第2話上空1万メートルの空より

 時を遡ること5日前。

 異世界から地球に転移したはずの景久は上空約10000メートル、雲のすぐ下から落下していた。


「いや、なんでだぁああああああああああああっ!?」


 紐無しバンジージャンプ、パラシュートの無いスカイダイビングとは投身自殺を遠回しに表現した台詞だが、まさか自分がそれを体現することになるとは微塵も考えてなかった景久は、別れの際に溢れた涙を空に散らしながら悲鳴を上げる。

 送還魔法陣の不備か、はたまた異界同士が干渉したことで予期していない変化が起きたのか、理由は定かではないが、ただ一つ確かなのは、このままでは地面に叩き付けられて死ぬという事だ。


(だが問題ない……! この程度、魔術で幾らでも切り抜けられる……!)


 地球の文明では間違いなく死亡確定することでも、超常の力である魔術であれば自分の身を守ることは容易い。

 例えば炎。地球では人が火を生み出すには可燃物、酸素、熱源を用意することで初めて発生させられるが、それはあくまでその3つを用意できればの話だ。

 ライターの様に簡単に火を起こす道具が開発されて久しいが、それらも無い状況にあって火を起こそうとすれば、それこそ原始人よろしく枯れ木同士を擦り合わせ、時間を掛けて火を起こすしかないだろうし、何もない上空では不可能だ。

 魔術とは、地球とは異なる異世界で生み出された、火を起こすなどといった現象を人為的に引き起こす為の準備を、全てその身一つで用意するための術である。

 必要なものは大きく分けて魔力と術式の2つ。

 まずは魔力の発動させるためのエネルギー源であり、体内に内包する生命力とも言える魔力。これに関しては問題ない、地球に戻ってきた時に発動した送還魔術は側近だったデーモンが発動したものであって、景久の魔力は十全であることを自覚できる。

 次に術式。これは科学で例えるならガソリンで動く車、電気で動くパソコンのようなもので、魔術とは術式に魔力を通して初めて発動でき、一定の法則で描かれた円や文字に魔力を流して発動する〝法陣術式〟に、ルーン言語という魔術文字を声に出すことで発動する〝発声術式〟などがある。

 今景久が居るのは上空。まさか何もない空中で魔法陣を描けるはずもなく、彼に採れる選択肢は発声術式に限られるのだが――――


「あ……ぶ、ろろろろろろ……!!」


 落下に伴う空気の流れのせいで、口を開ければ頬がベロベロと波打ってまともに詠唱できない。そうこうしている内に地表は間近に迫っている。絶体絶命、故郷に帰って早々、あわやここまでかという諦めが脳裏を過ったが、電球を幻視するかのようにひらめく。


「口を手で覆えば良いじゃん!」


手のひらで口元を覆い、すぐそこまで迫ってきている地面を見てから、景久は慌てて詠唱を唱えた。


「《駆けろ風天。戦槌となりて打ち倒せ》っ!」


 次の瞬間、地面に向かって伸ばされた景久の右手から一方向に吹き荒れる、爆発的な暴風が砂塵と木の葉を巻き上げ、落下する体に急激なブレーキをかける。

 初級魔術、【エアストライク】。人一人を吹き飛ばし、太い木の枝程度なら割り箸のように圧し折る風の魔術だ。

 使いどころを考えなければ殺傷性が低い、初級の名が示す通り初心者向けの攻撃魔術だが、使い方によっては自身に降りかかる危険を回避するためにも活用できる。


「ぶへぇっ!?」


 もっとも、今回の場合は少し強く地面に叩き付けられることになったが。幸い怪我らしい怪我も無く、生きたまま紐無しスカイダイビングを切り抜けた景久は、痛

む体を摩りながら辺りを見渡した。


「……ここって、月観川市か?」


 今景久が居るのは山を少し上った場所に位置する雑木林。そこからは見覚えのある電波塔と、これまた見覚えのある校舎が確認できた。


(月観川ランドマークタワーに月観川学園……そうか、ようやく日本に帰って来れたんだな)


 1年以上もの間、過酷な戦場に魔王として身を置き続けた景久は、久しぶりに見た祖国を前に、感慨深いものが胸中に宿るのを自覚する。

 山や街のいたるところに桜の花が咲いていることから今は春であるという事が理解できた。これで今日が異世界召喚された日にちだったら、送還魔術は大成功だと考えながら街へ降りようとするが、ふと気になるものが見えた。


「…………魔法陣?」


 先ほどの【エアストライク】の影響だろう、ところどころ削られているが、残された部分は景久にとって非常に馴染み深いものだ。


(家畜の血を混ぜたインクに、この外周のルーン文字の並びは……異世界召喚式?)


 魔法陣を描くには魔力の燐光りんこうか血液を使用するのが常で、後者の場合はインクに混ぜるのが一般的だ。目の前のそれは景久にとっても因縁のある、異世界の強者を召喚するのに用いられる魔法陣の残骸だったが、彼にとって最大の問題はそこではない。


(おいおいおいおい、ちょっと待ってよ。何で地球に異世界とまったく同じルーン文字と、同じ法則で描かれた魔法陣があんのさ!?)


 これがオカルト趣味の変人とかが適当に書いたというのなら、魔力を流しても何の効果もない、景久が知る魔法陣とは全く別物であってしかるべきである。  

 しかし驚くべきことに、残された魔法陣は景久が召喚された異世界の魔法陣と類似するどころか、全く同じ方式と文法を用いて描かれているのだ。

 これをただの偶然と切り捨てるのは容易い。だが、魔王として勇者に命を狙われ続けた景久の直感が、非常に面倒な事になっていると告げていた。


(……異世界の魔術が、地球に流出している? ……ははは、んなバカな)


 そう笑い飛ばせれば気楽なのだが、そうは出来ないものがもう一つ地面に転がっているのだ。


「……マジかよ。この仏さん、魔力どころか生命力まで根こそぎ吸い取られてんじゃん」

 

 おそらく召喚儀式の術者なのだろう。月観川学園の男子制服に身を包んだ、元の顔がまるで判別できそうにないミイラが木にもたれ掛かっていた。

 着ている服や肩から下げている鞄の新しさに対して、まるでピラミッドから掘り当てましたと言わんばかりの死体の乾燥具合。異世界でもよく見た、分不相応な儀式の行使によって術式に魔力や生命力を根こそぎ吸い上げられた術者の末路だ。


「異世界召喚式なんて大掛かりな準備と大人数で行って、ギリギリ低確率で成功するからなぁ。この末路もしょうがないっちゃあ、しょうがないんだが」


 スケールにもよるが、時間操作や異世界干渉など、超大規模な魔術を一人でこなそうとすれば、このミイラのような死体が出来上がってもおかしくはない。

 

(しかし……目の前の死体を見て驚きはしても、動揺はしなくなったとは……俺も何時の間にかこういうのに慣れちまったよなぁ)


 大勢の仲間の死を乗り越えて来た経験に想いを馳せていると、景久はある可能性に思い当たった。


「まぁ、俺がこんな山の上に召喚された理由はこれって事が分かったな」


 だとすればこの場所に戻ってきたのは必然だった。魔力も生命力も術式に丸ごと吸い上げられたのなら、儀式は途中まで正常に発動していたのだろう。

 途中で魔力が切れて中断されても、そこには魔術の名残りが残るもの。送還儀式によって異世界から地球へ移動する際に、異世界召喚式に吸い寄せられる可能性は高い。


(となるとつくづく分からない。なんたって異世界の化け物なんか呼ぼうとしたんだ? この仏さんは)


 異世界召喚式とは、別次元から召喚先の世界の規格を超えた化け物的な強さ、もしくはそれだけの潜在能力の持ち主を召喚する大魔術。

 服装から察するに月観川学園の生徒なのだろう。そんな20歳にも満たない少年が、世界的に平和な日本に似合わない化け物を呼ぼうとする事情も謎だし、そもそも何で景久が知っている異世界の魔術を使用できるのかも謎だ。

 

「……悪いな、ちょいっと鞄見せてもらうぞ」

 

 そう一言断りを入れてから鞄のチャックを開く。中身は学生らしく教科書やスマートフォン、それから財布や学生証などだが、いずれも景久を驚かせるに足るものばかりであった。


「魔術Ⅰの教科書って何!?」


 さも当然のように現文Ⅰや数学Ⅰといった一年生用の教科書に混じって鞄に収められていた、初級魔術に関する魔導書のカラーコピー本に驚きを隠せない景久。


「えぇい、何時からだ!? 何時から月観川学園は平然とこんな頭が痛い教科書を発行するようになった!?」


 そう言いながらページをパラパラと捲り、裏表紙に書かれている持ち主の名前を確認する。


「成程、この仏さんの名前は間宮景久って………………はぁ?」


 まさか全く見覚えのない教科書に自分の名前が書かれているとは思わず、唖然とした間抜け面を晒す景久。

 ふと脳裏をかすめる疑念を明らかにするように、慌てて学生証を開くと、そこには小さな写真に収められた自分の姿が張り付けられていた。


「ちょっと待てって……! もしかしてここって俺が居た地球の平行世界……!? 過去を塗り替えられたって事か!?」


 科学万能の世界だった地球にはありえない、魔力を流せば機能する、〝景久が召喚された異世界の公式や文法で描かれた〟魔法陣の存在。

 魔術Ⅰの教科書を慌てながらじっくりと読めば、『魔術やスキルが戦争を通して我々に与えた影響は大きく……』といった、魔術やスキルが存在していて当たり前であるかのような常識を示唆する文章。

 そして今ここで死んでいるもう一人の自分。これら全てが、歴史を歪められて生み出されたものであるという事を雄弁に物語っていた。


「まさか……!」


 久しぶりにスマートフォンの画面をタップする。幸いにもインターネットに接続してあったので、とある人物の名前で検索すると、とんでもないヒット数が表示さ

れた。


「……昨年の世界ユース闘技大会優勝、極東の天才少年、人呼んで《大勇者》……勇原一輝ゆうばらかずき


 画面に映る写真を見た瞬間、ギリィッと、握ったスマートフォンが軋む。


「勇者の野郎……まだ生きてやがったのかぁああああああああっ!!」


 現在この世界を騒がせる少年の名前は、魔王である景久の怨敵のものだった。

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