雨滴

 ロクゴノイは、私のことばなど耳に入らなかったように怒鳴った。

「はなしは終わりだ。さっさと出ていってくれ。出ていかないなら巡邏を呼ぶぞ」

 普段なら、なによりも揉め事を避けようとしたであろう。だが、これが最後の機会になるかもしれないのだ。

「呼べばいい。こちらはタルカ将軍の許可を得ている。この都でタルカ将軍以上の命令以上のものがあるとは思えないし、巡邏ごときは私が追い返してやる」

 脅しには脅しだ。

 だが、これくらいの脅しに屈するようであれば、セーチノフ伯はロクゴノイに赤ん坊を預けたりはしないだろう。

「将軍様であろうと、ワシの家には手を出させねぇ。さっさと出ていかないと、犬をけしかけるぞ!」

 急に口が悪くなったが、この男のセーチノフ伯への忠誠心は絶対なのであろう。

 険悪な空気が流れる。

 押してもダメなら、引いてみることも必要か。

「あなたの誠実さはわかった。だから、こうやって頼む」

 頭を深くさげる。

「物心がついた子どもなら、顔を見せることも害になるかもしれないが、まだひと月もたたない赤子だ。一目、顔を見せてもらうだけでいい。このあと、私は戦場に戻り、二度と帰ってこないかもしれないんだ。アストは、私の子ではないといっていたかもしれないが、私の子どもである可能性もある。ヴィーネ神にかけて、顔を一目見るだけで立ち去る。あなたも親の気持ちはわかるだろう。頼む、ひと目でいいんだ」

 顔をあげて、真っすぐロクゴノイの目をみる。

 なにも恥じるところはないし、なんの打算もない。

 ただ、アストが残した忘れ形見をひと目見て、自分の心を納得させたいのだ。

 かなり長い時間、私とロクゴノイは見つめあっていたと思う。先に口を開いたのはロクゴノイだった。

「顔を見るだけで、抱きあげることも許さない。入口から顔を見るだけだぞ」

 ロクゴノイは、なにもいわずに入口の部屋から奥に入っていった。

 その後について奥の部屋に入ると、先ほど入口の扉を開けた年配の女性が赤ん坊をあやしている。

 早産だったのだ。赤子はとても小さく弱々しく見えた。

 その顔にアストの面影があるようにも思えたが、この距離だとよくわからない。

 近づこうと前に足を踏み出したところで、ロクゴノイが肩を強い力でつかんだ。

「約束を忘れたか。それに、そんな汚れた体で赤子に近づくと病気になるぞ」

 もっともな指摘だ。こんなあかにまみれた体で近づくのは間違っている。

「すまない。約束は守る」

 自分の子どもであるかどうかなどわからなかったが、無垢な赤ん坊の姿をみると、そんなことはどうでもよいことのように思えた。少なくともあの赤ん坊は、アストの子どもなのだ。

「ありがとう。これで思い残すことはない。最後にひとつききたいんだが、かまわないか」

「ああ、なにがききたいか、ワシにはわかってるよ。あの子は立派な男の子で、名前はエイヴァル。小さく生まれたが、ワシたちが大きく育てる。育ててみせるさ」

 この夫婦なら、最善を尽くしてくれるだろう。

「これ以上は未練になります。もし生き延びることができれば、また顔を出すことがあるかもしれないが、今日はこれで帰ることにします。あの子を頼みます」

 もう一度深く頭を下げる。

 清潔に磨き上げられた廊下の床を、なぜか雨滴うてきが濡らしていた。

 その時、自分の双眸から涙があふれていることに、はじめて気がつく。なぜ泣いているのかはわからなかったが、楽しかったことも、嫌なことも、すべてが涙とともに流れ出していくように感じた。

「ロクゴノイさん、ありがとうございました」

 そういうと、私は逃げるようにロクゴノイ装具店を後にした。

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