ナイーブベイズの境界線

山吹 裕

1. プロビデンスの目

 こつこつと足音を響かせて歩く女の背中を追う。背丈より大きな棚が左右にそびえており、道幅は狭く、すれ違うのを危惧するほど。時折、女の担いだ円筒の黒いドラムバッグが触れて、布の擦れる音を立てている。間取りや天井を見る限りではそれなりに広い部屋のようだが、この配置のせいで、窮屈でうす暗く感じる。棚にはプチプチとも呼ばれる気泡緩衝材や、潤滑油のスプレー缶が置かれており、消耗品の倉庫として使用されているようだった。コンクリートの床は緑色である。法令で決められているわけでもないのに、工場の床はこの色であることが多い。お客さんの話では、目に優しいとか部品が落ちたときに見やすいようにとか、そんな理由があるそうだが、私は水色や橙色のような明るい色の方が、気分が高揚していいと思う。

 女は斜めにかけたドラムバッグを担ぎなおして、棚の途切れた隙間を曲がった。暗い茶色がかった髪は短く、首が隠れるほどの長さである。黒のパンツスーツ姿からは、足が長くスマートで、賢そうな印象を受ける。一方で、工場の入口で話した際の様子は幼く、艶のある肌の状態からも、私より若いかもしれないと思っていた。

 私も体の向きを変えて彼女の後に続いた。棚の側面が向かい合った道はわずかな距離で、突き当たりの扉は既に開かれていた。ビーッ、ビーッ。近づくにつれて、一定の間隔で鳴り続ける機械的なアラーム音が大きくなる。扉に遮られた工場の中央へと足を踏み入れる。


 視界がぱっと明るくなった。高い天井には、水銀灯が等間隔でぶら下がっている。三面の壁はいずれも遠く、とても広い空間だった。一際目を引くのは、建物の真ん中に立つ、天井まで届く大きな自動倉庫だ。薄い柱か壁のような形をしており、側面は黒い網状になっていて中が透けて見える。どの棚板にも荷物の載ったパレットと呼ばれる台が置かれており、かなりの数の資材が格納されている。搬入搬出口の脇に掲げられたランプは赤色に点滅していて、残念ながら自動倉庫が動いている姿は見られそうにない。

 女は後ろを気にする様子も無く、すたすたと先へ進んでいた。工場の設備を見学する余裕は無いようだ、私は慌てて後を追った。明るい視界の下、改めて容姿を確認するが、ずいぶん背が低いように見えたのは、ローヒールのパンプスのせいもあったようだ。

 床には通路を示す黄色のラインが描かれており、その左右には安全柵で囲まれた加工システムが並んでいる。安全柵は目立つ黄色のフェンスで、面は目の粗い金網になっている。隙間から、工作機械やロボットが並んでいるのを目にすることができる。稼働していないようだが、パレットの上に円筒の穴が空いた大型の金属部品が並んでいるのが見えた。

 工場特有の切削液の酸っぱい臭いに混じった、金属の錆びたような臭いが鼻につく。進むにつれて、気のせいで片づけられない程に、異常以外の言葉が浮かばない程に、濃くなっていく。そういったこととは、まるで無関係な生活を送っていた私でも分かる、それは近い。自分の心臓の音が大きくなったのを感じた。

 パンプスのヒール音が止んでいた。女は足を止め、斜め前の足元を見つめていた。彼女の視線の先を追う。そこには、薄いピンク色の塊が転がっていた。なるほど、緑色の床は落ちたものがよく映える。それは光を受けて白く光っており、妙にみずみずしく見えた。

 立入禁止と書かれた黄色のテープが、安全柵の切れ目の入口にバツ印で貼られている。再び歩き出した女の後を追って、私はテープの下をくぐった。

 女が振り返る。目鼻立ちのしっかりした、気の強そうな顔をしている。女は脇に抱えた、荷物がパンパンに詰まったドラムバッグに手を入れ、なにやらカサカサ音のする黒い薄っぺらい物体を取り出すと、広げて私に差し出してきた。受け取ったそれは、黒いビニール袋のようだった。四十リットルはあるだろうか、核家族なら一週間分の家庭ごみが入りそうな、大きな袋だった。

 どうしてゴミ袋を渡されたのか尋ねようとするが、やり取りをあらかじめ予想していたかのように発せられた一言によって、自然に遮られた。

「グッドラック」

 彼女の握られた拳から突き立った、親指の先を見る。

 そこは、ワークという金属の材料をコンベアからパレットチェンジャに移し変える工程の作業場だった。人が立ち入らないように、自動倉庫を背にして三面を安全柵が囲んでいる。私達は自動倉庫に面する安全柵に設けられた開き戸から、作業場の中に足を踏み入れていた。

 金属部品の多くは、マシニングセンタと呼ばれる、あらかじめ作成しておいたプログラムに従い工具で加工する機械によって、自動的に作られる。もちろん、鋳造、プレスのような成型加工や、町工場で使われる旋盤による加工もあるが、目的や規模によるので、それはひとまず置いておく。加工後には、加工した部品と次に加工するワークを交換する必要があるのだが、この工場ではパレットチェンジャと呼ばれる装置が使われていた。パレットチェンジャは料理で例えるなら、メニューごとにまな板を交換することに似ている。私は包丁で具材を切り分ける調理人、すなわちマシニングセンタだとしよう。具材をビニール袋から出す準備の作業と、切った具材を鍋に入れる作業を別の人間が分担してくれるのなら、私は切ることだけに専念して、効率的に調理を行うことができる。同様に、ワークが固定されたテーブルを交換することで、機内でワークを交換するよりも、スムーズにマシニングセンタで加工ができる。

 この工場ではワークは自動倉庫に保管してあり、必要な分だけ取り出しているようだ。取り付けるのは、産業用ロボットの仕事である。まるで人間の腕のように、複数の関節と手を持ち、搬出口のコンベアから流れてきたワークをパレットチェンジャに付け替える。

 絶えずワークを取り付ける必要があったのだろう。そこには、コンベアの搬出口が二つあり、それぞれに人の背丈ほどあるロボットが備え付けられていた。どちらもコンベアの左側に設置されている。ロボットは回転する台座と、上腕と前腕から成る二つのアームを持っている。モーターは各関節に全部で六個取り付けられており、六軸の自由度を持つ腕は、ワークをあらゆる姿勢で取り付けることができる。

 二台のロボットは止まっていた。人間がハイタッチをしているかのように、互いの長い腕を掲げて、手を合わせていた。左右対称に固まっているそれらは、綺麗に三角形を形作っていた。

 それだけの、真ん中に隙間のできた無機物の造形だったなら、きっと不安定な絵面だったと思う。二つのアームが一直線上に位置するこの姿勢は特異点と呼ばれ、ロボットにおいて忌避される動きである。操縦者だったら操作盤を置いて目を覆い、恥じたくなる。しかし、加えて縦に入った歪んだ形の有機物の影が、見るものに均整を感じさせていた。

 二台のロボットの間からは、肢体が力なくぶら下がっていた。垂れ下がった手足の位置から判断すると、ロボットの手が重なった位置に、頭が存在するはずだった。目を凝らすと、アームの間からところどころ頭髪と思しき毛の束が見えた。

 上着は元々の色が分からないくらい赤黒く濡れている。濃く染まった肩の周りは、水銀灯に照らされてじゅくじゅくと光っている。垂れ落ちた血がところどころに縦縞を作っている。

 ぶら下がった手足は、生気を感じさせない力の抜け方をしており、指先から血を滴らせていた。また、少し体が浮いているようで、足先だけが血溜りに浸かっていた。

 元々白色だったロボットは、飛沫を受けて赤く染まっていた。粘性のある液体はケーブル間に糸を張り、ロボットから地面を這って放射状に線を引いていた。コンベアやパレットチェンジャ、少し離れたところにあるマシニングセンタまで、あらゆるものに、毛のついた肉片や、ピンク色の塊がこびりついていた。

 そうだ、ここに辿り着く前に見た、床に転がっていた物体は、脳みその破片ではなかったか。


 私が目にしたのは、凄惨な事故現場だった。思考のため頭の中を巡っていた血液が、胸の方まで下がっていく。ひどい悪寒が押し寄せ、視界が揺らぐ。胃袋が無意識の内に収縮を繰り返し、口の中に酸っぱいものがこみ上げてくる。目に映る全てがフェードアウトしていく。

「ふっ」

 傾きかけた体を支えるため足を踏ん張り、声を漏らした。微かに溜まった唾液を飲み込み、からからになっていた喉を潤す。すっと消えてしまいそうになる自分を引き止めた。不思議なことに、こんな血だらけの光景や、鉄とアンモニアの臭いには既視感がある。

 目の前のロボットが形を取り戻す。狭まっていた視野が戻り、作業場の全体が視界に入る。気づかないうちにひどい呼吸をしていたので、リズムを戻す。背中が汗でびっしょりと濡れ、シャツが貼り付いていた。

「やるじゃん。部外者で吐かなかったのは、あんたが初めてだよ」

 女の好奇な目が私に向けられていた。私はゴミ袋が手渡された理由を理解した。この女は、吐くか倒れることを承知で、私にこの現場を見せつけたのだ。

「それはどうも」

 こみ上げてきた怒りを込めて、かといって大人気ない反応をするのは我慢して、ゴミ袋を乱暴に押し返した。女は目を丸くし意外そうな顔をして受け取った。


「おい、その人は俺の呼んだ、ジャードの技術者だろ。なんで現場にいるんだ」

 後ろから怒号が飛んだ。振り向くと、目尻を吊り上げすごい剣幕でこちらに詰め寄ってくる白髪交じりの男性が見えた。筋肉質な体型のため、黒いスーツはところどころ布地が張っていて形が悪い。男は慌てているのか、入口の黄色いテープに引っ掛かりながら雑にくぐった。

「状況を説明するより、見せた方が話が早いでしょ」

 立ち塞がった男を見上げて、女は淡々と答えた。身長差がひどく、女の背は男の胸くらいまでしかないが、まるで動じていない。

「お前はロボットか何かか。人の世界では、早さより大切なものがある。その一つが心だ。参考人がトラウマにでもなったら、お前は責任を取れるのか」

 この現場でロボットに例えるのは不謹慎だと我ながら冷静なことを考えながら、私は二人のやり取りを見守っていた。静かに足を引き、二人から距離をとった。

「大丈夫そうだよ、ほら」

 モノでも指すかのように、女は人差し指を向けてきた。男は即座にその手を払いのけた。

「それは結果が、たまたまそうだったからであって――」

 男のこめかみに血管が浮き出る。爆発でもするのではないかと私は身構えていたが、男は言葉を止めた。見られているのに気付いたようで、気まずそうにこちらを振り向いた。

「大変見苦しいものをお見せしました。申し遅れましたが、私は静岡県警の石島です」

 石島が警察手帳を取り出した。開かれたページには、確かに男の、実際よりも人当たりのよさそうな写真が貼られていた。声が出てこなかったので、私は返事の代わりに軽く会釈をした。

「うちの人間が、ひどいことをして申し訳ありませんでした。お気分の方は大丈夫ですか」

 ひどい顔をしていたのだろう。私は頷いたが、石島に促されて血だらけの現場から離れることになった。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 私はジャードという、ロボットや工作機械を扱うメーカーの技術者である。客先でロボットの立ち上げを行うため、静岡の三島に前日入りしたのは昨晩のこと。ビジネスホテルに泊まり、翌日の仕事に備えて早々と横になった。

 しかし翌朝早くに目を覚ますことになったのは、目覚ましではなく、スマホの着信音によってだった。電話に出たのは、なんと社長だったので、私は一瞬で覚醒した。寝起きと緊張のせいで聞くことに徹していたが、会社の製品によって事故が起きてしまったという。静岡県警から技術者の派遣が要請されており、それが私に任せられた。警察への協力はもちろんだが、原因がロボットの不具合ではないことを証明できるように、しっかり情報を集めるようにとのご下問だった。偶然現場の近くにいた私に、白羽の矢が立ったのだ。

 事件があったという三島重工の本社工場を訪れ、私は受付で話を聞いて、黄色いテープで囲われた第一工場に案内された。そして入口の前に立っていた警官に、勇気を出して派遣の要請があったことを伝えた。彼は現場を仕切っている上司に連絡すると言っていたが、そこに通りがかったのがあの女だった。自らが連れて行くと言い張り、渋る警官を横目に工場の中へと私を連れ込んだのだ。

 そうだ、元凶はこの小さな女だった。


「中川さん、でよろしかったですか」

 石島から自身の名前を呼ばれ、記憶の旅から戻った。私は彼らの後に続いて、工場内を歩いていた。

「確認しますが、現場にあったロボットはあなたの会社の製品ですよね」

「そうです。ラベルは見えなかったですが、可搬重量三十キロの産業用ロボット、通称アレスで間違いないと思います」

 血で覆われていたが、ロボットやコントローラのフォルムは、よく見覚えのある自社のものだった。ジャードのロボットは用途に応じた多数の種類があり、製品番号だけでは分かりにくいので、通称としてギリシャ神話の神の名前がつけられている。アレスは、オリンポス十二神の一柱で、戦いを司る。

「あのような現場を見せてしまい、ショックを受けられたお気持ちは大変分かるのですが、我々はこういう機械にまるっきり疎くてですね。ぜひ捜査にご協力をお願いしたいのです」

 女のせいで警察に対する不信感が限りなく増していたが、彼女が特殊なだけであって、石島は常識的で信用できる人間のようだった。社長の依頼の件もあるので、申し出を断ることは考えられなかった。

「大丈夫です。協力させてください」

「ありがとうございます」

 石島に導かれ、突き当たりの壁に設けられた、休憩室と書かれた部屋に入った。シンプルな長細い会議机が六個並べられた、小さな空間だった。壁際には給水機が置かれており、熱中症への注意を喚起するポスターが貼られている。

 石島がパイプ椅子を引いて、どうぞと手のひらを上に向けた。

「分かっている情報について、お伝えしておきます」

 座った私の正面の席に、石島が腰を下ろした。隣に女が座るのを、眉間にしわを寄せて眺めた後、胸ポケットからペンを抜き取り、警察手帳とは別のコンパクトな黒い手帳を開いた。

「被害者は加藤隆、三十四歳独身。作業着の名札と、財布に入っていた身分証明書から分かりました」

「ほら、頭が潰れてるから、顔で判断できないの」

 女は冗談を口にするように、顔をしかめて言った。石島の眉間のしわがさらに深くなった。

「ここ三島重工業の本社工場で作業を行っていた契約社員で、自動車のエンジン部品を加工するシステムのオペレーターをしていたそうです」

 エンジンは燃焼を回転エネルギーに変える装置だが、部品としては、比較的大型のシリンダブロックやシリンダヘッド、小型のシャフトやロッドがある。現場を見る限りでは、前者の大型の部品を扱っているようだった。

「事件があったのは、昨晩二十三時頃。加藤は二台のロボットに頭部を挟まれて死亡しました。死亡時刻については、自動倉庫の稼動履歴から割り出しました」

 自動倉庫は、上下左右に荷物が並べられた配置こそ同じだが、通常の倉庫や棚と違って、コンピュータで制御されており、モーターで棚板の配置を自由に変えることができる倉庫のことである。コンピュータに出し入れの履歴が残っていたのだろう。

「工場は、一日中稼動しているんですか」

 話の途中だったが、気になったので尋ねた。最近はロボットが普及したことによって、土日も含めて一年中稼動している工場も珍しくない。

「いえ、昨晩は十九時には、全ての機械を停止して、全ての従業員を帰していたようなんです」

「それは妙ですね。被害者の加藤さんは夜の工場に侵入して、加工システムを起動し、安全柵の中に立ち入ったんですね」

 終業で停止していたロボットを、四時間後にわざわざ再起動して巻き込まれるなんて、まるで自ら事故に遭いに行ったかのようだ。

「そう、その安全柵についてもお聞きしたかったんです。安全柵というのは、金網が張られた黄色いフェンスのことですよね」

 石島が手帳を立てて尋ねてきた。

「はい。産業用ロボットは高速で動いて危ないので、ロボットシステムの稼働中は人が立ち入らないように、周囲を安全柵で囲まなければならないと、労働安全衛生法で定めているんです。さらに安全性に考慮して、ロボットシステムの停止中であっても保守作業者以外は中に入らないように、ルールを決めている工場も多いですけど」

「ドアがあったら、簡単に中に入れて危ないんじゃないの」

 女が言葉を発する。安全柵の一部に設けられた、開き戸のことを言っているのだろう。まさにそこが、市販のフェンスではなく安全柵を使用する理由である。人の気持ちには鈍感なようだったが、質問は鋭い。

「安全柵のドアには開閉を検知するスイッチが付いていて、ロボットシステムの稼働中にドアが開くと、ロボットが非常停止する仕組みになっているんです」

「なるほどね。事件当時、安全柵は開いていたの?」

「分からん。目撃者に聞いておく」

 女の質問に対して石島がぶっきらぼうに答え、素早く手帳に書き込んだ。

「その第一目撃者は、警備員でした。従業員が出社する前の七時に敷地全体の見回りを行うことになっているそうですが、その途中で発見したそうです」

「朝からそんなものを見たら、テンション下がるね」

 女を無視して、石島は言葉を続ける。同じ経験をした者として、私はテンションが下がるどころではないと口を挟みたかったが、我慢した。

「関係者への聞き込みはこれから行う予定です。その前に、ジャードの技術者の立場から、何か気付いたことはありますか」

 石島は手帳を置いて机の上で手を組み、言葉を待っていた。女は背もたれにもたれかかって、うっすら笑っていた。捜査に役立つか、私の力を試されている、そんな気がした。休憩室内は沈黙に包まれた。この場で事故の原因を突き止めろなんていう、無理な期待をしているのではないことは分かる。おそらく彼らが疎いという機械について、的確なアドバイスをできる人間だと証明することが望まれている。

「詳しく見る余裕はなかったので、大したことは分かりませんが」

 前置きをしてから始める。苦笑いを返して評価を下げ、この場を去るのも選択肢の一つなのかもしれない。しかし、このまますごすごと返されてしまっては、調査を任せてくれた社長に合わせる顔がない。

「ドイツの自動車工場では過去に、大型の産業用ロボットに胸部を圧迫されて男性が死亡しています。それくらい、ロボットのスピードと力は衝撃力をはらんだものなんです。今回のケースでは可搬重量が軽いので、一台だったら怪我で済んでいたのかもしれませんが、逆方向から同時にぶつかることで大きな衝撃が加わっていた可能性があります」

 石島が頷いている。当たり前のことだと思われていないかと、内心ひやひやしながら言葉を続ける。

「そうなると、一つ気になることがあるんです。ロボットを並べて設置する場合、ロボット同士がぶつからないように、稼動領域を制限して使用することが多いんです。にもかかわらず、ロボット同士がぶつかったということは、誰かが意図的に稼動領域を広げた可能性があるのではないでしょうか」

 休憩室に乾いた拍手の音が響く。女が身を乗り出して手を叩いていた。

「中川さんだっけ。いいよ、あたし達が求めている参考人の見本だよ。大概は現場を見て萎縮しちゃって、まるで参考にならないの」

 私はほっと胸をなでおろした。即席で考えた話だったが、彼らを失望させることにはならなかったようだ。しかし女は言い終えた後で、目つきを鋭くした。

「じゃあ、あんたはこれが、殺人だと思うんだね」

 私はがつんと頭を殴られた気分になった。自身の発言を思い起こす。『誰かが意図的に稼動領域を広げた』と、私は言った。自殺でもない限り、被害者は自分で稼動範囲を広げるようなことはしない。では第三者が設定を変えたのか。どうして。それは殺人のためだと考えるのが自然ではないか。

「それは」

 技術の話をしていたはずだったので、仕事と同じように結果をもとに冷静に分析したつもりだった。しかし事件現場では、人間の黒い感情が絡んでいる可能性がある。私の言葉によって、疑われる人や罪を逃れる人が現れるかもしれない。参考人の発言の重さを、いきなり痛感することになった。

「いてっ」

 女が小さな悲鳴を上げて頭を押さえた。石島が丸めた手帳で叩いたらしい。

「そいつの言うことは全て無視してもらって結構です。ただ、あなたの発言が参考になるというのは、私も同意見ですがね」

 石島が優しい笑顔を見せる。その後、表情を百八十度変えて女の方を振り向いた。

「しっしっ。もう満足したろう、お前は現場に戻れ」

 女は思いの他、大人しく言葉に従い、席を立って出口に向かった。

「あの人も刑事なんですか」

「あいつは自己紹介もせずに現場まで連れて行ったんですか。いや、まったく呆れた」

 石島が頭を抱える。

「警察庁の研究所の人間ですよ。こういう特殊な事件に派遣されて、現場をかき乱す厄介者です」

「厄介者ではなく、生駒累。科学警察研究所、捜査支援研究室および生物第二研究室所属。犯罪心理と法医学のエキスパート。以後、お見知りおきを」

 女は聞き耳を立てていたようで、休憩室のドアの前で、身分証明書のカードを掲げてこちらを向いていた。写真に写った彼女も、同じドヤ顔を向けていた。

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