おっさんとゴブリン

竹雀 綾人

第1話 おっさんとゴブリンと審問官と。

 男はムートンジャンバーの襟を立てた。

 昼間は汗ばむほどの陽気だったのに、夜になると寒いというほどではないにしても風が冷たい。

 もう一度襟元を直してから男はポケットに手を突っ込んで足を速める。

ふいに足を止めると右手をポケットから素早く取り出し、右からの風に煽られたフィールドハットを慌てて押さえ、右手をポケットに戻そうとしてあわてて再びハットを押さえる。

 そしてハットを抑えたまま歩み出した。

 その先にはひときわ明るい光が裏路地を照らしていた。

 がらりとした狭い駐車スペースを横切る足がしばし停まる。

 片足を上げて靴底を覗き込んだ男は顔をゆがめると靴をアスファルトにこすりつけ、もう一度靴底を見てからため息をついて歩き出した。

 コンビニの出入口に近づくにつれ、男は目を細め、眼鏡を直す。

 コンビニの明かりはとにかく強い。

 暗い中を歩いてくると眩しいほどだ。

 強い光から逃れた影は、それがゆえに縮こまるように寄り集まって色濃くなる。

 その色濃い影の中に、それは、いた。

 コンビニの店舗に向かって左の影にうずくまった小さな人影。

 濃い灰色のパーカーのフードを頭からすっぽりかぶって影の中にうつむき加減でしゃがみこんでいる。

 こんな時間にこんな小さな子供がこんなところでひとりでうずくまっている違和感。

 ただ最近の子供は塾帰りとかで遅いこともあるし、迎えを待って風を避けるために影にうずくまっている可能性もある。

 そもそも関わり合いになると非常に厄介だ。

 中年男が子供に声をかけるだけで『男が子供に対して挨拶する案件が発生』などと通報される世の中だ。

 世知辛い話だが。

 男はそのまま気がつかないふりをして、コンビニ前のマットにもう一度靴底をこすりつけると中に入る。

 中は明るく温かい。

 それゆえになんであんな所にいるのかとさらに違和感が膨らむ。

 膨らんだところでできることは何もない。男は小さく口元をゆがめた。

 入ってから直ぐ右に足を向け、意味もなく雑誌棚の前を通り、コールドドリンクの棚を眺めてから弁当の陳列棚へと足を向ける。 

 空きの目立つ弁当の陳列棚を眺め、眺めているうちに特に食べたいものがないことに気がつく。というか、選ぶのが面倒くさい。カツ丼とマーボー丼を見比べてから、レンジで温めるだけの鴨南そばを手に取る。

「いらっしゃいませ!」

 レジに立つ店員が決まりごとのように声を上げる。

「温めますか?」

「いや、いいです」

 そういってから男はレジの脇にあるホットドリンクの棚からお茶を一本とり、少し考えてからもう一本を手に取ってカウンターに置く。

「それから肉まんひとつにあんまんひとつ」

「ありがとうございまーす。ポイントカードはお持ちでしょうか?」

「あります……はい」

「ありがとうございます! 袋はご一緒でよろしいでしょうか?」

「いいです」

「ありがとうございます!」

 店員は中華まんを紙袋に入れると、他の商品と共にレジ袋の中に入れた。

 男は支払いをすませ、レジ袋を手に取ると出入口に向かう。

 出る前にハットに右手を添えた。

 コンビニを一歩外に出ると男はハットに添えた手に力を込めた。ハットのつばが軽くしなる。

 男はそのまま右に身体を向けて足を進め、コンビニの隅でもう一度右に身体を向ける。

「早く帰れよ?」

 男はそう言って中華まんの入った紙袋とお茶のペットボトルを影の中に座り込む子供に差し出した。

 影の中の子供は少し顔を上げた。

 フードの中の顔はよく見えない。

 ただ、紙袋とお茶を受け取った手は、細く、影の中でも黒く汚れて見えた。

 男は受け取るのを見届けるとその場を足早に去る。

 余計なことをしてしまった。

 そんな思いが男の中にうずまいていく。

 この後、親が迎えに来て『知らないおじさんからもらった』などと言われて、面倒なことにならないとも限らない。

 とにかく、今できることは、この場を早く立ち去ることだけだった。




 表通りの交差点にある雑居ビルの地下に男は足を運ぶ。

 かつては映画館も入っていたビルだがいまは閑散として見る影もない。

 やっているんだかやっていないんだかも定かでない居酒屋やスナックが並ぶ通路の一番奥、他の店舗とは不釣り合いな、まるで倉庫のような薄いクリーム色をしたスチール製の扉の前に立つ。

 扉には安っぽい白いプラスチップのプレートに黒いゴシック体で『吉谷ピーアイエス』と書かれていた。

 男は扉の前に立つと黒いジーンズのポケットから鍵を取り出す。

 小さな金属音が二つ。

 程なくして男は扉を開けて中に入る。

 男が暗い中、扉の近くに手をやると部屋の中が照らし出される。

 低いソファーに丸いテーブル。

 カウンターにカウンターチェア。

 天井から吊るされたテレビモニター。

 外の扉とは裏腹に、内装はスナックそのものだ。

 ただカウンター裏の棚に酒瓶ではなくファイルのようなものが並んでいるし、部屋の隅にも段ボールが無造作に積まれていたりするところを見るとスナックとしては使われていないのは明白だった。

 男はジャンバーとハットを脱ぐとソファーに投げ置く。それからコンビニの袋を持ったままカウンター裏からドアの無い出入口を通って隣の部屋へ行く。

 そこは小さなキッチンだった。

 男は袋からそばを取り出すとふたに貼られたシールに目を向ける。

 眼鏡を額にずらし顔を近づける。眉間にしわが寄った。

 それから棚に置かれた電子レンジに買ってきたそばを入れるとレンジについたダイヤルを回してからボタンを押す。レンジの中が淡く光り、低く小さな唸るような音が響き出す。

 その間に男は袋からお茶を出すとキャップを外して一口飲んだ。

 そこで箸が入っていないことに気がつくいた。

 そばの方についているだろうか?

 だとしてもおそらく短い箸だろう。

 男は棚から自分の箸を取り出す。

 程なくしてレンジからおなじみの電子音が鳴り響く。

 男はレンジから温まったそばを取り出すとシンクの脇でラップをはずし、そばの上に箸とお茶のペットボトルを乗せてキッチンを出る。

 そして丸テーブルにそばを置くとソファーに浅く腰を下ろした。

 ふたを開けると湯気と共に鴨の油の甘い匂いが立ち込めてくる。

 このそばのいいところは本当にレンジにかけるだけでできるところだ。

 別の袋から汁を入れる必要さえない。

 おそらくゼラチン状にした汁が底に入っているのだろうとは思うが、確認したことはない。

 値段もほどほどで、そこそこ美味いというのも重要なところだ。

 男は軽くかき混ぜてからそばをすする。

 程よく甘い汁が食欲をそそる。

 ただ量はそんなに多くはない。多くはないが男にはこれぐらいで十分だった。

 ほとんど咀嚼もせずにそばを食べ終えると汁まで飲み干す。それからお茶を飲んで空いた器にふたをするとソファーに深く腰を掛ける。

 腰を深くかけたところで男の身体が跳ね上がった。

 跳ね上がった原因。それは部屋の中を突然襲った音だ。

 音の発信源はスチール製の扉。つまりこの部屋の玄関にあたる扉だ。

 その扉が激しく叩かれている。ノックされているという方が正しいか。

 ただ気になるのは叩かれているらしい場所がすこし低いということだ。

「酔っ払いか?」

 男はため息交じりにそうつぶやいた。

 周りがスナックや居酒屋だし、ここも元はスナックなので酔っ払いが店を間違えて扉をたたくことはよくあった。だからスナック然とした木調の扉から事務所然とした殺風景なスチール扉に変えたのだ。

 変えてからは酔っ払いが叩くことは激減したが、まったく無くなったということでもない。

 男はソファーから立ち上がるとカウンターに向かう。

 そしてその上に置かれたテレビのリモコンを天井から吊るされたテレビに向けた。

 テレビに映ったのはニュースの画像。

 それからさらに男はリモコンを操作する。

 画面が切り替わり奇妙な画像が映し出された。

 画面は上下左右四つに分かれている。

 ひとつには集団住宅のポストのような画像。

 ひとつには階段の画像。

 ひとつにはスナックや居酒屋の看板が映る通路の画像。

 そしてもうひとつにはクリーム色のスチール扉をたたくパーカーを着た子供の姿が映っていた。

「まじかぁ……」

 男はテレビの画像を見ながら小さくつぶやいた。

 どうする?

 男は考えを巡らせる。

 居留守を装うという手もある。諦めてどこかに行ってくれるかもしれない。

 それが最もいい手に思えるが、余りしつこく粘られると周りの店舗から誰かが出てくるかもしれない。

 そこを見られるのはそれはそれで厄介だ。

 そもそもなんでここにいる?

 おそらくつけてきたということだろうが、男は全然気がつかなかった。

 職業柄注意しているつもりだったのだが……

 男は思案するがどうにも思い当たらない。

 それにつけてきたと考えると明確な意思で扉を叩いているということになる。

 あっさり諦めることはないと判断した方が良いだろう。

 そこまで考えて男は頭を横に振った。

 あそこで情が湧いた時点で俺の負けということだ。

 男はテレビの画面をニュースに戻すと電源を落としリモコンをカウンターに置く。

 そして音を立てる扉の前に行くと、二つある鍵をゆっくりと解除し、扉を引いた。

 開かれた隙間から飛び込む影。

 飛び込んできたと同時にその影は男の開けた扉を体当たるようにして閉めた。

 男も呼応するように鍵をかける。

 その影は扉に背を持たれかける。深く被ったフードの奥からため息が漏れ聞こえた。

 大き目のパーカーの袖口から見える手は、暗がりでは汚れているのかと思ったがどうも地肌のようだ。

 黒いといっても黒褐色ではなく、緑がかった濃い灰色に見える。

 フードの下から聞きなれない音が聞こえた。その音は、おそらく声で、何かをつぶやいたようだった。

 その顔が上に向けられ、フードが外される。

 その顔を見た途端、男の口からは大きなため息が漏れた。

 それは面倒ごとに巻き込まれたという悲嘆のため息でもあり、まだ自分で対処できる範疇に収まるかもしれないという安堵のため息でもあった。

 とにかく、『子供を食べ物で釣って家に連れ込んだ』などという、あらぬ疑いをかけられることは無くなったことは確かだった。

 大きく赤い双眸がこちらを見上げている。

 唇の薄い大きな口からは鋭いサメのような歯が覗いている。

 横に伸びた先の尖った耳が左右から垂れ気味に突き出ている。

 ただその頭を覆う軽く波打った金髪は珍しい。

仕事柄この手の輩には何度もあったことがあるが、これほどの金髪は数回しかお目にかかったことはない。

 その珍しさがここにいるひとつの要因かもしれなかった。

 つまり人身売買だ。

 珍しい妖精や妖魔の類が好事家の間で違法に取引されるのは実はよくある。

 おそらくそんな感じで連れてこられたところを逃げ出してきた、といったところだろう。

 そんなわけで目の前で男を見上げる子供の正体は子供でもなんでもなく、欧州の伝承によく見かける悪戯好きの小妖精。一般に知られる名前で言えばゴブリンだった。日本ではゲームや小説、漫画などでおなじみな名前だ。

「地獄に仏とはこのことダ」

 ゴブリンは男を見上げて耳を上下に小さく揺らす。

「言葉がわかるのか?」

 男の問いかけにゴブリンは右手のこぶしを突き上げた。

 その人差し指にくすんだ銀色の指輪がはめられている。

「なるほど」

 男は頷いて無意識に自分の右手を触る。その人差し指にも指輪がはめられていた。

「しかしこんなところで会うとはナ。あいかわらず審問官をやっているのカ?」

「ちょっとまて」

 少し掠れた高い声で、弾むように喋るゴブリンに対し男は手を挙げて制する。

「誰だお前?」

「ン?」

 今度はゴブリンが小さな短い眉を歪め、揺れていた耳が心なしか下に垂れる。それからパーカーの中に手を入れて何かを探すようなそぶりをした。

 出てきた手には四角い革の板状のものが握られていた。

 革は二枚が重ねられており、その隙間になにかをはさんでいるようだ。

 その革の隙間から、ゴブリンは一枚の紙片を取り出す。

「これ、主だよナ?」

「……懐かしいな、おい」

 差し出された紙片は名刺だった。

 青地に白で描かれた丸い世界地図とそれを囲むオリーブの葉のマーク。それから『審問官』の文字。さらにその下に『吉谷 道充』と書かれている。それは男が以前の職場で日本の政府機関に協力を求めるときに使っていた名刺だった。

「十年以上……いや十五年以上になるか……なんでそんな古い名刺をお前が……いやいや、まてまて」

 今度は男が頭を押さえ眉をひそめる。逆にゴブリンの方は再び耳を上下に揺らし始めた。

「お前! ゴブ子か!」

「だかラ! われはゴブ子じゃなくテ!……」

 そこまでいってからゴブリンは言葉を止め、首を横に振ってから頷いた。

「いヤ……ゴブ子でいいカ」

「そうかぁゴブ子か! 全然変わってないけどわからなかったよ」

「少しは大きくなったゾ! 主も相変わらず老けてるナ!」

「はっはっは! 言うなこいつ!」

「やめロ!」

 男はゴブリンの頭に手を乗せるとその金髪をかき回す。

 ゴブリンはその手を両手で押さえて非難の声を上げる。

 ゴブリンの両耳は上下に揺れている。

「はっはっは! ともかく元気そうでなによりだ」

 男はさらに激しくゴブリンの金髪をかき回す。

「やめろォ!」

「はっはっは!」

「やめろォ!」

「はっはっは! 元気そうで何よりだから、さっさと帰れ!」

「あいタ!」

 男の怒号と共に乾いた音が響く。

 ゴブリンが両手で頭の天辺を押さえた。

「なんでお前がこんなところにいる!」

「なんでっテ! 拉致られたんダ! われは被害者だゾ! 助けロ!」

「また自分で余計なことに首をつっこんだんだろう!」

「そ、そんなことハ……ないゾ?」

赤い大きな瞳が世話しなく揺れる。

 男は肩を落としながら大きく息を吐いた。

「とにかくそんなことばかりしていると、そのうち本当に酷い目にあうぞ?」

「われがそんなへまをするかヨ」

「やっぱりわざとやらかしたな?」

「ア……まぁいいじゃないカ」

「良かねぇよ……」

 男は肩を落としながら大きく息を吐き、さらに頭痛を振り払おうとするかのように頭を左右に振った。

「良いじゃないカ。こうして無事だシ」

 口角を大きく上げて歯を見せるゴブリン。その表情に男はさらに大きく息を吐く。肺の中の空気が全てなくなるのではないかというほどの盛大なため息。

「……で、何でこんなところにいる?」

「拉致られたのは本当ダ。これには正直参っタ。さすがのわれでも焦っタ」

「ラビリンスにいて攫われたのか?」

「ラビリンスからその住人を拉致ることができる奴がいるわけ無いだろウ」

「じゃあラビリンスからのこのこ出てきたところをやられたわけだ」

「否定はしなイ。が、のこのこ出てきたわけじゃなイ」

「じゃあ何で出てきた?」

「……まぁそれは置いておいテ」

「そこを置くなよ」

「結果的にわれにとっては幸いなかたちになったからナ。良しということデ」

「俺にとっては全然良しじゃ無いんだが?」

「……まぁそれも置いておいテ」

「なんでもかんでも置きっぱなしじゃねーか」

 男はさらに肩を落として歩き出すと、もといたソファーに投げ出すように腰を下ろす。

 ゴブリンも後からついてきて男の脇に飛び乗り座った。

「ちゃんと片付けろよ?」

「わかっタ」

 吹けば飛ぶような軽い口調で答えるゴブリン。男のため息にのって、その言葉は吹き飛んだ。

「とにかく帰れるように手続きを取ってやるからおとなしくしてろ」

「……そういえば主は今でも審問官なのカ?」

「一応な」

「その割にはずいぶん羽振りがいいじゃないカ」

 ゴブリンは置いてあったペットボトルのお茶を軽い攻防の末に手に取ると勝手に飲み、それから周りを見渡した。

「ここなんか場末の酒場にしか見えン」

「まぁ間違っちゃいない」

 男はゴブリンからペットボトルを奪い返す。そして顔をしかめてから無造作にテーブルに置く。

「左遷カ?」

「失敬な。独立したんだよ」

 独立といえば聞こえはいいが、実際のところは職場に嫌気が差して辞めたというのが実際のところだ。それがかれこれ十年ほど前。その後は公的機関に属さない審問官、いわゆる私立審問官として糊口をしのいでいた。

 国連の審問官として働いていたころに比べれば気は楽だし、国連所属審問官の大半を占める魔術師出身者からの嫌がらせでストレスが溜まることも無いが、とにかく収入が悪い。

 元国連の審問官という肩書きと、そのころの人脈でどうにかやってはいるというのが実情だった。

「宮仕えは辞めたのカ。なら今は小さくとも一国一城の主というわけダ」

「独立したって審問官は『大協定グランドパクト』の僕だ。一国一城の主というわけに行くかよ」

「それでも自分の裁量で仕事ができるんだロ?」

「そりゃまぁそうだが……」

 ただし仕事を選り好みするような余裕はまったく無い。なので自己裁量などは無いも同然だった。

「部下なんかも自分で雇ったりできるんだろウ?」

「そんな余裕があればな」

「それなラ!」

 ゴブリンが身を乗り出して男を見つめる。

「われとファミリアを結ばんカ?」

「断る!」

 ゴブリンの申し出に即答で拒否を示す男。

「なんで俺がおまえとファミリアを結ばにゃならん?」

「われはなかなか便利だゾ?」

「アホか!」

 男はソファーに大きくもたれ掛かる。

「だいたい何を聞いていた? 余計な食い扶持を稼ぐ余裕なんかまったく無い!」

「われの食い扶持なんかたかが知れてるだロ」

 なおも食い下がるゴブリン。

「それにわれはゴブリンとは言ってもホブゴブリンの血統に近いからナ。家事全般万能だゾ? 好きだしナ!」

「家事ぐらい、得意とは言わんが困らない程度には自分でできる。食事はコンビニだってあるしな。間に合ってる」

「毎日コンビニ弁当カ? コンビニ弁当が悪いとは言わないガ、もっと栄養のバランスを考えてだナ」

「おまえは何か? 俺の母親か? 余計なお世話だっての! というか妖精の癖にコンビニとか良く知ってるな?」

「われらだって古代や中世に生きているわけじゃなイ。今を生きていル。それぐらい知っているワ! まぁティル・ナ・ノーグに引き篭もっている連中は知らんだろうがナ」

「なるほど。それもそうか」

 男は小さく頷く。頷いてから首を横に振った。

「いや、そうじゃなくて。とにかくファミリアはいらん」

「そんな即答しなくてモ……」

「考える余地がないからな」

 取り付く島もなく答える男。ゴブリンの耳が力なく垂れ下がるが、程なくして大きく振れる。

「見たところ女っ気もなさそうだシ、われなら夜の相手モ……」

「アホか!!」

 男は身を乗り出して怒号を上げた。ゴブリンは身を少し縮こまらせるが両耳は軽快に揺れている。

「お前みたいなちんちくりんを相手にするか! 俺はもっと大柄な女性が好みなんだよ!」

「知らぬ仲でモ……」

「それ以上言うと今すぐにたたき出すぞ?」

 低い声でゆっくりと唸る男に対し、ゴブリンは耳を揺らしたままゆっくりと両手を挙げた。

「わかっタ。とにかく身の振り方が決まるまでは置いてくレ。それも駄目カ?」

「……しかたねぇなぁ」

 男は立ち上がると別の部屋から毛布を持ち出してきた。そしてその毛布をゴブリンに投げて渡す。

「とりあえず今日はそこのソファーで寝ろ」

「……主がソファーでわれにベッドを貸すのが紳士的な対応じゃないカ?」

「外で寝たいなら毛布はもっていっていいぞ?」

「寝心地の良さそうなソファーだナ!」

 ゴブリンはそういうと毛布に包まってソファーの上に寝転がる。すぐに静かな息だけが微かに男の耳元を揺らす。

 男はソファーに寝転がるゴブリンに視線を落とすと静かな息を吐く。

 そしてきびすを返すと毛布を取ってきた部屋へと向かう。

 その出入り口でゴブリンの寝る部屋の照明を落とした。

「おやすミ、ミチミツ」

 ゴブリンの小さな声が男の背後から小さく撫でるように追いかけてきた。

「おやすみ、ゴブ子」

 道充は小さく呟き、ゴブ子の寝る部屋を出た。




 どこか懐かしい音で道充は目が覚めた。

 目覚ましを見るとアラームの鳴る二分前。

 道充は目覚ましのアラームを切るとそのまま身体を起こす。

 そして脇の椅子に掛けたジーンズを履き、パーカーを羽織ると部屋を出る。

「起きたカ」

 向かった先のキッチンではゴブ子が軽快に動き回っていた。シンクやガス台の前に並べた丸いスツールの上を飛び跳ねながら渡り歩く姿はほとんど曲芸だ。

「少し待テ。すぐできル」

「そんなことしたってファミリアにはならんぞ?」

「エー!」

「えー! じゃないよ。まったく」

「まぁ暫く厄介になるからナ。その礼だとでも思ってくれれば良イ」

 道充は椅子に腰掛けながら頷く。

「わかった。基本もらえるものはもらう主義だからな。遠慮はしない」

「そうしてくレ」

 水分を含んだ何かが熱いフライパンで焼かれる音と共に、ほの甘い香りが漂ってくる。 

「さテ、できたゾ」

 フライパンの中身をフォークで器用に皿に取り分けている。まずはその皿がテーブルへと運ばれた。それ以外にも次々とテーブルに皿が運ばれる。コップと牛乳のパックがテーブルに置かれ、フォークが置かれたところでゴブ子が前の席に着いた。

「冷蔵庫を勝手に漁ったゾ」

「よく作ったなぁ」

 素直に感心して見せる道充。

 フライパンで焼いていたのはフレンチトーストだ。

 もう一つの皿にはきゅうりのピクルスとザワークラウトが盛られている。

 道充は牛乳のパックを手に取るとゴブ子の前のコップと自分のコップに注いだ。

「パンが古そうだったかラ、フレンチトーストにしてみタ。作ったのはそれだけダ。バターがなかったかラ、ちょっと物足りないかもしれン」

「いやいや、大したもんだ」

 道充はフレンチトーストにフォークを入れる。すんなりとはいかないが、フォークだけで切り分けることが出来た。切り分けたフレンチトーストを口に運ぶ。優しい甘さが口の中にしみ出してくる。

「うん、美味い」

 道充のその言葉にゴブ子は両耳を揺らすと自分もフレンチトーストを食べはじめる。

「もう少し野菜が欲しかったナ」

「あるじゃないか」

 道充はザワークラウトをほおばり、丸のままのピクルスをフォークに刺すとそのままかじる.

「いや新鮮な生野菜……トマトぐらい置いておけヨ。プチトマトとカ」

「ホールトマトならどっかにあったと思うが」

「生野菜だって言ってるだロ」

「すぐ痛むからなぁ」

「一週間ぐらいは持つだロ。まめに食っテまめに買えエ」

「面倒くさいなぁ」

「われがやってやろうカ?」

「そうだな、よろしく頼む……って言うと思ったか? そうはいくかよ」

「チッ」

「まぁここにいるうちはよろしく頼む」

「……便利に使われている感満載だナ」

「便利に使ってるんだよ」

 食器が軽くぶつかる軽快な音の中でぶつかり合う会話は、小気味よい馴れ合いの応酬と化していた。

「久々にまともな朝食を食った気がする。なんにせよ美味かった。ごちそうさま」

「おそまつさマ」

 ゴブ子はそう答えると食器を片付け始める。その様子を椅子に深く腰掛けて眺めていた道充であったが、不意に立ち上がるとキッチンの隅に置かれたキャビネットに向かう。

「ゆっくりしてていいゾ」

「いや、久しぶりにコーヒーでも淹れようと思ってな。飲むだろう?」 

「それはいいナ」

 背中を向けたままゴブ子が答える。両耳が軽快に揺れている。

 道充はキャビネットから秤を取り出すとテーブルに置きその上に小さなカップを乗せる。

 それから冷蔵庫に向かうと冷凍庫からジッパー付きの袋に入れたコーヒー豆を取り出し、豆を秤の上のカップに移し入れて二人分の豆を測り出す。

 豆と秤をそれぞれしまうと今度はキャビネットからコーヒーミルを取り出し、その上から豆を入れる。

「さて……」

 椅子に座りコーヒーミルに手をかけて豆を挽こうとした手が止まった。

 道充は再び立ち上がるとキャビネットへ。そしてコーヒー用の口の長いケトルを取り出すとシンクに向かう。

「ちょっとごめん」

「ン」

 洗い物をするゴブ子の脇からケトルを差し出すと、中に水道の水を注ぎ、そのまま脇に移動するとコンロにおいて火をつける。

 それからコーヒーミルの前に戻ると腰を掛け、コーヒーミルを左手でしっかり押さえてから右手で取っ手を回し始める。

 堅い豆が細かくすり潰されていく雑音が、揺れるコーヒーミルの音と共に耳障りの良い不協和音を奏でる。

 力強い不協和音が気の抜けたような空回る音に変わると、道充はコーヒーミルの下のガラスの器に溜まったコーヒーを取り出そうとして再び手を止める。

「そのまえに……」

 道充は再び椅子から立ち上がるとキャビネットからガラス製のサーバーと金属製のドリッパー、そして茶色をしたペーパーフィルターを持ち出す。

 そしてサーバーをテーブルに置き、ドリッパーをその上に置くと、ペーパーフィルターの端を少し折ってから広げ、ドリッパーにセットした。

「お湯が吹いてるゾ」

 ゴブ子の言葉に道充はレンジに足を運ぶ。細長い口からお湯がリズミカルに噴出している。レンジの火を止めるとケトルはそのままにテーブルに戻り、コーヒーミルから挽いたコーヒーをペーパーフィルターへと移す。

 そうしてからお湯の沸いたケトルを手に取ると静かにフィルターの上のコーヒーへと注いでいく。

 サーバーの底に一つ二つと茶色の水滴が染みを作ったところで道充はお湯を注ぐのを止めた。

 それから壁に掛けられた時計に目を向ける。

 秒針が進んでいく。

 それが三十を数えたところで道充は再びケトルを傾けた。

 コーヒーの粉の上に円を描くようにお湯を注いでいく。

 お湯を注がれたところがゆっくりと膨らんでいく。

 キッチンにコーヒーの苦く豊かな香りが漂う。

 サーバーに茶褐色の液体が静かに揺蕩う。

 サーバーに書かれたメモリの二つ目を超えたあたりで道充はドリッパーを乗せたままサーバーを左手に持ってシンクに向かう。そしてサーバーをシンクの縁においてから、上に乗ったドリッパーをシンクの中に置いた。ドリッパーからコーヒーが流れてシンクに褐色の筋を描く。

 右手に持ったままのケトルをコンロに置くとサーバーを持ってテーブルに戻る。

 そこにはゴブ子とマグカップが二つ。

 道充はサーバーにふたをしてからマグカップにコーヒーを交互に注ぐ。注ぎ切ったところで片方のマグカップをゴブ子の前に置き、もう片方を手に取ると椅子に座った。

「いい香りダ」

「ペーパードリップはそれなりに手順を守ればそこそこ美味くできるのが利点だな」

 道充も香りを楽しみながらゆっくりとコーヒーを飲む。

 それからは言葉はなく、ただコーヒーの香りとそれを飲む小さな音だけがキッチンに優しく広がる。

 何とも言えない静かで豊かな雰囲気は非常に得難いもので、得難いがゆえに簡単に崩される。

 それは非常に解りやすく、単純な形でやってきた。

 けたたましく叩かれるドアの音。

 それに伴う怒号。

 ドアから少し隔たりがあるためか、声はくぐもりよくわからないが、ドアを叩く音は真直ぐに響いてくる。

「コーヒーぐらい静かに飲ませろよ」

 道充はカップをテーブルに置くと席を立つ。

「お前はここから動くなよ。場合によっては隠れろ。得意だろ?」

「わかっタ」

 ゴブ子は大して気にした風もなく、コーヒーを飲みながら頷いた。

 道充はキッチンを出るとカウンターに置いてあったリモコンでモニターをつける。そこにはドアを叩くガラの悪い大柄な若者が映っていた。紫色の安そうなスウェットを着た、いかにもチンピラ然とした男だ。

 道充は盛大な溜息と共にモニターを消す。

 そしてけたたましく打ち鳴らされるドアの鍵を開けた。

「さっさと開けろよ!」

 チンピラは乱暴にドアを開けると噛みつくように吠える。

「朝早くからご苦労だな」

「てめーのせいだろうがよ!」

「借金の返済日はまだ先のはずだが?」

「返済日には返せるような口ぶりじゃねーか。あぁ?」

 チンピラは顔を斜めに傾けて投げつけるような視線を飛ばす。

「返せんのかよ? どうなんだよ? あぁ?」

 畳みかけるように怒鳴り散らすチンピラ。

「返すといっているだろうが」

 めんどうくさそうに道充はそう言い返した。

「返す当てなんかねーだろうが。わかってんだぞこっちは。実家を売り飛ばすってんなら多少は金になるかもしれねーけどな」

「実家を売るつもりはない」

 少し声を荒げて道充が言い返す。

「じゃあどうすんだよ! どうやって返す気だ? あぁ?」

 単調な怒号。単調がゆえにその怒号は道充をじりじりと押し込んでいく。

「どう返したって関係ないだろう。返しさえすれば」

「けっ」

 チンピラは小さく吐き捨てるともう一度道充をにらみつける。

「まぁいいや。今日は催促の話じゃねぇ。どうせ返す当てもないだろうと哀れんだ小父貴がてめぇに仕事だそうだ」

「仕事?」

「とにかく中入れろや」

 少し口調を和らげるチンピラ。仕事と言われれば仕方がない。道充はチンピラを中に通す。チンピラは大股で中に入るとソファーにだらしなく腰を下ろし、手に持っていたA4サイズの茶封筒をテーブルに投げ置いた。

「このガキを連れてこいってよ」

「ガキ?」

 道充もソファーに腰を下ろす茶封筒を手に取る。

「ハロウィンパーティの時の写真らしいぜ? しかしパーティの仮装でそんな映画張りのメイクをするなんざ、よっぽどの金持ちんところのガキなんだろうな。けったくそ悪いぜ全く」

「ハロウィン?」

 その言葉に違和感を覚えながら封筒から写真を取り出す。その写真を見た瞬間に声が出そうになるのを道充はどうにか堪えた。

「その写真で仮装しているガキを探し出して連れて来いって話だ。しかしなんでお前みたいなへぼ探偵に頼むんだ小父貴は? そこがよくわからねぇ」

 このチンピラは道充の仕事を探偵だと思っている。看板に掲げられた『ピーアイ』は『プライベートアイ』のことだと思っているようだが、実際は違うしそもそも『プライベートアイ』なら『ピーイー』だ。

 そしてこのチンピラの言う『小父貴』は道充の本当の仕事を良く知っているようだった。

 その仕事が『私立審問官』だ。

 ちなみに『ピーアイ』は『プライベートインクイジター』を指す。

 道充はもう一度写真に目を落とす。

 そこに写っていたのは、

 

 大きく赤い双眸。

 唇の薄い大きな口。

 横に伸びた先の尖った耳。

 頭を覆う軽く波打った金髪。


 間違いなくゴブ子だった。

「とにかくそのガキを連れてくれば、場合によっては借金をチャラにしてもいいって小父貴が言っている。どうだ、お前にとっては願ってもない話じゃないか。というか断る権利なんかお前にはないんだけどな」

 チンピラはそう言って立ち上がった。

「期限は返済日までだから一週間だ。金かガキか、用意しとけよ」

 それだけ言うとドアを開け、けたたましく閉める音だけを残して立ち去った。道充はすぐにドアの鍵を閉めると大きくため息をついた。

「帰ったカ。何の話だったんダ?」

「何でもない」

「借金があるのカ?」

「聞いてるじゃねーか」

「あれだけ怒鳴ってれば聞こえるだろウ」

「……ま、それはそうか。で、どこまで聞いた?」

「そんなことが気になるのカ」

「一応守秘義務があるからな」

 道充はそううそぶくが実際には違う。ゴブ子がどこまで知っているかによって今後の対応が変わるからに過ぎない。

「誰かを探せってところは聞こえたガ、だれを探すんダ?」

「それこそ守秘義務だ。それだけか?」

「そもそも指輪の影響がない相手だからナ。何を言っているのかよくわからン」

 そういえばそうだ。道充は頷く。あいつには道具を使う素養もないだろう、と。

 しかしゴブ子は何を言っているかわからないといった割には借金のことは気がついている。慎重に動いた方が良いのは間違い、道充はそう感じていた。

「なんにせよお前の気にすることじゃない」

「そうカ」

 ゴブ子は素直にうなずく。

「……しかし朝から験が悪いな。コーヒー飲み直すか」

「それはいいナ」

 ゴブ子も頷く。

「それなら甘いものが欲しイ。何かないのカ?」

「甘いものぉ?」

 道充は思案を巡らせる。

「……板チョコぐらいならあるか」

「確かに甘いガ……そうじゃない感満載だナ」

「うーん……」

「ネットでデリバリーとか出来ないのカ?」

「お前ゴブリンのくせにそういうの本当に良く知ってるよな」

「ソールズベリーにだってネットカフェぐらいあル」

「そりゃあるだろうが。お前ネットカフェ入ったことあるのか?」

「意外とばれないゾ?」

「マジかぁ」

「マジマジ」

「まぁ……そんなもんかもなぁ」

「ここでもネットは使えるんだろウ?」

「そりゃ使えるが……」

 そう言ってから道充はしばし考える。それからジャンバーを羽織りハットをかぶった。

「コンビニでケーキでも買ってくるか」

「それならわれもいク!」

「あほか」

 ゴブ子の言葉を道充は一蹴する。

「お前なんでここにいるのか忘れてないか?」

「ア……」

 ゴブ子の耳が下を向いた。

「とにかくお前はここでおとなしくしてろ」

「わかっタ」

 ゴブ子は頷く。

「鍵はちゃんと閉めておけよ」

「わかってル」

 ゴブ子は再び頷く。それから耳が上に持ち上がった。

「そうダ!」

「なんだ?」

「昼飯と夕飯の材料を買ってこイ。作ってやるかラ」

「……材料を買って来いって言われても、何を買ってきたらいいのかわからん」

「適当に買ってくればいイ。適当に作るかラ」

「適当って言われてもなぁ」

 そういいながら道充はドアを開ける。

 そもそもどこで買えばいい? そう考えながらドアを閉めるとすぐに鍵が閉まる音がした。


「で、買ってきたのはこれカ?」

「思わぬ遠出になっちまったよ。まったく」

 結局コンビニでは買い揃えられず、道充は足を延ばしてデパートの地下まで行くことになった。

「ニンジン、タマネギ、ジャガイモ、肉……」

 ゴブ子は次々に袋から出してテーブルに並べていく。

「……そしてカレールーカ。さて、何を作ル?」

「好きに作れよ」

「この材料でカレー以外の何を作れというのダ?」

「いいじゃねぇか、素直にカレーで。俺カレー好きだし」

「……まぁいいカ」 

 ゴブ子は袋の中身を冷蔵庫に入れ始める。

「水っぽいのはやめてくれよ?」

「水っぽイ?」

「そっちじゃシチューみたいなカレーが主流じゃなかったか?」

「カレールーがあるのニ、こっちもそっちもあるかヨ」

「それもそうか」

 冷蔵庫に食材を仕舞い終わったゴブ子がテーブルに戻ってくる。そしてテーブルに置かれた手提げのついた箱を開けた。

「プロフィトロールカ。旨そうダ」

「シュークリームな」

「そこはせめてクリーム・パフって言えヨ」

「郷に入っては郷に従えって言葉、知ってるか?」

「わかっタわかっタ。それよりもコーヒーハ?」

「おっと、そうだった」

 道充は促されるようにコーヒーを入れる準備を始めるのだった。




 道充はベッドの上で身体が妙に重いのを感じた。

 久しぶりに腹いっぱい夕食を食ったせいなのかもしれない。

 道充はそう思いつつ寝返りをうとうとするが身体がうまく動かない。

 不意に寒気を感じる。

 いや、寒気ではない。

 寒い。

 どうも布団をはだけてしまったようだ。

 手を伸ばして探るが全然布団が見つからない。

 ベッドの下に落ちたのかと思い身体を動かそうとするがやはりうまく動かない。

 金縛りというには両腕は自由に動く。

 そうやって闇雲に両手を右往左往させているうちに、指先が何かにぶつかった。

 ちょうど下半身の上の辺り。

「なにやってやがる」

「われが借金のかたになってるんだロ?」

「やっぱり聞いてたか」

「借金のかわりに売られるのは困ル」

「それと今の状況とどういう関係がある?」

 目を開けた道充に映っていたのは、道充の上に裸で馬乗りになっているゴブ子の姿だった。

 淡い常夜灯に照らし出された、緑灰色の肌が細くて薄い曲線を描いている。

 ただ波打つ金髪と赤い双眸、そしてゆがめた口に綺麗に並ぶ白い尖った歯だけが、少ない光を反射して、道充の目には陰の中でも輝いて見えた。

「とりあえず色仕掛ケ」

「とりあえず色仕掛けってお前、そんな貧相な身体でか?」

「その割には元気そうだガ?」

「そういうもんなんだよ」

「嫌なら押しのければいイ。貧相なわれを押しのけるのなんカ、簡単なことだロ?」

「据え膳は好き嫌いなく食べる主義だからな」

「相変わらず流されやすいナ」

「……否定はしない。それを知ってるからこういう手に出たんだろうが?」

「ま、それもあル」

 ゴブ子の両手が道充の両肩に置かれ、その身体が大きくのしかかる。

「それにわれとの仲を思い出せバ、そう無下にも出来まいしナ」

 曲げられていたゴブ子の両腕がゆっくりと伸び、のしかかっていた上体が起き始める。

 そして上体が起き上がり、両腕が伸び切ったその時、ゴブ子の両耳が飛びあがり、道充が顔を大きくゆがめた。

「あいタ!」「痛!」

 ふたりの悲鳴にも似た短い声が重なり合い、そのまま倒れこむようにゴブ子の上体が道充に再びもたれかかる。ただその片手は道充の肩から離れ、自身の下半身へと延びていた。

「奥に当っタ……」

「お前何仕込んでやがる!」

「……忘れてタ」

 下半身を探っていたゴブ子の手が、向かい合ったゴブ子と道充の顔の真ん中に差し出される。

 その手には小ぶりな鶏卵ほどの青い石が握られていた。

 道充はサイドテーブルから眼鏡を掴む。

「サファイアか? 随分でかいな。こんなの仕込んで忘れるか普通?」

「忘れるぐらいじゃないト、動きに支障が出るだロ」

「なるほど……と、言うべきなのかどうか……」

 道充はゴブ子の手からそのサファイアを受け取る。ぬるりと濡れた表面と深い青が淡い光でもはっきりと輝く。そしてその中に六条の筋が放射状に描かれる。

「スターサファイアか……結構なものだろうなおそらく。こんなものをどこで……」

 そこまで言って道充は首を横に振った。

「聞くだけ野暮だな」

「逃げるついでにナ」

「本当に油断も隙もないやつだな」

 ゴブ子は笑みを浮かべながら道充の手からサファイアを受け取る。そしてその耳が上に飛び上がった。

「これを売れば借金が返せるんじゃないカ?」

「それを売る? 売るってお前、それ盗品じゃ……」

 そこまで言って道充は口をつぐんだ。

 確かに盗品だが妖精を拉致して違法取り引きするような輩の持ち物だ。警察に被害届が出されるようなことは無いだろう。しかし持っているのも危険が伴う。ならば処分してしまうのもひとつの手だ。

 道充にしても清廉潔白を気取るつもりは毛頭無いし、幸いそういった伝手を知らないわけでもなかった。

 足がつかないようにするには相当に足元を見られて買い叩かれるのは間違いないが、それでも借金を完済してお釣りが来るぐらいの収入にはなるだろう。

「……いいかもしれん」

「だろウ!」

 ゴブ子の耳が上下に揺れ、口角の上がった口から歯が覗く。

「われのおかげで命拾いしたナ!」

「……そうだな」

 意気揚々と告げるゴブ子に対し、道充は色々といいたいこともあったが、ゴブ子のおかげで厄介ごとが片付きそうなのも確かだった。なので素直に同意するにとどめる。

「うんうン」

 ゴブ子は嬉しそうに頷くと、さらに口角を持ち上げる。

「では仕切りなおしダ」

 そういうとゴブ子は大きく反るように上体を起こした。




 道充がだるい身体を起こして目を横に落とすとゴブ子が寝息を立てていた。

 眼鏡を取ろうとサイドテーブルに手を伸ばすがいつものところにない。

 しばし考えた後、自然と口元がゆがんだ。

 眼鏡は掛けたままだった。

 もう一度ゴブ子に目を落とす。

耳を小さく震わせている。

 道充がその金髪を指先で軽く梳くと、鼻を小さく鳴らた。

「……悪いな」

 道充は小さく呟くと、サイドテーブルに置いたスマホを取り上げ、軽く数回タップすると耳に近づけた。




「ゴブ子、悪いが手を貸してくれないか?」

 程よく焦げた食パンにカレーをつけながら、道充はゴブ子に話しかける。

「お、ようやくファミリアにする気になったカ?」

「その話は置いておいて」

「なんだヨ」

 ゴブ子も食パンにカレーをつけながら少し不満げに答えた。

「例のサファイアを売るって話な」

「ああ、あれナ」

「故買屋に話がついた」

「随分話が早いナ」

「あんなやばいもの、さっさと処分したいからな」

「それデ?」

「やばいものを扱う連中だから、やっぱりやばいやつらなわけだ」

「だろうナ」

 カレーをつけた食パンを食べながら話す道充に、カレーをつけた食パンを食べながら受け答えるゴブ子。

「それデ? われになにをさせたイ?」

「お前まだ扱えるんだよな?」

 そういって道充は手で何かを握るようにして小さく振ると突き刺すような仕草をしてみせる。

「当たり前ダ」

 ゴブ子は脇に置いてあったスプーンを手に取ると片手で器用にまわしてみせる。それから皿に盛られたカレーをすくって口に運ぶ。それを見て道充は頷いた。

「隠れて様子を見てもらいたい」

「それデ?」

「取引がうまくいくならそれでよし。もしこじれたら」

「相手を殺せばいいのかカ?」

「それは飛躍しすぎだ。取引相手を殺して誰と取引するんだ?」

「じゃあどうすル?」

「牽制しろ。場を支配するのが目的だ」

 それから道充は少し肩をすくませた。

「そのためになら、取り巻きのひとりふたりは、まぁかまわない」

「なるほド。承知しタ」

「うまくやればこっちに有利な取引にできるしな」

「それは腕が鳴るナ」

 ゴブ子は再びスプーンをまわす。

「やめろカレーが飛ぶ!」

「おっト、すまン」

「もっともお前の出番が無いのが一番いいんだがな」

「そうなのカ? まぁそうだろうナ。つまらんガ、取引がうまくいくならそれでいいカ」

「そういうことだ」

 道充は頷くと食パンでカレー皿をぬぐい始める。皿にこびりついたカレーが綺麗に拭い取られると、食パンを口の中に放り込んだ。

「しかし本当にカレーが好きなんだナ」

 その様子を見ながらゴブ子が耳を動かしながら告げる。

「好きだよ。三食一週間は余裕だね。まぁやらないけど」

「なら週一でカレー作ってそれを食べるようにしロ。毎日コンビニ弁当よりはましダ」

「以前はそうしてたんだけどな。飽きた」

「飽きてるんじゃないカ!」

 食器を片付けながら突っ込みを入れるゴブ子。道充は笑いながらコーヒーを淹れる準備を始める。

「それデ? 取引はいつダ?」

「ああ。この後、午前中に済ませる」

「明るいうちから闇取引カ?」

「暗けりゃ目立たないってことはないぞ? 合法的な取引を装うなら、明るいうちにやるのも間違いじゃない」

「それもそうカ」

 ゴブ子が洗い物を終えてテーブルにつくころには、キッチンにはコーヒーの豊かな香りが漂い始めていた。




 道充は白いシャツを着るとズボンを履く。

 吊りベルトの長さを調節してから暗い緑と黒のストライプ柄のネクタイを締め、黒い布製のベストを羽織った。

 続いてキャビネットから木箱を取り出すとその蓋を開け、中に入っていたものを取り出す。

 それは拳銃だった。

 どこか古びた雰囲気の回転式拳銃。

 シリンダーの部分を前に倒すと中に弾を込め始める。

「まだそれを使ってるのカ?」

「まだって……拳銃型の呪具は今の日本では手に入れるのが難しいんだよ」

「今ノ?」

「こいつは明治時代に桑原銃砲店が特別に作った代物だ」

「明治時代っテ?」

「今から百年以上前だ」

「呪具にしては新しい部類だロ」

「リボルバー型では骨董品だがな。それでも丈夫だし整備しやすいし、名品だぞ? 元になった銃は軽便拳銃と呼ばれていてな。軽便とは良くいったもんだ」

 いいながら道充は左の腰につけたホルスターに銃を差し込む。

「使うことが無ければ一番いいんだがな。弾だって安くないんだ」

「相変わらず自前で術は使えないのカ」

「そんな素養も教養もないさ。術師の家系に生まれたわけでもないし、縁があるわけでもないしな。あったのは呪具を扱えるって素質だけだ。そのおかげで私立審問官手伝いのバイトから、何の因果か目をつけられて国連の審問官になったわけだが、今となってはそんな素質があったのが良かったのか悪かったのか」

「白兵系の呪具ならそれほど消費しないゾ」

「近接戦闘の才能なんかそれこそ無いし、付け焼刃でそんなもの使うと呪具自体を壊すのがオチだ。逆に高くつく。起点として使う部類の呪具なら自前で術が使えないから結局扱えないしな」

「なるほド。納得」

「そこはお前、すぐに納得するなよ」

「いヤ、反論の余地はまったくないナ」

「まったく……」

「それよりわれの得物ハ?」

「おっと、そうだった」

 道充はキャビネットから短剣を一本取り出す。

 ゴブ子は受け取って鞘から抜くと、波打つ刃を持つ両刃の短剣だった。

「一応呪具だぞ。『おまじない』程度だが」

「われは呪具じゃなくテ、普通に斬れるやつがいいんだがナ」

「まぁそういうな。無いよりましだろ」

 ゴブ子は値踏みをするように左右にゆっくりと振りながら短剣の表面を表裏と眺める。

「受けるのにはいいかもしれんガ……もう一本あるといいナ」

「包丁でも持っていくか? 結構切れるだろ? あれ」

「調理に使う道具デ、人を傷つけるのは避けたイ」

「……たまに妙に常識的なことを言うよな」

「そうカ? まぁいイ。これだけで十分だロ」

 ゴブ子は短剣を鞘に収めると、ズボンのベルトに挿す。そうしてからパーカーを羽織ると腰の当たりに手を当てた。

「抜きにくいナ」

「現場で隠れたら先に抜いておけ」

「そうするカ」

「よし、いくか」

 そういうと道充は上着を着ると、その上からトレンチコートを羽織り、オールバックに整えた髪の上から黒いフェルト帽をかぶる。そして脇に置いた黒いパイロットケースを手に取ると、反対の手で眼鏡を直した。

「相変わらず怪しイ」

「お前に言われたくはないな」

「目立つんじゃないカ?」

「それが意外とそうでもない」

「マジかァ」

「まじまじ」

「主がそう思ってるだけじゃないカ?」

「否定はしない」

「しろヨ!」

 他愛もなく言い争いながらふたりは部屋を後にする。

 最後に暗くなった部屋の中に鍵を閉める小さな機械音が二回、部屋の留守を任されるように残された。




 むき出しの鉄骨で組まれた倉庫の梁の上、ゴブ子は錆が下にこぼれない様注意を払いながら様子をうかがう。

 道充が見える。相手はふたり。

 道充の相手をしているのは道充と同じくらいの背丈の、ジーンズにジャケットを羽織ったラフな感じのする体格のいい人物。

 その後ろに背の少し低い小太りな男。こちらはスーツを着ている。

 見た限りではこの倉庫にいるのはそのふたりと道充とゴブ子、その四人だ。

 そのほかに相手の手勢が隠れているような気配はゴブ子には感じられなかった。

 となれば、もし話がこじれても二対二だし、自分が隠れている分、こちらが優位だとゴブ子は感じていた。

 ただ油断はできないとも感じていた。

 あの小太りの男、見た感じは冴えないがおそらくは交渉相手の護衛で術師だろう。

 それが一番の懸念材料だ

 道充がポカをしかねない、という懸念もあったが、それは自分がフォローすればいい。ゴブ子はそう考えていた。

 ゆえに懸念はあの男一人。

 無論想定外の突発事項は起こりえるが、こうして身を隠した自分がここにいるのは何にも代えがたい優位だとゴブ子は確信していた。

 ここに自分が隠れている以上、多少の想定外、例えば増援、などがあっても対処できる。ゴブ子はそう自負する。

 ただ、そんな思いは杞憂とばかりに眼下では何も起こらない。

 和やかな雰囲気さえ漂ってくる。

 そして道充と相手は握手を交わした。

 そこまで見届けたゴブ子は手にしていた短剣を静かにしまう。

 もう一度下に視線を向ける。

 その時、ゴブ子の瞳にはこちらを見上げる小太りの男の瞳が映った。

 否、這入り込んだ。

 不味い!

 そう悟った直後には、ゴブ子の身体は硬直していた。



 

 ゴブ子は激しい衝撃とともに身体が投げ出され、床にたたきつけられるのを感じた。

 しかし目の前は薄暗く、身体の自由は全く効かない。

 すぐに目の前が明るくなる。さらに身体が宙に浮き、手荒く身体が回転すると、再び身体が床に打ち付けられる。

「手間をかけさせやがって」

 男は大きなダッフルバックを投げ捨てると、床に転がるゴブ子を強引に起こす。

 身体が起き上がったことでゴブ子は周りの様子を少し見ることができた。

 殺風景な灰色の部屋。

 壁ぶら下がるこれ見よがしな鎖や手枷。

 視界の隅に映る棚にも得体のしれない道具が見てとれる。

 ゴブ子を起き上がらせた男は道充と交渉していた男だ。

 そしてその背後にはあの小太りの術師がいる。

「あまり手荒な真似をするな」

 ゴブ子の視界の外から、別の少ししわがれた声が耳に入る。

「金髪のゴブリン娘は珍しい。ひょっとすると高貴な血筋かもしれん。いずれにせよ高値が付く」

 そう言いながらゴブ子の視界に現れたのは温和な表情をした品のよさそうな老人だった。

 ただ温和そうにほころばせた目元に対して、その眼光は鋭く、硝子玉のように閉ざされていた。

「やんちゃなのもそれはそれで微笑ましいが、躾は必要だ」

 そういってゴブ子の目の前に突き付けられたのは歪な形をした太い棒状の物。何に使うかはゴブ子にも予想がつく。余りにも典型的な展開に笑いが漏れそうにもなるが、そこは飲み込んだ。

 ただ状況が芳しくないことも確かだ。ゴブ子は思案を巡らせる。

 さすがにこの場から逃げ出すのは難しい。

 一度逃げている以上警戒も倍増だ。

 素直に調教を受けるふりをして、屈服を装い、他に売られる時が逃げる狙い目か。

 ゴブ子はそう腹を決める。

 しかし……

 ゴブ子の思案はすでに別のところに飛んでいた。

 なぜバレた?

 われの隠伏はほぼ完ぺきだ。

 絶対とまではいわないが、ああも易々と、しかも不意打ちを受けることはあり得ない。

 バレたというよりも知られていたということになる。

 なぜあそこにわれがいると知られた?

 実際のところ結論は出ている。

 あの場でゴブ子があそこに隠れていることを知っている人物はひとりしかいない。

 その人物が相手にゴブ子の場所を教える動機も考えが付く。

 道充だ。

 しかも取引の品はサファイアではなくゴブ子だったのだ。

 さらにゴブ子を引き渡せば借金は無くなり、サファイアは道充の手元に残る。

 そうしてからサファイアを処分すれば道充が丸儲けだ。

 そんな馬鹿な。

 感情がその思考を排除しようとするが、排除しようとすればするほどそれこそが唯一無二の真相ではないかと、頭の中に広がっていく。

「今更後悔しても遅い」

 老人は初めてその目を揺らした。おそらく自然と顔を歪めたゴブ子がこの先受ける仕打ちに恐怖していると誤解したのだろう。ゴブ子はさらに顔を引きつらせる。

「まずは服を剥いで磔ろ」

 老人のその言葉に男がゴブ子の服に手をかける。

 強張っていた身体が急に楽になるが、今度は逆に自分の身体ではないかのように全く力が入らない。

 なんとか視線だけを巡らせてみると小太りの術師の目がこちらを見下ろしているのが見えた。

 男は意外と几帳面に服を破いたりせずに丁寧に脱がせていく。

 ゴブ子はまるで男児に悪戯される着せ替え人形のように、抵抗する術もなく、見る間に晒と下帯だけの格好にされてしまった。

 その恰好のまま男はゴブ子の首根っこを無造作につかむと持ち上げる。

 借りてきた猫のようにだらりと肢体を垂らしてぶら下がるゴブ子。

 男はそのまま壁際へと進む。

 その時、不意に大きな音が部屋の中に鳴り響く。

 瞬間、ゴブ子は肢体に力が戻るのを感じた。

「ぐふっ」

 ゴブ子は身体を反らせて大きく勢いをつけると自身を吊り下げる男の腹部にかかとを叩きつける。首をつかんだ手の力が抜けるのを感じると、身体をひねって首の束縛を振り払い、その反動で壁に飛ぶ。

 そして壁を蹴ると男の顔面目掛けて蹴りこんでいく。

男は左腕でそれを防ぐと右腕を横に薙ぐ。

 ゴブ子の動きは鋭いが、いかんせん男とは体格差がありすぎる。

 初手は不意打ちである程度の衝撃を与えられたが、身構えられてしまうと体格差が顕著に出てしまっていた。

 ゴブ子は蹴った反動で再び壁に両足をつくと、今度は男ではなく、男を避けるように横に飛んだ。

態勢を立て直しつつ視界を周囲に広げる。

 老人は部屋の隅へと移動している。

 その老人を守るように小太りの術師が立ちはだかる。

 それに対峙しているのは道充ともう一人の男。

 道充は拳銃を、もう一人の男は呪符の様なものを駆使しているが、ゴブ子の目には術師の方が有利に映った。

 道充の銃が大きな音と共に白い閃光を放つ。

 その軌跡は螺旋を描いて術師に当たるが、当たるというよりも吸い込まれるという方がしっくりくるぐらいに術師に対して打撃になっているようには見えない。

 男の札も繰り出される度に術師の周りを旋回し、おそらくは結界を張ろうとしているのだろうが、次々と火を噴いて灰となり、塵と消えていく。

 ゴブ子の記憶が確かなら道充はすでに四発撃っている。弾倉には二発。予備弾は不明。

 男の方もそれほど多くの札は持っていないのだろう。駆使する頻度が慎重になりつつある。

 つまりこのままではじり貧なのは明らかだった。

 体格の良い男がゴブ子めがけて無造作に蹴りこんでくる。

 ゴブ子は身体を低くしたまま横に転がりそれを避ける。

 体格差は不利でもあったが、その体格差が有利にも働いていた。

 とにかく身長差があるため、相手はかなり低い場所を攻撃しなくてはならず、ゴブ子はそれを利用して、床を滑るように避け続ける。

 とはいえこのままでは埒が明かない。

 体格差を覆す何か、何か得物があれば、そう思った瞬間にゴブ子の耳に声が飛び込んだ。

「ゴブ子!」

 次の瞬間にはゴブ子は床を滑ってきた二振りのナイフを手に取り、そのまま大柄男の股下をすり抜ける。

背後に回ったゴブ子はそのまま飛び上がり、その肩に乗って男の首に両足を絡ませると、両手に持ったナイフを振り上げた。

「殺すな!」

 瞬時にナイフが回転し、男の両こめかみにナイフの柄頭が叩きつけられる。

 男の身体が大きく揺れる。男の身体が倒れる前にゴブ子は肩から飛び降りると、その身体は真直ぐに術師へと飛びかかる。

 術師の目がゴブ子をとらえて大きく開く。

 しかしその視線を、ゴブ子は手にしたナイフを自身の目の前にかざすことで断ち斬った。

 そのまま身体をひねるようにして、自身を軸に両手に持ったナイフで斬りかかる。

 指を立て、両手で空を切り、迎え撃とうとする術師の身体が大きな音と共に歪に仰け反るように崩れる。

 術師の肩と脇腹が大きく削げていた。

 その先にいたのは拳銃を構えた道充だった。

 さらに術師の周りに五枚の呪符が旋回する。

 術師は体勢を崩しながらも指で空を切った。

 術師の影が歪に広がり、その身体が影の沼に沈んでいく。

「逃したか」

「いや、紐はつけました」

 道充の言葉に呪符使いの男はそう答えた。

 部屋の中に残ったのは床に伸びた男と身動きできないでいる老人。そしてゴブ子と道充と呪符使いの男。

 呪符使いの男が老人の前に一歩進み出る。

「審問官の名において大協定違反の現行犯で身柄を拘束する」

 男がそう宣言すると外に控えていたのであろう、四人の男が部屋の中に入り老人と床に伸びた男を部屋の外に連れ出していった。

 それを見届けてから呪符使いの男が道充の方を向いた。

「なかなか尻尾を出さない相手でしたから助かりました」

「まぁうまい具合に情報が回ってきたからな。礼なら俺よりこいつに……」

 そう言って振り返ろうとする道充は肩が急に重くなるのを感じた。

 そして眼前に突き付けられるナイフ。

「主というやつハ!」

「早まるな。話を聞け。いや、聞いてくださいお願いします」

「……言ってみロ」

 ゴブ子はナイフを突きつけたまま静かに促す。

「とにかく尻尾をつかませない相手でな、内偵が行き詰っているところにお前が転がり込んできたんだ」

「で、われを囮に使ったト?」

「そういうことだ」

 突き付けられたナイフが少し引かれ、今度はすさまじい勢いで振り降ろされ、先ほどよりも肉薄したところで止められた。

 道充は声も出せない。

「それならそうと教えてくれればいいだロ!」

「敵を欺くにはまず味方からっていうだろ?」

「われがどんなおもいをしたかわかるカ?!」

「俺に売られたと思ったのか? それは俺を信用していなかったということか?」

「グ……」

 道充の答えに声を詰まらせるゴブ子。

「主は卑怯ダ!」

「何をいまさら」

 開き直る道充の眼前のナイフが小刻みに震え始める。

「……お取込み中申し訳ないですが、少しよろしいでしょうか?」

 一瞬即発の中に踏み込んできたのは穏やかで、しかし有無を言わさない強さを持った声だった。

「まずはご協力に感謝します。おかげで沢山の人を救うことが出来ました」

「いたのか?」

 道充の言葉に男が頷く。

「十人ほど保護しました。いま顧客名簿を探させています」

「……それは良かったナ」

 ゴブ子はナイフを道充に突き付けたまま、小さく答えた。

「だがそれとこれは話が違ウ」

「それがそういうわけにもいきません」

 男は肩をすくめる。

「彼は私の指示で内偵を行っていました。それで不手際があったのなら、その責は私にもありましょう」

「……どいつもこいつモ!」

 ゴブ子は諦めたようにナイフを下ろした。自然と道充の口から息が漏れる。

「ご理解いただけたようで感謝します」

 男は深々と頭を下げた。

「……それならわれにも報酬が欲しイ」

「そうですね。可能な限りの誠意はしめさせていただきます」

 男は頷いて見せる。

「それなラ」

 そういってゴブ子は道充を見下ろす。

「こいつとファミリアになりたいから手続きを進めてくレ」

「お前何勝手なことを!」

 声を上げる道充に対して男が手を挙げて制した。

「彼は私立審問官です。ご存知ですか?」

「無論知っていル」

「あいた!」

「こいつとは古い馴染みだからナ」

 道充の頭をたたきながらゴブ子はそう答えた。

「その彼とファミリアを結ぶということは、今後も私たちに協力いただけると考えても?」

「こいつがそうするならナ」

「いたいって!」

「それは願ってもない」

「話を勝手に、いた! いたたたた!」

 ゴブ子はナイフの柄頭で道充の頭を挟みこむと円を描くように捩じる。

「主はしゃべるナ」

「審問官はいつでも人手不足、それが増えるのはありがたい。早速手続きを進めましょう」

「よろしく頼んダ」

「いたいいたいいたい! お前いい加減にしろよ!」

「特に彼の手綱を良く握っていただきたい」

「心得タ」

「何を言ってるんだ!」

 道充の叫びをふたりは全く無視した。

「私立とはいえ審問官が借金苦から変なことに手を出されては困りますからね」

「……知ってたのか」

 こめかみを揉みほぐしながら力無く呟く道充に、男は肩をすくめる。

「まぁ私は警察ではないので、大協定に違反しない限りは言い立てるつもりもありませんが」

「……すべては大協定の下に」

「すべては大協定の下に」

 男は頷くと部屋を後にした。

「いい加減降りろ!」

 道充の言葉にゴブ子は道充の肩から飛び降りる。

「こうなったからには仕方ない。こき使ってやるから覚悟しろよ」

「逆だロ?」

 床に落ちたパーカーを拾い、羽織りながらゴブ子が笑う。

「われが主をこき使ってやル。しっかり仕事しテ、しっかり稼ゲ」

「まじかぁ……」

「われを養うためにもナ」

 ゴブ子はまさに満面というべき笑顔を見せる。

「まじかぁ……」

 その言葉と笑顔の前に、道充は天井を仰ぎ見ることしかできなかった。

                       

                   第1話完

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