「やっぱりね。若干前に出された片足は、店の出入口に向いてる。これは、今すぐこの場を立ち去りたいという心の現われ。そしてもう一方の足は、あたしに向けられている。これは、あたしに何かを期待している心の現われ」

 腕が上げられ、指が私の顔に向けられた。

「それから、考えているときに左下を向いてた。これは、言葉を思い起こしていた証拠。ではどんな言葉を思い出していたか。未だに静岡にいる事実と、あたしの怪しい電話に従ってのこのこと姿を現した事実を照らし合わせれば、理由は明白。捜査が終わるまで帰ってくるなと、会社から指示を受けたんでしょ」

 生駒の指摘はことごとく当たっていた。プロファイリングのときとは違い、今度は素直に驚いた。彼女に協力する事が、事件の解決に繋がるかもしれないとようやく思えた。

「あたしを信じて協力して。こう見えても難事件をいくつも解決してきた、犯罪心理と法医学のエキスパートなんだから」

「分かりました」

 生駒の掲げたビールジョッキと乾杯し、泡の無くなった生ビールに口をつけた。


「それで呼び方だけど、ナカがいい? ガワがいい?」

 小さな体のどこに入っていくのか不思議なくらい肉を食べた後、生駒が尋ねた。ショックで夕飯を抜いていたこともあり、私も結局、彼女ほどではないが肉を食べてしまった。

「何でもいいですよ」

「あ、でも『ナカがいい』ってなんか嫌らしいね」

 生駒が顔をニヤニヤさせた。その中身は、まるで酔っ払いのおじさんのようだった。私は返事の代わりに、届いたばかりのお冷に口をつけた。

「反応が悪いな。そんな冷ややかな性格じゃ、もてないでしょ」

「そうですね」

 私は抑揚をつけずに答えた。

「彼女はいるの?」

 心理学を知らなくても分かる。彼女はノーという返事を期待していて、馬鹿にするストーリーが既に頭の中に出来上がっている。回答は案の定ノーなのだが、鼻を明かしたくなった。

「プライドを守るためじゃないですけど、俺バツイチですよ」

 生駒は目を丸くして、驚いたようだった。魔法のような観察眼でも気付かなかったらしい。

「ほんとに? ナカさんって何歳なの」

「二十七です」

「あたしの二個上なんだ。どうして奥さんと別れたの」

「忘れました」

 微笑む妻の顔が薄っすらと脳裏に浮かぶ。どんなシチュエーションだったか記憶を辿ると、ずきんと頭の奥が痛みを訴え、それ以上思い出すことが阻まれた。

「ふーん」

 幸い、生駒はそれ以上深く聞いてこなかった。


 その日の夜、私は夢を見た。

 私は狭く薄暗い部屋の中にいた。壁に寄りかかっており、背中を向けて立っている妻を眺めている。振り向いた顔は、私をなじり責めるように、眉を吊り上げ、口の端を歪めていた。

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