柳生十兵衛 心眼の太刀
超獣大陸
その歴史。
柳生新陰流という流派がある。
その創始は戦国末期。数々の剣術流派の始祖とされる上泉伊勢守に師事した柳生石舟斎が、『無刀の工夫』を完成させ、開いたという流派である。
この柳生の一族は剣の世界だけでなく、江戸の政事(まつりごと)にも影響を及ぼした。それは単に徳川将軍家の兵法指南として先の石舟斎の五男――柳生宗矩が選ばれた為である。
結果として、彼は一剣士から十二万五千石の大名にまで上り詰め、他に類を見ない大出世をなした。
この剣術は『天下の御流儀』と呼ばれ、異常なまでに広く普及した。あらゆる藩の重職の者が彼の流派との関係を求め、それは藩政に影響を及ぼすほどの勢いだったのだ。
ただ、この宗矩という男が喰えない。
剣の腕はさほどもない。彼の剣は父からも、甥の兵庫介(ひょうごのすけ)の方が優れていると云われるほどでしかなかった。
しかし世渡りが異様までに上手いのだ。機を見て、人を見て、時勢を知り、多勢をおさめる事に長けていた。
……有り体に言えば『心眼』が優れていたのである。
さて、その人脈や智謀で将軍家の参謀とまで云われた宗矩は晩年に三代将軍・家光の為に『兵法家伝書』という秘伝書を残す。
そこには剣法や政治に関する技術、心構えもさることながら、この賢人の禅的な思想が多く盛り込まれていた。
一説に『殺人刀、活人剣』なる思想がある。
『一人の悪に依て万人苦る事有り。
しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。
是等誠に、人をころす刀は人を活かす剣になるべきにや』
即ち、天理において生者を殺す事は間違いであるが、万人を害する悪においてはこの道理ではないという事だ。
一を殺し、万を生かす。
なるほど将軍家の兵法としてこれほど相応しい思想はない。政事を行う者にとっては余りに正しい道である。
だが、これに疑念を抱く男がいた。
宗矩が長男――十兵衛三厳である。
彼は気性が荒く、また剣術使いとしての才もあった。理由は知れないが宗矩とは真逆の性格であり、当然のように思想も違ったのだ。
彼は十三の頃より三代将軍家光の小姓として仕え続けた。年齢も三つしか変わらなかったため、自然と意気投合し、家光とかなり近しい者として生きてきた。
その十兵衛と家光の仲が、ただの主従から変わったとき、父と子の軋轢は致命となったのである。
この物語は、時にして寛永三年。
西暦一六二六年。
十兵衛二十歳の折。
その左目にまつわる事件から始まる。
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