第6話 緒方瑞希という少女
――――夜中に美少女が俺の部屋に!
などと青少年特有の喜びに浸ったのも束の間。景久の脳裏に過ったのは不安と疑問だった。
「えぇ……と……?」
至極当然の話ではあるが、平行世界から来た景久には彼女の名前が分からない。なんと呼べばいいのか悩んでいると、こちらの心境を察したのか、彼女は少しだけむくれた表情を浮かべる。
「酷いですねぇ。短い付き合いとはいえ、初日に自己紹介したクラスメイトの名前を憶えてないなんて……校門じゃあ、あんなに熱く見つめてたのに」
「え!? あぁ、いや、何か……悪い」
やっぱりジロジロと見ていたことを気づかれていた事と、如何せん女と……それも美少女とここまで接近したのは久しぶりな景久は、こちらの顔を覗き込む赤い瞳を前に思わず呑み込まれそうになる。
「ふふ……冗談です。ごめんなさい、少しからかい過ぎましたね」
無機質な美貌からは想像できなかった、どことなく茶目っ気のある微笑み。冷たい印象とは裏腹に、割と接しやすい人物なのかもしれないと、景久は彼女の評価を改める。
「改めてまして、1年E組の
「間宮景久だ。えぇ……と、緒方で、良いんだよな? なんか用か?」
「実は、少しお願いがありまして」
「ふぁっ!?」
蒼髪の少女……瑞希は、景久の両手を取りながら上目遣いで見つめてくる。ただでさえ美少女急接近に内心ドキドキしていた童貞少年の景久は、突然の身体接触に顔を赤くして狼狽える。
「お、おおおお願い? 俺に何を……?」
「私と一緒に争奪戦に出てくれません?」
「あぁ、争奪戦ね! 争奪戦…………って何?」
全く未知な単語の登場に思わず疑問を口に滑らせると、瑞希は訝し気な表情を浮かべる。
「説明聞いてなかったんですか? 入学式の」
「…………その時は、眠くてな」
「ふぅん……まぁいいです」
いきなりボロを出しそうになったが、ありがちな理由をとっさに並べて事無きを得た景久。そんな冷や汗を流しながらそっぽを向く彼に意味ありげな視線を送りながらも、瑞希は人差し指を立てて説明を始める。
「争奪戦っていうのは、月観川学園が大魔闘武祭に出場するクラスを決める選抜戦に参加する為の権利を得るための制度です」
大魔闘武祭。それは今日この世界に来たばかりの景久でも、インターネットで調べればすぐに知ることができた、甲子園に代わる日本最大のビッグイベントのことだ。
魔術戦という競技はオリンピック並みの規模で大会が4年に1度開かれるが、その参加者は全て大学生以上で、開催国も年によって違う。それに対して大魔闘武祭は毎年開かれる全国の異能養成学園の代表クラス同士が学校の威信を懸けて戦い合い、優勝したクラスやMVPは将来が約束されるという。
そしてこの月観川学園では、3学年のA組のみが大魔闘武祭の出場選抜戦に参加できるのだが、B組以下の下位クラスは上位のクラスに対して争奪戦という、選抜戦参加資格
「それで、やっぱり緒方の目的は大魔闘武祭ってわけか?」
「はい、狙うは優勝です」
「そりゃあ壮大なこって。で、その第一歩としてA組に勝てば大魔闘武祭の参加資格を奪い取れると。負けた時のデメリットは?」
「課題出されます。それも結構な量が」
景久は顎に手を添えて思考の海に沈む。提案に乗ることによるリスクや利益を冷静に踏まえ、瑞希の申し出にこう返した。
「悪い、他当たってくれ」
大魔闘武祭は日本全国に報じられる大会。勇者に気付かれる可能性は極めて高くなる上に、参加することによる景久のメリットがない。
将来への展望は明るくなるだろうが、それが景久の望む形になるとは限らないし、そもそも前評判を聞く限りではE組がA組に勝つのは夢物語だ。
美少女との接点がなくなるのは非常に……景久にとって大事なことなので二度言うが、非常にもったいない事ではあるが、勇者に気付かれるという命の危機に瀕する可能性がある割にはメリットが無いというのは厳しすぎる。
「そうですか……断るんですか」
「あぁ。流石に何の勝算もなしに挑めるほど――――」
「A組の兵藤さんを一方的にボコした間宮さんの力を、是非とも借りたかったんですが」
扉を閉めて話を終わらせようとした矢先、そんな言葉が飛び出してきて、景久はギギギと錆び付いたような動きで瑞希を見る。
「……見テタ?」
「全容までは見てませんが……いきなり三人の姿が消えたと思ったら、A組の兵藤君がギッタギタにされた後、
「それほぼ全部じゃねぇかっ!!」
気分はまさに最悪だ。今の景久は、今後の学園生活を左右する重大な弱みを握られているに等しい。
「九条君にも話を聞きましたが、今日兵藤君に会ったことすら覚えが無いと言われる始末。まるで記憶を無くしたかのように……そんな魔術
「くっ……! お、俺を脅すきかっ」
流石に平行世界からやってきたという荒唐無稽な結論には至っていないようだが、強いスキルと魔力ですべてが決まるという異能保持者たちの世界の価値観を根底から覆すことをやってのけたと捉えているようだ。
(仕方ない、ここは【マインドアウト】で記憶を操作するしか……!)
情報は瑞希の所で止められており、今までのセリフから察するに、男子二人に施した魔術は解除されていないし、操られた自覚もない。ならば瑞希に対しても記憶に干渉すれば、状況は一転する。
「ちなみに、私に変な魔術を施そうとしても無駄ですよ」
景久が【マインドアウト】の詠唱を唱えようとした矢先、瑞希は自分の手のひらを景久に向ける。白く小さな手のひらには、血を混ぜたインクで魔法陣が描かれており、それを見て景久は瞬時にその正体を看破する。
「【スタンアロー】の法陣術式!? 予め描いてやがったな!?」
細い電流を飛ばす初級魔術、【スタンアロー】。殺傷用ではなく鎮圧によく使われる簡単な魔術で、対策も無しに直撃すれば、手足はおろか、口すらまともに動かせなくなる、燃費の良さと発動のしやすさも相まって、戦闘でも汎用性の高い魔術だ。
「どうです? これなら魔術を発動する間もなく貴方の動きを止められますよ? まぁ、間宮君も法陣術式の用意をしていれば話は別ですが」
「もうヤダこいつっ! 無駄に用意周到すぎっ!」
予め魔法陣を描くことなどしていないし、瑞希の言葉は決して驕りやハッタリなどではない。どんなに詠唱を短く切り詰めても発動に1秒前後かかる発声術式に対し、魔力さえ流せば0.1以内に発動できる法陣術式が相手では分が悪すぎる。景久のように詠唱省略が出来ない上に、避ける間もないこの距離なら猶更だ。
諦めて白旗上げるしかないのかと絶望しかけたその時、瑞希は口角を少しだけ上げて小さく微笑んだ。
「ふふ……ごめんなさい、少し驚かせ過ぎましたね。誤解を与えたようなので弁明しますけど、私は何もこの事をネタに脅して争奪戦や大魔闘武祭に出場して欲しいわけじゃないんです」
「……え? 違うの!?」
てっきり、「この事を広めてほしくなければ私の奴隷になりなさいっ!」的な展開になると思って恐れていた景久を、まるで悪戯成功といった感じの微笑みで眺める瑞希。
「魔法陣を見せたのは私の記憶を消す? そんな感じの魔術を使ってほしくなかったからで、昼間の一件の話をしたのは、本当に間宮君の仕業であるかどうかを貴方の反応で見極めたかったからですが……こうも露骨に反応されると、真偽は肯定されるより明らかですね」
「…………な、ななんなななんんんののののここっここっとととかなななー??」
今更思い出したかのように、もつれまくる舌を動かして誤魔化そうとする景久。顔どころか全身に冷や汗を掻いているあたり、何よりも雄弁に瑞希の確信を保証していた。
『魔王様は平時の腹芸が苦手ですなぁ』
そんな異世界で別れた側近の言葉を思い出す。魔王などという重役を蹴った理由の一つだ。
「間宮君……できれば、1年E組全体には私と一緒に大魔闘武祭での優勝を目指してほしいんですが、それには意識の統一が必要不可欠です。やる気のない人を無理矢理動かしても、勝ち目はないですからね」
「やる気があっても勝ち目のある能力差じゃないと思うけどなぁ……でもそういう事なら、俺も遠慮なく断るぞ?」
「いいですよ? 私も地道に粘り強く誘いますから」
無機質な瞳に相反する茶目っ気のある微笑みを浮かべながら、手のひらを見せつけては言外に記憶の消去を拒否する瑞希。
「で・も……もし私と大魔闘武祭の優勝を目指してくれるならぁ……」
「ふぁっ!?」
少し話が変わるが、今の瑞希は就寝前なのか、水色の生地のパジャマだ。その上衣の第一、第二ボタンを見せつけるように外していき、小柄で華奢な体躯からは想像もできないほど豊かに実った谷間を露出する。見え隠れするレースの正体を知ろうとすれば、童貞少年の脳は興奮でパンクすること必至だろう。
「私の事……好きにしてもいいんですよ?」
幼い顔立ちが、なぜか年上の美女のそれに見えるほど妖艶な声色で景久の脳を揺さぶる。まるで慌てふためく子供をからかう女のような悪戯心を瞳に宿し、瑞希は上目遣いで景久を見つめる。
「ふん……この俺を甘く見るなよ」
魔王を見縊るな。そんな揺らめく炎のような気迫を発して瑞希を威圧する景久。その姿は異世界で戦乱を駆け抜けた魔王そのもの。幾銭の益荒男どもを従え、幾万幾億の敵に挑み勝利した、王者の覇気。
「そんなありきたりな誘惑に俺が惑わされると思ったら大間違いだぜ。顔を洗って出直してきな!!」
「そう言いながら私の胸元ガン見してるじゃないですか」
「しまった!? つい条件反射的なやつでっ!?」
顔見ながらではなく、至近距離でおっぱい見ながら啖呵を切っていた景久は、瑞希の的確な指摘に慌てて視線を逸らしながら何度も
魔王といえど童貞少年。益荒男従えようとお年頃。厄介ごと募集していなくても彼女募集中。所詮はこの手の誘惑には逆らえない、悲しい業の持ち主だった。
「あはははっ。こんなありきたりな色仕掛けに引っかかる人がいるもんですねぇ。流石に冗談ですよ、冗談」
ケラケラと瑞希は楽しそうに笑う。
「え? 冗談…………も、もちろんそうじゃないかと思っていたぜ? 何せこうして会うのは初めてなのに、いきなり何してもいいなんて虫の良い話があるわけ――――」
「9割は冗談です」
「9割!? 9割ってなんだ!? 残りの1割は何なの!?」
何やら意味深な言葉に異常なまでに食いつく景久。その瞳は、僅かな可能性にも生死を掛ける
「残り一割は間宮君の頑張り次第で増えていくものですねぇ。何がとは言いませんが」
「そ、それって……もしかして頑張れば脈ありという事でしょうか!?」
「あれ? どうしたんです? こんなありきたりな誘惑には惑わされないんじゃなかったんですか?」
「はっ!? そ、そうだった……! 俺はこんな誘惑になんか負けない、色欲なんかに負けないんだからっ!!」
幼さと艶っぽさ。華奢と豊満が同居した魅惑的な肢体と美貌に弄ばれる景久を、瑞希は楽しそうにからかい続けるのであった。
そして翌日。景久にとって初めての高校生活初日のホームルームは、E組寮の近くに建てられている旧校舎で行われていた。
「今日も全員出席だな。各自、問題を起こさず自習に勤しむように」
明らかに投げやりな態度の担任教師ならぬ、日によって違うというE組ホームルーム当番の教師の言葉を、教室に集う10人の生徒は適当に受け流す。
これが終われば各自好きに過ごすらしい。勤勉な少数派は本当に自習して過ごすのだが、E組3学年は授業の妨げにならないように遊ぶかバイトをするかであると、日記に記してあった。
「あぁー、それから昨日、A組の兵藤が暴漢に襲われたのだが……まぁ、お前らには関係ないか」
それはE組生徒は実力不足でA組生徒をどうこうできるとは思ってないから事件には無関係だという意味か、たとえ防寒が出てもE組が被害を受ける分は問題ないという意味か……恐らく両方だろう。
さっさと教室から出ていく教師の背中を眺めながら、E組の待遇の低さを実感する。普通なら注意を呼び掛けるくらいの事はして然るべきだろう。
『あー、終わった終わった』
『寮戻ってゲームしようぜ』
『あー、俺今日昼からバイトだわ』
朝だというのに既に放課後の喧騒が教室を包む。こうして眺めてみれば、やけに男子生徒が多いことに気が付いた。1年E組の生徒数は合計10人、内男子が8人で、女子は瑞希を除けば一人しかいない。
その瑞希も、もう一人の女子と談笑をしている。景久は争奪戦の勧誘を避けるため、その機を逃さずひっそりと教室を抜け出した。
旧校舎を出てすぐに雑木林を駆け抜け、グラウンドの方に迂回しながら本校舎に忍び込む。上履きは旧校舎に置きっぱなしにしているので、靴下のまま細かい埃やチリが多い学校特有の廊下を進んでいく。
「ふぅ……ここまでくれば緒方も追ってこれないだろ」
「そうでもないですよ」
「ほぎゃあああああっ!?」
玄関の方を振り返りながら呟いた瞬間、いつの間にか進行方向に居た瑞希に驚いて情けなく尻餅をつく景久。
「お、おおおおお前何時からそこに!?」
「はいはい、驚いたのは分かりましたから、あまり騒いだら駄目ですよ。授業中ですから」
狼狽える景久の口に、瑞希は自分の人差し指を当てて黙らせる。胸以外は幼さが強く残る外見だというのに、仕草や表情はどこか蠱惑的だ。
「お、お前マジどうやって追いついた? 完璧撒いたと思ったんだけど……?」
「あぁ、そこは私のスキルを使って」
スキル。それは魔力と共に発現し、体内の魔力の放出によって発動する、術式を用いない神秘であるというのが世間の認識だ。その詳細はいまだ不明であり、個々人によって能力に違いが現れる異能である。このスキルと魔力を持つ者が異能養成学園に通い、
「私のスキルは【探索】。私を中心に最大数十kmの間の地形や人の位置を探知できるんです」
「鬼強いじゃん!? なんでお前それでE組に居んの!?」
「いやぁ……実は私、スキル発動中は発声術式の殆どが使えなくなるんですよね。スキルの方にリソース奪われて」
景久は首を傾げる。魔術が使えなくなるとしても、戦況全域を把握しうる破格の能力のはずなのに。
「ま、まぁ……それで俺の居場所が分かったのは理解できた。それで、何の用だよ? また俺を勧誘にでも来たのか?」
「いえいえ、何かコソコソと移動し回っているので何してるのかなぁっと。そんなしつこく勧誘されたら間宮君も嫌でしょうし」
「正直、行き先を知られるだけでも嫌なんだけど……ていうか、友達は良いのか? 話してたろ?」
「さっちゃんは今日、バイトなのです」
さっちゃん。恐らく、先ほど瑞希と談笑していたクラスメイトの女子のあだ名だろう。
「でもE組がわざわざ居心地の悪い本校舎に入るなんてまず無いじゃないですか。ましてそれが、私が意識してる人だったら気になりません?」
「いや……まぁ、確かにそうだけど……」
私が意識している人。そう言われて鼓動が高鳴る景久。一々こちらを惑わすかのような言動が多い少女だ。それがからかい半分であることは何となく察せられるが、それでも意識するなと言われれば無理がある。
「それに、私も本校舎に用がありましたし」
「用?」
「はい。ちょっと授業を盗み聞きしに。本やネットの独学じゃ限界ありますしね」
どうやら瑞希はE組の中でも少数派、魔術の腕を上げて成績向上を目指すタイプらしい。高校生部門の中で日本最大の魔術戦の大会で優勝を目指すならそのくらいは当然なのだろうが。
「間宮君は? 本校舎に何か用があってきたんですよね?」
「…………」
景久は言い難そうに口をモゴモゴと動かし、やがて観念したかのように言葉を絞り出す。
「いや……実は俺も、授業を盗み聞きしに……」
パチクリと、瑞希は瞠目しながら虚を突かれたような表情を浮かべ、次にニンマリと悪戯好きな子供のような笑顔を浮かべて、一方的に景久の腕を組む。
「ふぉおおおおおおおおおおっ!?」
「じゃあ私と同じですね。せっかくだから一緒に行きましょう」
鼻腔をくすぐる甘い香り。腕に伝わる体温と、暴力的な質量を伴った柔らかさ。異世界で覇を唱えた元魔王は、女子高生に言いように翻弄されていた。
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